「ラジオ体操と共同幻想」⑦
テーマを喪失した社会とは新しい時代が描けない変化のない社会
である。「歴史の終わり」を迎えた世界は、どれほど先に目を遣っ
たとしても多分いまの我々の生活や考え方を大きく変えてはいない
だろう。もしも、近代文明世界を覆すほどの大きな転換が起こると
すれば、それは自然環境の変化によってもたらされるのではないだ
ろうか。われわれの欲望は、頂上に立って更に石を積み上げようと
するが、限界に達した自然環境がその石を払い除ける。近代文明に
とっては手段であった自然が叛逆して文明社会に牙を剥く。自然内
存在にすぎない人間は存在の原点である自然環境に逆らってまで石
を積むことはできない。改めて言うことでもないが自然には国境がな
い。福島原発から太平洋に漏れ出した放射能汚染水は世界の海洋を
汚染する。つまり、自然環境は国家という枠組みに縛られない。そ
んな大きな変化の流れを想像すれば、われわれが「国家内存在」に
止まり国家主義にこだわって僅かばかりの領土を巡って境界線をず
らし合い争うことがどれほど無意味なことかと思わずには居られな
い。国家間で地球上の土地の奪い合いに血眼になっている間にも、
或いは国を二分して権力を奪い合っている間にも、それぞれが拠っ
て立つ地球そのものが壊れようとしているのだ。今や文明社会が立
ち向かうべき敵は、あえて「敵」と呼ぶが、それはわれわれが破壊し
た自然ではないか。われわれが内在し生命を委ねている地球環境
こそが「敵」であり、もちろん味方なのだ。地球内存在として、それで
もわれわれは自然破壊を選ぶのか、それとも自然環境に従うのか
の大きな転換が迫っているとすれば、国家主義にこだわることが時
代遅れに思えて仕方ない。
(つづく)
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