「言葉のひびき」 (3)

2021-01-17 12:45:52 | 従って、本来の「ブログ」

         「言葉のひびき」


            (3)


 さて、漢字のことを取り上げながらその創始国である中国に触れ

ないわけにはいかないが、断わるまでもなく私は漢字の専門家では

ないので何一つ確信を持って言えないが、と言うのも、すでに中国

は漢字を簡体字に簡略化していて、それがどこまで漢字文化を継承

しているのかすら知らないのですが、ただ、そもそもの漢字の始ま

りは権力者によって重用されたことからによるのは間違いないだろ

う。そして漢字は日常で使う「話しことば」とは異なって儒教道徳

に従った「何か高尚な」言葉として使われ、封建時代の武家社会に

おいて厳格さを重んじる言葉として広まった。ここでニーチェの言

葉を引用すると、このような言葉の「ひびきの魔力」に憑かれると

、「きまりきったひびきに仕付けられた習慣は、性格に深く食い入

るからだ。――やがて人々は、このひびきにぴったり合った言葉や

言い廻しや、ゆくゆくはまたそうした思想さえも、身につけるだろ

う!」と「没趣味な横柄な」「言葉のひびき」がやがては覇権的な

思想を育むと言うのだ。それは我が国の武家社会においても同様で

、王朝社会が「ひらがな」文化とするなら、武家社会は「漢字」文

化を養った。やがて近代化へと転換した社会の下であまりにも乖離

した言文の一致を求めて「書き言葉」を改めるまでは「没趣味な横

柄なひびき」の「書き言葉」が高尚な言葉と看做された。

                        (つづく)


「言葉のひびき」(2)のつづきの続き

2021-01-17 04:19:47 | 従って、本来の「ブログ」

            「言葉のひびき」


     (2)のつづきの続き


 そもそも「ことば」はおおよその動物と同様に「話しことば」か

ら始まった。しかし「書き言葉」は人間だけが使う高度な情報伝達

段として進化した。過去の記録は将来の展望に生かされ、詳細な

「書き言葉」によって人間は過去と未来を想像することができるよ

うになった。たとえば、「2011年の3月11日」という日を思

い起こす時、或は「2021年7月23日」はどんな日なのか、そ

れらはこうして書かれた言葉がなければとても同じ日としての認識

を共有することはできないし、認識の有しない者に伝えることもで

きないない。ただ、固定化された「書き言葉」は変動する世界を捉

えることができない。一方で「話しことば」は言葉として残らない

が目の前の現実を捉えることができる。ニーチェが指摘するように

「書き言葉」が高尚な言葉として「話しことば」に取り入れられた

時、実際、我々の「書き言葉」である《漢字》は高尚な言葉として

採り入れられたのだが、しかし、《漢字》ばかりの「話しことば」

は固定化して現実にそぐわない窮屈な言葉になってしまい、訂正で

きない不自由な言葉になってしまう。差し詰め今なら《カタカナ》

英語に違いないが、ところで、何だ!《エビデンス》とは?、たと

えば、私が過去に書き残したこのブログの記事を読み返して見た時

に、その的外れな「書き言葉」に絶望的なほど自己嫌悪を感じるの

はそれが書き残された固定化した言葉であるからに違いない。

 ところで、タイミング良くと言うべきか、政治のトップである菅

総理の記者会見が官僚たちが書いた「書き言葉」をただ読むだけの

想いが伝わってこない「話しことば」だと不評だが、それは固定化

した冷たい「書き言葉」が時々刻々と変化する社会状況にそぐわな

いからであり、もしも、それがお役所言葉なら諦めもするが、主権

者から選ばれた代表たる首相の言葉だとすれば、なんと「没趣味な

横柄な」(ニーチェ)言葉であるかと言わざるを得ない。

                        (つづく)