「ラジオ体操と共同幻想」⑥

2013-10-24 04:34:31 | 「ラジオ体操と共同幻想」



       「ラジオ体操と共同幻想」⑥




「人間はだんだんに、他のどの動物よりも一つだけ余計な存在条件

を充足せねばならない一個の空想的動物となった。人間はときどき

自分が存在するのは『何故』だかを知っていると信じ『なければな

らない』。」ニーチェ「悦ばしき知識」信太正三訳(筑摩書房ニーチェ

全集8)

 ニーチェのこの言葉は、キリスト教を揶揄しているのだが、人間

は「自分が存在するのは『何故』だかを知っていると信じ『なけれ

ばならない』」のだとすれば、なぜ存在するのか分らなくなったと

き躓く。動物は生きることにいちいち理由を求めない。ところが、

人間は生まれ落ちた後に「何故生まれてきたか」と理由を求める。

「他のどの動物よりも一つだけ余計な存在条件を充足せねばならな

い」われわれは、集まるためにも理由がなければならない。つまり、

人間の集りにはテーマがある。「1000万人みんなの体操」は、

個人的な体操をみんな一緒に集まってやろうというのだ。もしも、

集まるという行動が動物本能によるとすれば、テーマは何であれ集

まるための手段にすぎない。体操をするために集まった人々は、実

はすでに目的は充たされているのだ。それぞれが行う体操はもはや

手段にすぎない。ところが、目的を失った集りは新たなテーマを捜

し出す。「どうせやるならもっときれいに揃ってやれないものか」

規律が求められ、前方に台が用意されその上で模範となる体操が披

露され指導者が監視する。ついには、一糸乱れぬ同調した動きが生

まれ全体主義に酔いしれる。自分の健康のために行う至って個人的

な体操がいつの間にか全体のための体操にすり替わる。

                                   (つづく)   



「ラジオ体操と共同幻想」⑦

2013-10-24 04:33:49 | 「ラジオ体操と共同幻想」
   


        「ラジオ体操と共同幻想」⑦


 テーマを喪失した社会とは新しい時代が描けない変化のない社会

である。「歴史の終わり」を迎えた世界は、どれほど先に目を遣っ

たとしても多分いまの我々の生活や考え方を大きく変えてはいない

だろう。もしも、近代文明世界を覆すほどの大きな転換が起こると

すれば、それは自然環境の変化によってもたらされるのではないだ

ろうか。われわれの欲望は、頂上に立って更に石を積み上げようと

するが、限界に達した自然環境がその石を払い除ける。近代文明に

とっては手段であった自然が叛逆して文明社会に牙を剥く。自然内

存在にすぎない人間は存在の原点である自然環境に逆らってまで石

を積むことはできない。改めて言うことでもないが自然には国境がな

い。福島原発から太平洋に漏れ出した放射能汚染水は世界の海洋を

汚染する。つまり、自然環境は国家という枠組みに縛られない。そ

んな大きな変化の流れを想像すれば、われわれが「国家内存在」に

止まり国家主義にこだわって僅かばかりの領土を巡って境界線をず

らし合い争うことがどれほど無意味なことかと思わずには居られな

い。国家間で地球上の土地の奪い合いに血眼になっている間にも、

或いは国を二分して権力を奪い合っている間にも、それぞれが拠っ

て立つ地球そのものが壊れようとしているのだ。今や文明社会が立

ち向かうべき敵は、あえて「敵」と呼ぶが、それはわれわれが破壊し

た自然ではないか。われわれが内在し生命を委ねている地球環境

こそが「敵」であり、もちろん味方なのだ。地球内存在として、それで

もわれわれは自然破壊を選ぶのか、それとも自然環境に従うのか

の大きな転換が迫っているとすれば、国家主義にこだわることが時

代遅れに思えて仕方ない。


                                  (つづく)



