「ヤッチー。琉歌を選定、もしくは詠んでください。版画で表現してみたいのです」。
いつのころからか、ボクのことを「ヤッチー」と呼んでくれる画家・版画家名嘉睦念が言い出した。それはほんの雑談の折りだった。ものごとに乗り易い小生。
「いいね、いいね」と、軽く同意したのがことの始まり。。半年も前のことになるか。小生は(軽く)だったが、彼は思いのほか(重く)とらえていて、そうそうに沖縄タイムス社編集局に持ち込み、連載を散りつけてきたのである。
「琉歌をどう版画にするのか?」
小生は小生で生来の(意地悪心)を疼かせて、内面描写の三八六を選び、数月分を書き、彼に渡した。そしてそれが具体化して、令和元年10月20日の連載開始となった。「瓢箪から駒」と言っては沖縄タイムス、名嘉睦念に対して失礼に当たるが、軽い気持ちでやらかした所業。けれども初めてみると、(なまはんかなことではない)ことに気づき、気合いを入れて取り組まなければならないと、考えを改めている。
沖縄タイムス社及び名嘉睦念の了解を得て、掲載分を転載させていただくことにする。
※うたを描く『琉歌百景』。文・上原直彦。絵・名嘉睦念。その①。「やさしくなれる時間」。
『誰が宿がやゆら 月ぬ夜ぬゆしが 弾くや三線ぬ 音ぬしゅらさ』
《たが やどぅがやゆら ちちぬゆぬゆしが ふぃくや さんしんぬ うとぅぬ しゅらさ》
月に誘われて散歩に出てみた。すると、どなたの住居か知らないが、三線の音が漏れ聞こえる。夜もすがら・・・・。つと立ち止まって耳を傾ける。吹く風よし。月の灯りよし。三線の音色よし。なんとも奥ゆかしく、その場を立ち退くことができなかった。
漏れ聞こえる三線は一丁だったに違いない。複数丁ではにぎやかに過ぎる。では、奏でている歌・節は何か。古典音楽の「諸屯節=しゅどぅん」か、二揚りの「五節」か。島うたならば「下千鳥節」「なーくにー」「とぅばらーま」「伊良部とーがにー」などなどだろう。カチャーシー類では漏れ聞く人の歩調も速くなり「月に誘われて・・・」の情緒が薄くなるだろう。
一般的に月を意識するのは「秋」とされるが、どうしてどうして、沖縄の月は四季を通して清かだ。
ただ昨今は世の中が多種多様であるせいか「夜空を眺める」よりは「ウンチントゥー=うつむいて」していることのほうが多いような気がする。
月夜は人をやさしくしてくれる。小生のようなガサツな男でも夜、ちょっと風を通そうとガラス戸を開ける。風とともに月明りが入ってこようものなら、部屋の電気やテレビなど光ものを消して1時間、2時間を夜空と付き合うことがある。過ごしてきた年月分というか「あの時この時」のことなぞを昨日のようによみがえらせながら、つと、涙ぐんだりする。その時の小生は客観的にみて真人間になっている。いとおしくなって自らを抱きしめたくなる。
月を見上げて涙ぐむ老いの身の図は「絵」にはならないだろうが、そんな時間があってもよさそう・・・・なぞとひとり悦に入っている。
※うたを描く『琉歌百景』その②。「動かぬ絵画の雄弁さ」。
『絵に描ちゃい置きば 面影やあしが 物言い楽しみぬねらん辛さ』
《ゐにかちゃゐ うきば うむかじや あしが むぬい たぬしみぬ ねらん ちらさ》
思いびとの似顔を描いて持っていれば、いつでも面影をしのぶことができる。一心同体感がある。けれども絵はしょせん絵。愛の言葉を交わすことはかなわない。表情も静止したまま・・・。会話の楽しみがない。それだけに恋しさ切なさは倍増すると詠んでいる。
劇聖玉城朝薫の組踊「女物狂・一名人盗人」にも「覚書・人相書き」を読み上げる場面があるから、王府時代の士族社会の恋人たちの間では、互いに似顔絵をふところにしのばせ合うのがはやっていたやもしれない。
昭和30年代に青春を過ごしたボクのころは、好きな人の写真をひそかに手に入れて手帳などにはさんで持ち歩いていたものだ。好きな女優のブロマイドを収集する遊びもはやっていたのも懐かしい。
いまでは琉球舞踊界に名を刻んでいる女性、Kさんにはこんなエピソードがある。
沖縄タイムス社主催の当時「芸術祭」と称していた「舞踊の部・新人賞の部」で「伊野波節」を踊った折り、紅型衣装の下のふところ深くに彼氏の写真をしのばせて踊った。同節の歌詞が「逢わん夜ぬ辛さ 他所に思みなちゃみ 恨みてぃん忍ぶ 恋ぬ慣れや」であってみれば、若いKさんの踊り心を一段と高揚、昇華させたに違いない。
