「ラジオ体操と共同幻想」⑨―3

2013-10-24 04:26:38 | 「ラジオ体操と共同幻想」


       「ラジオ体操と共同幻想」⑨―3


 自然環境の脅威からわれわれを守るために作られた社会環境は、

しかし自然環境の代わりをすることまでは出来ません。社会環境は

は自然環境である水や空気やわれわれの生存までも支配することな

ど出来ないのです。そして、われわれには自然環境から与えられた

謂わば既得権、自然内存在としての自然権があります。つまり、い

かに国家が国民を支配しようとしても、われわれの生存権や自然環

境までも奪うことは許されません。そもそも、国家とは自然内存在

としてのわれわれがより良く生存するために作った手段に過ぎない

のです。ラジオ体操をみんなで一緒にしようとする集りのようなもの

です。ただそれぞれが生存するために集まっているだけです。謂わ

ば共同幻想です。国家がいかに高邁な理想(共同幻想)を掲げて自

然内存在であるわれわれを支配しようとしても、つまり、国家そのも

のが目的にすり替えられたとしても、われわれは自然内存在として

自然権を主張して拒むことができます。ラジオ体操をするために集

まった人々は、それ以外の目的に従う理由はありません。そもそも

ラジオ体操は独りでもできるのですから。同じように、自然内存在と

してのわれわれは、国家というテーマに対して自然権を理由に拒む

ことが出来るのです。だって、「国体」なんかのために生きるよりも

「自然体」で生きたいじゃん。


                                  (つづく)





「ラジオ体操と共同幻想」⑨-4

2013-10-24 04:25:34 | 「ラジオ体操と共同幻想」




      「ラジオ体操と共同幻想」⑨-4


 もう少し人々が何故ラジオ体操をみんなで集まって一緒にしよう

とするのかを解いて、そこで生まれる全体主義と国家主義が如何に

似通っているかを説きたかったのですが、どうも上手くいかなかっ

たかもしれません。ただ、健康のためにラジオ体操を始めようと考

えるのはわれわれの理性ですが、みんなで集まって楽しくやりたい

というのは本能です。当然のことですが、本能は理性に勝ります。

やがて体操よりも集りの方に関心が奪われます。しかし、それは本

来のラジオ体操の目的から逸脱してしています。そもそも体操は自

分の健康のためにするものであって自分の健康はみんなと共有する

などできません。こうして、本来目的であったはずのものが新たな

目的の手段になってしまう。身体を動かしていても独りでやってい

た時よりも意識は全体へ向かい集中できなくなる。アウフヘーベン

(止揚)という言葉がありますが、目的であったものが達成されたり、

或いは否定されて新たな段階の手段として利用されます。独りでラ

ジオ体操をすることの虚しさに堪えられなくなるとみんなで集まっ

て一緒にすることが新しい目的になります。われわれは「ただ生存

するためだけに生きていること」にテーマを見出せなくなって人々

の集りである社会に生きるテーマを求めます。社会はラジオ体操の

集りよりももっと複雑で「生存するため」のさまざまな手段が揃っ

ています。やがて、われわれは生きるテーマ「生存するため」を「

社会のため」にアウフヘーベンさせて、「社会のために生きること」

がテーマになります。自分自身にとって自分をより良く生かすことが

使命だったが社会という共同幻想に呑み込まれて自分を見失って

しまう。われわれは常に自己回帰して独りでラジオ体操する志を取

り戻さなければならない。もしも、それぞれが独りでするラジオ体操

が虚しいと思うなら、みんなで集まったからといってそれ以上のもの

は何も生まれない。



                                 (つづく)