「ラジオ体操と共同幻想」⑧

2013-10-24 04:33:03 | 「ラジオ体操と共同幻想」



        「ラジオ体操と共同幻想」⑧


 前にも記しましたが、私は何もラジオ体操がよくないとは言って

ません。さらに、みんなで集まって一緒にラジオ体操をすることも

否定しません。他人と繋がろうとするのは人間の本能だからです。

ただ、大勢の人が集まることによって共感が芽生え、いつの間にか

動作を同調させるようになって全体主義が生まれ、同調しようとし

ない者を排他的に見るようになれば、そもそも個人的な体操が個人

から奪われてしまうことになります。例えば、信仰は極めて個人的

なことのはずですが、そもそも現世での利益を説いていないはずで、

ところが、いまや霊験による利益を求めない信者は居ないほどに堕

落してしまい、神仏も信者に乞われて来世での救済を店仕舞いして

しまったのかと思わずには居られない。そして、ついには教団は徒

党を頼りにして政治にまで口を挟む。しかし、それは余りにも本来

の信仰とはかけ離れています。このように集団は個人が持ち得なか

った付加を求めます。そして、ついには信仰など忘れて権力を望む

ようになります。それを共同幻想と呼ぶとすれば、集団は常に共同

幻想の誘惑にさらされています。では、社会はどうでしょうか。わ

れわれは共同体の中で生活を共有していますが、それはそれぞれが

個人で生活することよりも便利だからです。つまり、共同体とはそ

れぞれの個人が便利に生活するための手段に過ぎませんでした。と

ころが、年代を重ねるごとに、人間は死んで入れ替わっても社会は

残るので社会資本が蓄積され、豊かな社会に慣らされた人々はそこ

から逸れて生活することが出来なくなってしまった。かつて、自然

の中で生きる人間にとって手段に過ぎなかった共同体が自然に取っ

て代わった。国家へと進化した共同体は個人に義務を負わせて権利

を与えます。つまり、人間の手段であった共同体が、国家あっての

国民へと個人と共同体の関係が逆転してしまったのです。それは、

個人は入れ替わっても国家は無くならないからです。同じように、

個人の信仰のための教団が教祖の教義から逸脱しても、本来、教義

が絶対であるなら変更や加上は破綻であるはずだが、手段であった

教団が目的化するように、国家もまた自然に替わって人間を部分と

して扱う。つまり国家主義とは、本来手段に過ぎなかった共同体が

目的へと転換して派生した思想である。しかし、そもそも国家(共同

体)とは自然環境の中で生きる人間にとっては手段に過ぎなかった。

 
                               (つづく)



「ラジオ体操と共同幻想」―⑨

2013-10-24 04:29:24 | 「ラジオ体操と共同幻想」



      「ラジオ体操と共同幻想」―⑨


          )


