「ラジオ体操と共同幻想」⑨-5
ラジオ体操はみんなが集まって一緒にやらなくては出来ないとい
うわけではないように、むしろ本来体操とは個人的な運動のはずだ
が、それと同じように愛国心もまた個人的な感情である。個人的な
運動をみんなで一緒にやる必要がないように、ただ連帯感が生まれ
るというのであれば何も一緒に体操などしなくたって生まれるはず
だが、個人的な感情を「無恥にも」みんなで共有して一体何が生ま
れるというのか?だから、国家主義者たちの集りは決まって対立国
への非難に終始する。何故、自国を愛そうという集りが他国を憎悪
する集りへと転化するのだろうか。しかし、国内のナショナリズ運
動の昂まりを対外政策に利用するのは誤りである。中韓政府が反日
的であるのは国民の格差社会への不満をかわすためのはけ口なのだ。
もしも中国による武力行使によって紛争になれば粛々と対応すれば
いいが、つまり自衛権の行使は認めるが、ナショナリズムを煽るた
めにどこかの首長のように権限を弁えず対外関係を悪化させ危機を
招くような愚行だけは避けなければならない。はっきり言えば、過
去の過ちを問われて謝って済むのなら何度だって頭を下げればいい
ではないか。済んだことと言うのであれば何の拘りがあるのだろう
か。われわれは中韓の過激なナショナリズムに反応してはならない。
他国を憎むことでしか自国への愛国心を確かめられないというのは
なんと情けない話だろう。そもそも愛国心というのは国民それぞれ
の心中に根付くもので、それを臆面もなく公に告白したり、或いは
人に強いるのは何と恥知らずなことか。かつて、わが国の人々はそ
うした「言わずもがな」を易く口にはしなかった。人であれ国であ
れ、愛を押し付けることなど出来ないからだ。それらを持ち込んだ
のはきまってキリスト教社会からの帰国子女たちである。彼らは西
洋文化に接して危機感を募らせ俄かに国家アイデンティティ―に目
覚め、伝統文化を甦らせようとするが、何ともトンチンカンで堅苦し
い不器用な考えにがっかりさせられる。そもそも関心がないのは明
らかで彼らから伝統文化への深い造詣はまったく感じられない。つ
まり、不自然なのだ。決まって口にするのは古い道徳であり、そして
恥知らずにも愛を説く。いくら国民に愛国心を訴え掛けても、たとえ
ば権力者が国民の自由を奪って自分たちの自由にするならば、どう
してそんな国家を愛することができるだろうか?私は母に「親を愛し
なさい」などと一度も言われたことがなかったが、すでに存在しないに
もかかわらず私はいまだ愛しくてならない。つまり、権力者は国民に
愛国心を強いる前に、国民が愛せずにはいられない社会を築くべき
ではないか。国家は国民に愛国心を求めるのではなく、国民が愛国
心を抱くには何をすればいいのかを考えて欲しい。愛国心という感情
を理性によって教育するというのは行き過ぎると偽善者を育てる。国
を愛することとは一体何をすればいいのか?この国を愛していると叫
ぶことなのか?非国民を迫害することなのか?対立国を非難すること
なのか?それとも、国家のために犠牲になることなのか?ただ、ラジオ
体操の集会への参加を強制したり、全体と動きを合わせることを指導
したり、人が集まることから生まれる共同幻想、つまり全体主義に陥ら
ないでもらいたい。
(おわり)
「あほリズム」
(325)
「人よ、寛(ゆるや)かなれ!」 金子光晴