「ラジオ体操と共同幻想」⑨-5

2013-10-24 04:22:12 | 「ラジオ体操と共同幻想」


      「ラジオ体操と共同幻想」⑨-5



 ラジオ体操はみんなが集まって一緒にやらなくては出来ないとい

うわけではないように、むしろ本来体操とは個人的な運動のはずだ

が、それと同じように愛国心もまた個人的な感情である。個人的な

運動をみんなで一緒にやる必要がないように、ただ連帯感が生まれ

るというのであれば何も一緒に体操などしなくたって生まれるはず

だが、個人的な感情を「無恥にも」みんなで共有して一体何が生ま

れるというのか?だから、国家主義者たちの集りは決まって対立国

への非難に終始する。何故、自国を愛そうという集りが他国を憎悪

する集りへと転化するのだろうか。しかし、国内のナショナリズ運

動の昂まりを対外政策に利用するのは誤りである。中韓政府が反日

的であるのは国民の格差社会への不満をかわすためのはけ口なのだ。

もしも中国による武力行使によって紛争になれば粛々と対応すれば

いいが、つまり自衛権の行使は認めるが、ナショナリズムを煽るた

めにどこかの首長のように権限を弁えず対外関係を悪化させ危機を

招くような愚行だけは避けなければならない。はっきり言えば、過

去の過ちを問われて謝って済むのなら何度だって頭を下げればいい

ではないか。済んだことと言うのであれば何の拘りがあるのだろう

か。われわれは中韓の過激なナショナリズムに反応してはならない。

他国を憎むことでしか自国への愛国心を確かめられないというのは

なんと情けない話だろう。そもそも愛国心というのは国民それぞれ

の心中に根付くもので、それを臆面もなく公に告白したり、或いは

人に強いるのは何と恥知らずなことか。かつて、わが国の人々はそ

うした「言わずもがな」を易く口にはしなかった。人であれ国であ

れ、愛を押し付けることなど出来ないからだ。それらを持ち込んだ

のはきまってキリスト教社会からの帰国子女たちである。彼らは西

洋文化に接して危機感を募らせ俄かに国家アイデンティティ―に目

覚め、伝統文化を甦らせようとするが、何ともトンチンカンで堅苦し

い不器用な考えにがっかりさせられる。そもそも関心がないのは明

らかで彼らから伝統文化への深い造詣はまったく感じられない。つ

まり、不自然なのだ。決まって口にするのは古い道徳であり、そして

恥知らずにも愛を説く。いくら国民に愛国心を訴え掛けても、たとえ

ば権力者が国民の自由を奪って自分たちの自由にするならば、どう

してそんな国家を愛することができるだろうか?私は母に「親を愛し

なさい」などと一度も言われたことがなかったが、すでに存在しないに

もかかわらず私はいまだ愛しくてならない。つまり、権力者は国民に

愛国心を強いる前に、国民が愛せずにはいられない社会を築くべき

ではないか。国家は国民に愛国心を求めるのではなく、国民が愛国

心を抱くには何をすればいいのかを考えて欲しい。愛国心という感情

を理性によって教育するというのは行き過ぎると偽善者を育てる。国

を愛することとは一体何をすればいいのか?この国を愛していると叫

ぶことなのか?非国民を迫害することなのか?対立国を非難すること

なのか?それとも、国家のために犠牲になることなのか?ただ、ラジオ

体操の集会への参加を強制したり、全体と動きを合わせることを指導

したり、人が集まることから生まれる共同幻想、つまり全体主義に陥ら

ないでもらいたい。

                                   (おわり)



                「あほリズム」


                 (325)