 近代文明による環境汚染は国境で食い止めることは出来ません。

世界的な関心を集めた地球温暖化問題や、最近では中国から飛来す

る微小粒子状物質(PM2.5)による大気汚染、また、鳥インフル

エンザウィルス(H5N9)の感染被害もボーダレスです。更に、前

にも記しましたが、わが国はただ被害ばかり受けているわけではな

く、福島原発事故による放射能汚染水の流出による海洋汚染は、汚

染水の流出を早く食い止めることが出来なければ、それらの問題よ

りももっと深刻な事態に発展するかもしれません。毎日300トン

の放射能汚染水がこれから半永久的に海に垂れ流されることになれ

ば、放射能汚染は海だけの汚染では済まなくて地球全体に拡がりま

す。もはや事態は一電力会社が処理できる範囲を越えて、それどこ

ろか我が国一国で対応できる国家レベルをも遥かに凌駕して、世界

規模で対応しなくてならないはずなのに、なぜ政府は早くIAEA

に援助要請をしないのだろうか?もはや、彼らは安全神話を騙って

不安実話を隠すことしか出来ない。

 このように、環境汚染はすでにナショナルな問題ではなくインタ

ーナショナルな対応が求められている。さらに、グローバル経済が

それに拍車を掛けている。つまり、地球環境の問題は国家レベルで

は対応出来なくなっている。また、国家は前進することしかできな

いので危機が迫っても撤退することができない。あるテーマの下に

人が集まるとき、その集団の存在意義はテーマによって保たれてい

る。近代国家はひとつには近代社会を実現することがテーマであり、

近代社会は経済成長なしに賄えない。つまり、国家の下では環境よ

りも経済が優先する。原発再稼働を求める人々は、成長経済を失っ

ても環境を守るべきだとは思っていない。テーマの下にある集団は

危機に際しても、経済人は経済を「成長」させることによって、政

治家は権力を「行使」することによって、そして軍人は武力を「発

動」することによってしか危機を乗り越えようとしない。彼らは「

獲得」するか、然もなくば「破滅」するかのどちらかしかなく、「

撤退」とはすなわち戦わずに敗北を認めることなのだ。つまり、進

むことを止めて撤退することはテーマから外れることであり、国家

はその存在意義を失う。例えば、選挙で敗北した民主党は、その結

党のテーマは「政権交代」であったが、そもそも政権とは政治を行

うための手段であって目的ではない。当然のように政権交代の目的

を果たした途端に終わってしまった。実際、政権内部ではそれぞれ

の政策はバラバラで方向が揃わない力はベクトルを生まなかった。

そして、首相になった人たちが党内に諮らずに突然個人のテーマを

語り始め、政党はそのテーマの下に纏まることがなかった。つまり、

民主党の失敗の原因はその結党時の「テーマ」そのものにあった。

政権さえ奪えば方向は自ずから決まるという結党時の小沢代表の言

葉は、分け前をばら撒く高度経済成長期ならいざ知らず、政治に敏

感になった国民から見れば時代錯誤の感が否めない。話しは本来の

テーマから逸れましたが、こうして、集りはテーマの下に生まれ、

その集りは力を生むためにそれぞれに団結が求められる。かつて、

郵政民営化問題では自民党でさえ結束を図れなかったが、意見の転

向を迫ると恨みが残り容易なことではない。つまり、集団はそう簡

単にテーマを変えることができないし、まして政治信条を共にする

集団となれば尚更のことである。原発の是非についても、再稼働を

求める集りは如何なる反対の声が耳に届いても原発推進のテーマを

下ろすことはできず、例えばもし仮に、もう一カ所で事故が発生し、

それが柏崎原発で起こったとすれば、日本列島を横断する福島原発

と柏崎原発間で放射能汚染ベルトができて日本が南北に分断される

最悪の事態でも発生しない限り、もちろんそんなことになれば日本

は「国家の終わり」を迎えるが、つまり、現実が理想を裏切らない限

り原発再稼働のテーマを下ろすことはないだろう。こんな例え話を

敢て持ち出したのも、柏崎原発の再稼働はあまりにも福島に近す

ぎて危険ではないか、と思ったからです。

 実は、ずいぶん余談に字数を費やしたことを今は悔いながら、と

は言っても纏めるには断腸の思いでそうもいかず、後はすこし端折

ることにしますが、そこで、今の世界の問題を大雑把に並べ出すと、

経済成長が命題の近代国家はグローバル経済の下で新興諸国に国内

産業を奪われ経済秩序の崩壊によって停滞し、そこに追い打ちをか

けるように地球温暖化問題などの環境問題が顕現化し、さらに、世

界各地では格差社会に対する抗議や紛争が頻発し、いよいよ身動き

が取れなくなった世界経済は先行きが見えなくなっている。そんな

中でわが国は、原発事故という想定外の事態にも見舞われ、さらに、

近隣国との間に領土問題に火がついて、過去の遺恨にも燃え広がり、

すわ戦争かと緊迫した状況にまで到って、それぞれの経済にも影を

落とし、忽ち改憲を求める国粋主義者らが勢い付いている。

 私はすべての問題をバッサバッサと乱麻を断つような解答を持ち

合わせていないので、ここではこれまでの流れから国家と環境問題

について思ったことを言います。まず、「われわれとは何か?」と

いえば、地球人という言葉があるように地球上に無数に生存する生

命体の一種である。今のところ地球以外で生存することはできない。

それは、地球の自然環境に依存しているからです。それを自然内存

在と呼ぶことにします。すぐに寿命を終えますが種を繋いで繁殖し

ます。自然内存在としてのわれわれは、自然環境が変化すれば生存

が脅かされます。しかし、これまでに絶滅の危機を迎えたことは多

分ありません。われわれのような知的生命体が地球の外からわれわ

れの営みを観察して「彼らはただ生存するためだけに生存している」

と思うことでしょう。それは環境に委ねて生きる他なかったからです。

とは言っても、すべてを環境に委ねて生きているわけではありませ

ん。共同生活を送る中で食料を「生産」し、やがて科学文明を生んで、

さまざまな道具が考え出されると、遂には「ただ生存するためだけ

に生存しているのではない」と答えられるまでになった。科学文明

はわれわれを自然環境に依存した自然内存在から解放した。とは言

っても、未だ生存するための多くは自然環境に委ねられているが、

しかし、自然環境の内部に文明社会を築き、社会内存在として生存

するようになった。かつて、われわれが自然内存在として生存してい

た時に自然の秩序を担っていたのは神だったかもしれませんが、文

明社会の秩序を守っているのは国家です。ですから、社会内存在とは

国家内存在であるとも言えます。自然内存在として神への服従を信仰

によって誓ったように、今やわれわれは文明内存在として国家への服

従を義務を果たして応えます。


                                     (つづく)


「ラジオ体操と共同幻想」⑨-2

2013-10-24 04:28:11 | 「ラジオ体操と共同幻想」
 

        「ラジオ体操と共同幻想」⑨-2


             
 これまで自然環境の中でさまざまな不安に耐えて生きてきたわれ

われは、今では文明社会に守られて安心して生きれるようになった。

自然環境の中で、ひもじさに耐え、寒さや暑さにも耐え、孤独に耐

え、生存するための唯一の方法はひたすら耐え忍ぶことだった。救

いを説く信仰はこの耐えることの報いとして求められた。しかし、

信仰に代わって文明社会が耐えることからわれわれを解放してくれ

た。生存することの苦難は軽減され、それに伴って自然への関心は

薄れ、現世利益を与えてくれる文明社会にほとんどの関心が向けら

れるようになった。こうして、われわれは自然内存在から社会内存

在へと意識がシフトした。とは言っても、社会自体も自然内存在な

ので自然環境がなくなってしまったわけではないし、何より人間そ

のものが自然がなければ生きることが出来ない。つまり、われわれ

は自然というキャンバスに文明社会という理想を描いた。如何に文

明社会が発展しても自然というキャンバスがなければ絵にはならな

い。極論すれば、自然環境からもたらされたすべての生命体は、自

然というキャンバスがなければ存在できないが、たとえ文明社会が

崩壊したとしても存在し得る。これを、サルトル風に言うなら「自

然環境は社会環境(国家)に先行する」のである。そして、そもそも

われわれとは自然内存在であるから「われわれは社会環境(国家)に

先行する」。つまり、如何なる場合でも社会はわれわれのためにあ

る。つまり、国家とは自然内存在たる国民の手段にしか過ぎない。


                                                          (つづく)