(童話)万華響の日々

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敬老の日に思うこと 隠居生活とはなにか

2020-09-21 20:46:10 | 雑感・エッセイ

敬老の日、この日に意味があるかどうか、最近では100歳以上が目立たなくなった。ましてや65歳になっても、75歳になってもなんだか色あせている気分である。私は75歳ということであるが、かあちゃんと二人だけで御萩を買ってきて食べてささやかに祝った。 
かつては人生50年と言われた時代があった。60歳は完全にじじばばであった。年寄りには希少価値があったのだ。だから70歳は古希なのだ。増えすぎた年寄りは次第に疎まれる存在となってきた。介護でも医療でも、年寄りの価値が低くされつつある。だから元気な年寄りは働いて稼げといわれる。年寄りの多くは貧乏である。言われなくとも働いて稼ぎたいのだ。そのほうが健康にも良いと思うからだ。

最近では隠居などという言葉は死語になりつつある。かつては盆栽や長唄など趣味に凝って日を過ごす年寄りも多かったが、昨今では隠居の定義が変わってきているようだ。隠居はボランテイアや旅行や絵描き、語学、芝居に映画、コンサート、俳句やエッセイ、勿論スポーツも、その他非常に多岐にわたって打ち込めることがあり、そういうものに時間を費やす。これらの作業には結構資金が必要なのである。そうしたことに時間を費やせるご隠居は幸せ者である。実はこれらが現役を退職したあとに来るといわれた第2あるいは第3の人生といわれて憧れていたものである。だが人も90歳以上まで平均寿命が延びると蓄えも心細く、年金だけでは足りない。いわんや老人介護の施設入居や医療費などいつまで生きるか不明な現状では今後の必要経費が一体いくらかかるのか分らず、只々不安に陥る。隠居とはそうした予測不可能な世界を毎日何かに打ち込んで生きがいを感じながら生きてゆくことなのだ。敬老の日にそう思った。

 

 

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