     「人よ、寛(ゆるや)かなれ!」 金子光晴




「ラジオ体操と共同幻想」⑨-5の補稿、の補完

2013-10-24 04:19:51 | 「ラジオ体操と共同幻想」



   「ラジオ体操と共同幻想」⑨-5の補稿、の補完


 ことさら帰国子女たちが日本の伝統文化に拘ると記しましたが、

これは前から感じていたことなんですが、われわれは学問を修める

と言う時の「学問」とは、かつては仏教や四書五経などの中国文化

だったが今や西洋科学文化です。何も外国に留学して勉強しなくて

も日本はすでに学問に於いても世界屈指の科学大国ですから、帰国

子女だけを取り上げることは多分誤りですが、すでにわれわれの思

考は西洋的であると断言してもいいでしょう。少なくとも学問にお

いては西洋文化である絶対主義や競争の原理に洗脳されている。敢

て「洗脳」と言いましたが、そうした思考に洗脳された視点から日

本の伝統文化を見れば、何というか進化から取り残された感がある。

たぶん欧米列強が科学技術の発達によって世界支配を企まなければ

われわれは依然自然環境に従って生きることに何の不満もなかった

かもしれない。誰もが不自由である社会には不自由は存在しない。

鉄道が敷かれて初めて歩いて行くことが不自由になった。話しは逸

れましたが、もちろん留学して勉強するとなると何も後進国に行く

人などいないでしょうから、成り上ったばかりの日本を後にして西

欧先進国で暮らすとなるとその違和感に戸惑うことでしょう。いく

ら勉強をするためと言っても、生活するためにはその国の言葉や風

土や文化と無縁で居られるはずがない。つまり、留学生や或いは他

所の国に長く暮らす人々は頭脳だけでなく感情までもその社会に溶

け込まなければ暮らしていけない。するとその国の人々がいったい

何を心の拠り所にして暮らしているのかが次第に見えてくる。ただ

豊かさだけを追い求めて生きているのではなくて、人々を繋ぐ社会

観念に伝統文化や取分け宗教の影響が色濃く残っていることに気付

く。人々の心の空白を埋めているのは受け継がれてきた信仰や伝統

文化で、繋がった糸を手繰り寄せれば大地に埋まったその根本には

キリスト教世界観がある。異教文化を目の当たりにすると人は何と

も言えない疎外感に襲われる。それは、宗教は「これこそメシアだ」

と「最後の言葉」を語るからだ。しかし、人間は決して絶対真理な

ど求めて生きていない。そんなものが啓示されればどうして生きる

ことなどできるだろうか。また話しが逸れましたが、こうして異国

に留まって生活する「無」教徒たちはカルチャーショックを受け、

自らが拠って立つべきアイデンティティーを模索し始める。当然、

日本人であれば日本の伝統文化に帰着する。ただ、それは先進国の

異文化に啓発されて見直されたもので、西洋文化に憬れを抱く多く

の在日日本人にとっては今更の感は否めない。つまり、在外日本人

と在日日本人の視点と違いと視線の方向性にズレを感じる。内側か

ら生まれる動機をいくら外側から煽っても上手くいかないような気が

する。だってさ、ビートルズのオルタナティブ(代替品)に美空ひばりを

聴くなんてありっこないじゃん。

                                    (つづく)



「ラジオ体操と共同幻想」⑨-5の補稿ー2

2013-10-24 04:18:33 | 「ラジオ体操と共同幻想」



      「ラジオ体操と共同幻想」⑨-5の補稿ー2


 かつて「日本の常識は世界の非常識」とよく言われたが、そもそ

も世界の常識とはいったい何だったのかと言うと、大体やね、欧米

世界の常識である。つまり、そこにはアラブ世界やアジア・アフリ

カ世界の常識は含まれていない。ただ、わが国の言論人が欧米先進

国に肩を並べんが為に欧米文化しか見ようとしなかったからに過ぎ

ない。しかし逆に、日本社会から欧米社会を見て「欧米の常識は日

本の非常識だ」と言ったってかまわなかった。ところが、われわれ

は明治維新以来近代国家を目指すために「日本の常識」を捨て「欧

米の常識」に盲従してきた。儲け過ぎだと言われれば自己規制し、

また、その一方で内需拡大を求められれば、限界集落にりっぱな集

会所を造ったり、また、クマのためにけもの道を舗装してやったり

と穴を掘って埋めるだけの無駄な公共工事に巨額の税金が使われた。

たしかに非常識極まりない無駄遣いだったが、それらは欧米、取分け

アメリカ政府の「常識的な」要求に答えるためだった。今ある債務の大

半はその頃に生まれた。私は何も親米経済評論家の所為だとは言う

つもりはないが、エコノミックアニマルと揶揄されようが日本の非常識の

方が遥かにこの国を誤らせなかった。つまり、われわれは世界の常識

に従って非常識な負債を抱える羽目になったのだ。世界の常識に従って、

自ら角を矯めて身を滅ぼした。


                                 (つづく)