長谷川氏は東京・銀座の日動画廊副社長。19日の取材に対し「配慮が足りず言葉足らずだった。障害のある人を差別する気持ちで述べたものではない」と話した。一方で、「(特別支援学校の)生徒さんたちの作品を見て、多様な才能があると理解した。美術の世界でお手伝いができればと思う。失言で迷惑をかけたが、茨城の国際化や美術・文化の振興をするために頑張りたい」などとして、教育委員を続投する意思を示した。

 県庁や県教育委員会には19日夕までに電話やメールで100件超の意見が寄せられた。「障害者や家族が不幸だという思い込みや偏見がある」「教育委員をやめるべきだ」「知事が擁護するのは問題」など、長谷川氏や橋本知事に対する批判的な内容が多かったという。

 ツイッター上では、「優生思想の正当化だ」「親が大変そうだからというなら、負担を減らすために社会ができることを考えるべきでは」といった批判のつぶやきが相次いだ。「五体不満足」の著書がある作家で東京都教育委員の乙武洋匡さんもツイッターに「私も生まれてこないほうがよかったですかね?」と書き込んだ。

 脳性まひの当事者である長野大学の旭洋一郎教授は「私たち障害者とその家族は、絶えず『かわいそう』『家族や社会の負担になる』という形をまとった優生思想によって、自分自身を否定される恐ろしさに脅かされながら暮らしている。世間にそのことを知らしめることに力を尽くすのが、教育委員という立場のはず。撤回すればいいというものではない」と話した。(酒本友紀子、仲村和代)」

結局、長谷川氏は辞職した(11/24)、「声」欄(11/24)でも障害児を持つ三人の

方が意見を寄せている、この教育委員は教育に携わる人間の意見として考えられな

いほどに思いやりや配慮に欠けたものという感じがする、彼女は70歳を超えた円

熟の域に達した人間のはず、だが自ら障害者になった経験もなく障害児を持った経

験もなくいわんや障害児のためのボランティアになったこともなかったのだろう、

そういう人間に求められるのは感受性であり想像力である、障害に生きる本人や家

族への思いやりである、人間だれも障害を持って生まれたくはない、また自分も家

族も障害と関係したくないというのが本音だ、しかし一旦その渦中に入ったものは

別の価値観で生かされる、何とかして助け、支えてゆこうという意思である、

話は高齢者のことになるが必ず生きている以上障害を持つようになる、それで要介

護度の認定を受けて他人に支えられて生きてゆくしかなくなる、その費用や介護

をたがいに負担し合おうというのが今もこれからも重要な課題である、

障害は赤ん坊とか子供とか老人とか年齢とは関係ない、誰もがいつでも病気、

事故、老化など、障害者になる可能性に囲まれている、自分のこととして考えて

ゆかねばならないと思います