「依存と自立」③
また横道に逸れてしまいましたが、そこは行き止まりで何も新し
いことはありませんでした。そもそも公務に従事していた者が公の
場で、いかに法律で認められているにせよ、公が求める証言よりも
私の保身を優先させたことに憤りを禁じ得ません。政治家のみなら
ず官僚までもが都合の悪いことは公にせずに口を拭ってしまえば国
政への不信はいや増すばかりである。彼らにとって公とは国民のこ
とでないことだけは確かのようだ。それは国民主権を掲げる民主主
義政治の危機に違いない。
さて、再び縦道に戻りますが、すべての生命体は外部環境に「依
存」して生存していると言いましたが、たとえば植物は大地に根付
いて土壌の養分を吸収し葉を繁らせ、繁った葉は光と大気とそして
根から吸収した養分で光合成を行って成長します。つまり生命を維
持するための活動はすべて外部への「依存」によって成り立ってい
ます。何らかの理由で外部環境が失われてしまえば忽ち生存するこ
とができなくなります。すべてを「依存」に頼らざるを得ない生命
体に「自立」という言葉は無縁です。では動物はどうでしょうか。
植物との大きな違いは運動能力を獲得したことにあります。運動能
力は「依存」の束縛から脱け出す自由をもたらしました。そして運
動の自由こそが「自立」意識を目覚めさせたのです。それぞれの命
運は自らがどう運動するかの判断に委ねられた。とは言っても動物
もまた生命を維持するための糧を植物に「依存」し、呼吸は大気に
「依存」しています。すべての束縛から「自立」した訳ではない。
つまり「自立」とは「依存」の上に成り立つのです。更に社会の中
で生きる我々にとっては社会に「依存」せずに「自立」することは
できません。それどころか社会の近代化が進んで生活全般から医療
や娯楽までも、我々はすべてのことで科学技術に「依存」せずに生
きることはできません。自動車を例に挙げれば、運動の自由が「自
立」をもたらしたとすれば、自動車に「依存」することによって運
動の自由、つまり「自立」は失われました。こうして近代社会では
益々社会への「依存」度が大きくなって、ついには「自立」意識が
失われてしまうのではないかと危惧します。生きることのすべてが
社会に「依存」しなければならなくなれば、それは管理社会です。
(つづく)
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