「依存と自立」⑤

2018-04-05 01:10:27 | 従って、本来の「ブログ」

          「依存と自立」⑤

 

 「自立」意識は運動能力の獲得によって生れた。運動は手段であ

り、手段は目的をもたらす。いや、目的への強い思いが手段をもた

らしたのかもしれない。運動はエネルギーを消費するためその目的

は専ら摂食と被食(食べられること)から遁れるための手段であった

。つまり運動とは動物が生き延びるための手段であった。運動の獲

得によって動物は外部への感覚を発達させ、主体としての自意識が

芽生え、運動と自意識が一体化した。そして厳しい生存競争の世界

で生存の命運は自らの意識が負うようになった。生死は自らが判断

する運動によって決定する。つまり運動の自由が「自立」をもたら

した。

 そもそもすべての生命は自然環境に「依存」せずに生存すること

はできない。運動を獲得した動物は自然環境への「絶対依存」から

離れて「自立」を獲得したが、それは「絶対自立」ではない。つま

り「依存」と「自立」は相対概念である。「自立」は「自由」と同

じように何に対する「自立」であるかを言わなければ無意味である

。さて、我々は長きに渡る肉体運動によって知識を高め科学技術に

よる機械文明を発展させた。かつてはマンパワーに頼っていた作業

も今日では様々な機械に取って代わられた。それどころか知識作業

までも機械が行うようになってもはや我々は機械文明への「依存」

なしには生きていくことはできなくなった。もしも、運動が「自立

」意識を促したとすれば、機械に「依存」して著しく運動を省くこ

とができた我々は「自立」意識を低下させてはいないだろうか?近

代文明は益々高度化してもはや人間による作業が届かない世界まで

も機械が行おうとしている。我々の運動能力だけでは到底築くこと

のできない巨大化した社会の中で運動を奪われた我々は社会に「依

存」しないで生きることができなくなって「自立」意識が退化して

いないだろうか?いまや誰も東京から大阪まで歩いて行けるなんて

思っていない。つまり文明に「依存」しないで生きることなんてで

きない。たぶん自立心を失った文明人たちによってこの文明はやが

て朽ちていくのだろう。

Baby! スクラップ&ビルトだ!

Baby! もう一度作れ

                     一応(おわり)