(七)

2012-07-11 06:10:55 | ゆーさんの「パソ街!」(六)―(十)
                   (七)



 バロックが加わることで親子ふたりの生活は最低限ではあるが共

同体へと変化した。それまでは「0」と「1」しかなかったが、バ

ロックが来て「2」と言った。そこで、親子で分かり合えていたこ

とをバロックにも伝えなくてはならなくなった。もちろん、ミコが

抱える過敏症のことや、その結果自然循環を優先した生活を心掛け

ていることに彼も同意した上で、まずは身近なところから生活を見直

すことにした。ある日夕飯が済んだ後、わたしがふたりに提案した。

「もう便所を使わんと野に放(ひ)ることにせえへんか?」

すると、まだ箸を置いていなかったミコが悲鳴を上げて反対した。

「もう、まだ食べてんのに!」

「すまん、すまん!」

それでもわたしは止めなかった。もともと、わたしとバロックは立

小便で用を終えるが、大便も同じように野に放ろうと提案した。そ

もそも糞尿といったものは野晒しにすれば自然分解されて何の問題

もないのに、わざわざ肥溜めの中に貯め込んでしまうから処分に困

るんだ。更に、野に放れば農作物を狙うケモノたちもそれを嗅いで

警戒してきっと近づかなくなると自論を述べた。すると、ミコは、

「お父さん、私のこと全然考えてない!」

そう言って反論した。女は男のようにそう簡単に用を足すことが出

来ないし、もっとデリケートな問題もあるのだと言った。そう言わ

れると男は返す言葉がなかった。自然の中で暮らすということは、

そういったデリカシーが希薄になって来ると薄々気付いていたから

だ。デリカシーなどというのは人々の関係の中から生まれてくる。

山の中で誰とも会わずに暮らしているとそんな気遣いは無用になる。

ある時、農家の高齢の女性が畑仕事の途中に男性専用の便器のアサ

ガオに向かって見事に立小便をしているところに出くわしたことが

ある。恐らく誰も来ないと思ったのだろう。わたしは知らん顔して

その横に行って用を足す勇気はなかった。いずれミコもこんな山の

中で暮らしていればさすがに立小便はどうか解からないが、陰に隠

れて野糞をするようになるかもしれない。それを待つしかない。た

だ、わたしとバロックだけはこれから便所を使わずに野糞をするの

で、仮にミコがそのあられもない姿に出くわしても決して狼狽せず、

また軽蔑しないことを堅く約束させて合意を得た。すると、それま

で無言だったバロックが静かに口を開いた。

「それじゃあ、人は来てくれんわ」

「何で?」

「野糞をさせるようなところへはさすがに・・・」

「ちゃうねんて、その意識を変えなあかんねんて!」

「なんぼそう言うわれても変えれんもんは変えれん」

すぐにミコがバロックの応援をした、

「そうそう、動物とちゃうねんし」

バロックは気を良くして話し始めた。それは東北のある村で、都会

へ出た若者が生まれ故郷に帰省しない理由のアンケートをしたら、

その一番の理由が「汲み取り便所」が嫌だからということだったら

しい。それを聞いてわたしは我が意を得たりとばかりに、

「せやろっ!わしもさっきから言うてるやん。肥溜めに貯めるさか

いアカンねんて!」

ふたりは唖然とした。

 あまりにも品のない話しを長々と綴っていると作者のデリカシー

を疑われるのではないかと不安になってきたので、ショートカット

して結論を言うと、わたしの提案はバロックの反論にミコが賛成し

て、あっさり却下されてしまった。

 みなさんは以上の話を「詰まらないこと」と言うかもしれないが、

しかし、自然の循環機能をどう維持するかということは、詰まると

ころ、否、詰まっちゃいかんが、ウンコをどう処理するかというこ

となのだ。詰まり、産業廃棄物であれ、自動車の排気ガスであれ、

生活汚水であれ、大気中のCO2であれ、見方を変えればどれも我

々の社会が放出したウンコなのだ。環境問題とはそのウンコをどう

やって自然に還すかということに尽きる。山の中で暮らすわたし達

はほとんどゴミらしいごみを出さない。否、出ても生活のゴミは大

概自然循環へと回帰していく。ところが、毎日のようにスーパーや

コンビニで買い物をすればそうも言ってられなくなる。ということ

はゴミを発生させている主な原因は企業がつくる製品にある。毎日

大量生産される様々な製品はその末路が自然循環と繋がっていない

からだ。詰まり、製品によって賄われている消費生活とは自然循環

から断絶しているのだ。それどころか、製品とは自然から隔絶すれ

ばするほどその価値を高める。真っ直ぐな胡瓜、甘いトマト、虫も

食わない野菜といった具合に自然界に存在しないものを追い求める。

しかし、それらを買い求めているのは我々消費者ではないか。企業

は単に消費者の求めるものを供給しているに過ぎない。詰まり、自

然循環から断絶した製品は我々消費者によって量産されているのだ。

 例えば上の話のように、わたし達は催すと側(かたわ)らの草叢で

用を足す。自然の中で暮らしていれば我々の糞尿はゴミでも何でも

ない。放って置けば微生物によって自然分解され土を肥やして植物

を育てる。自然循環の中では価値は転化するが失われることはない。

ところが、東京の繁華街で催したからと植え込みの根際(ねき)で用

を足すと忽ち条例違反になって罰金を取られてしまう。小便ならま

だしも、それこそ都民の誰もが路上にしゃがみ込んで野糞をするよ

うになれば、東京は忽ち一日で汚らわしい汚名を着せられることだ

ろう。1300万都民が一年間に放出する糞尿の量は、東京ドーム

を肥溜めに例えると5杯分(?)にもなるという。詰まり、都市とは

自然循環を拒絶して創られた人工の世界なのだ。そこでは価値は瞬

(またた)く間に失われるが転化することはない。詰まり、東京ドーム

5杯分(?)の糞尿は自然循環へ回帰することなく、ただ汚物(ゴミ)

として処理される。

                                 (つづく)

[お断り] 
後段の文章は、都民が放出する糞尿の量をどうしても「東京ドーム」
何杯分かで表わしたいと思い、ただそれだけの為に書きました。
一応調べましたが「糞尿」という項目では記載されていなかった為、
正確ではありませんので参考にはなりません。


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