「ラジオ体操と共同幻想」⑧

2013-10-24 04:33:03 | 「ラジオ体操と共同幻想」



        「ラジオ体操と共同幻想」⑧


 前にも記しましたが、私は何もラジオ体操がよくないとは言って

ません。さらに、みんなで集まって一緒にラジオ体操をすることも

否定しません。他人と繋がろうとするのは人間の本能だからです。

ただ、大勢の人が集まることによって共感が芽生え、いつの間にか

動作を同調させるようになって全体主義が生まれ、同調しようとし

ない者を排他的に見るようになれば、そもそも個人的な体操が個人

から奪われてしまうことになります。例えば、信仰は極めて個人的

なことのはずですが、そもそも現世での利益を説いていないはずで、

ところが、いまや霊験による利益を求めない信者は居ないほどに堕

落してしまい、神仏も信者に乞われて来世での救済を店仕舞いして

しまったのかと思わずには居られない。そして、ついには教団は徒

党を頼りにして政治にまで口を挟む。しかし、それは余りにも本来

の信仰とはかけ離れています。このように集団は個人が持ち得なか

った付加を求めます。そして、ついには信仰など忘れて権力を望む

ようになります。それを共同幻想と呼ぶとすれば、集団は常に共同

幻想の誘惑にさらされています。では、社会はどうでしょうか。わ

れわれは共同体の中で生活を共有していますが、それはそれぞれが

個人で生活することよりも便利だからです。つまり、共同体とはそ

れぞれの個人が便利に生活するための手段に過ぎませんでした。と

ころが、年代を重ねるごとに、人間は死んで入れ替わっても社会は

残るので社会資本が蓄積され、豊かな社会に慣らされた人々はそこ

から逸れて生活することが出来なくなってしまった。かつて、自然

の中で生きる人間にとって手段に過ぎなかった共同体が自然に取っ

て代わった。国家へと進化した共同体は個人に義務を負わせて権利

を与えます。つまり、人間の手段であった共同体が、国家あっての

国民へと個人と共同体の関係が逆転してしまったのです。それは、

個人は入れ替わっても国家は無くならないからです。同じように、

個人の信仰のための教団が教祖の教義から逸脱しても、本来、教義

が絶対であるなら変更や加上は破綻であるはずだが、手段であった

教団が目的化するように、国家もまた自然に替わって人間を部分と

して扱う。つまり国家主義とは、本来手段に過ぎなかった共同体が

目的へと転換して派生した思想である。しかし、そもそも国家(共同

体)とは自然環境の中で生きる人間にとっては手段に過ぎなかった。

 
                               (つづく)




最新の画像もっと見る

コメントを投稿