絵画については(〇)さへもまともに描けないボク。絵の描ける人を心底、リスペクトする。友人に画家が何人かいて、彼らからの仕入で絵画について能書きをたれることがある。ボクが絵画から感じ取ることができるのは「絵は口ほどにものを言う」。このことである。
いつのころからか、ボクのことを「ヤッチー」と呼んでくれる画家・版画家名嘉睦念が言い出した。それはほんの雑談の折りだった。ものごとに乗り易い小生。
「いいね、いいね」と、軽く同意したのがことの始まり。。半年も前のことになるか。小生は(軽く)だったが、彼は思いのほか(重く)とらえていて、そうそうに沖縄タイムス社編集局に持ち込み、連載を散りつけてきたのである。
「琉歌をどう版画にするのか?」
小生は小生で生来の(意地悪心)を疼かせて、内面描写の三八六を選び、数月分を書き、彼に渡した。そしてそれが具体化して、令和元年10月20日の連載開始となった。「瓢箪から駒」と言っては沖縄タイムス、名嘉睦念に対して失礼に当たるが、軽い気持ちでやらかした所業。けれども初めてみると、(なまはんかなことではない)ことに気づき、気合いを入れて取り組まなければならないと、考えを改めている。
沖縄タイムス社及び名嘉睦念の了解を得て、掲載分を転載させていただくことにする。
※うたを描く『琉歌百景』。文・上原直彦。絵・名嘉睦念。その①。「やさしくなれる時間」。
『誰が宿がやゆら 月ぬ夜ぬゆしが 弾くや三線ぬ 音ぬしゅらさ』
《たが やどぅがやゆら ちちぬゆぬゆしが ふぃくや さんしんぬ うとぅぬ しゅらさ》
月に誘われて散歩に出てみた。すると、どなたの住居か知らないが、三線の音が漏れ聞こえる。夜もすがら・・・・。つと立ち止まって耳を傾ける。吹く風よし。月の灯りよし。三線の音色よし。なんとも奥ゆかしく、その場を立ち退くことができなかった。
漏れ聞こえる三線は一丁だったに違いない。複数丁ではにぎやかに過ぎる。では、奏でている歌・節は何か。古典音楽の「諸屯節=しゅどぅん」か、二揚りの「五節」か。島うたならば「下千鳥節」「なーくにー」「とぅばらーま」「伊良部とーがにー」などなどだろう。カチャーシー類では漏れ聞く人の歩調も速くなり「月に誘われて・・・」の情緒が薄くなるだろう。
一般的に月を意識するのは「秋」とされるが、どうしてどうして、沖縄の月は四季を通して清かだ。
ただ昨今は世の中が多種多様であるせいか「夜空を眺める」よりは「ウンチントゥー=うつむいて」していることのほうが多いような気がする。
月夜は人をやさしくしてくれる。小生のようなガサツな男でも夜、ちょっと風を通そうとガラス戸を開ける。風とともに月明りが入ってこようものなら、部屋の電気やテレビなど光ものを消して1時間、2時間を夜空と付き合うことがある。過ごしてきた年月分というか「あの時この時」のことなぞを昨日のようによみがえらせながら、つと、涙ぐんだりする。その時の小生は客観的にみて真人間になっている。いとおしくなって自らを抱きしめたくなる。
月を見上げて涙ぐむ老いの身の図は「絵」にはならないだろうが、そんな時間があってもよさそう・・・・なぞとひとり悦に入っている。
※うたを描く『琉歌百景』その②。「動かぬ絵画の雄弁さ」。
『絵に描ちゃい置きば 面影やあしが 物言い楽しみぬねらん辛さ』
《ゐにかちゃゐ うきば うむかじや あしが むぬい たぬしみぬ ねらん ちらさ》
思いびとの似顔を描いて持っていれば、いつでも面影をしのぶことができる。一心同体感がある。けれども絵はしょせん絵。愛の言葉を交わすことはかなわない。表情も静止したまま・・・。会話の楽しみがない。それだけに恋しさ切なさは倍増すると詠んでいる。
劇聖玉城朝薫の組踊「女物狂・一名人盗人」にも「覚書・人相書き」を読み上げる場面があるから、王府時代の士族社会の恋人たちの間では、互いに似顔絵をふところにしのばせ合うのがはやっていたやもしれない。
昭和30年代に青春を過ごしたボクのころは、好きな人の写真をひそかに手に入れて手帳などにはさんで持ち歩いていたものだ。好きな女優のブロマイドを収集する遊びもはやっていたのも懐かしい。
いまでは琉球舞踊界に名を刻んでいる女性、Kさんにはこんなエピソードがある。
沖縄タイムス社主催の当時「芸術祭」と称していた「舞踊の部・新人賞の部」で「伊野波節」を踊った折り、紅型衣装の下のふところ深くに彼氏の写真をしのばせて踊った。同節の歌詞が「逢わん夜ぬ辛さ 他所に思みなちゃみ 恨みてぃん忍ぶ 恋ぬ慣れや」であってみれば、若いKさんの踊り心を一段と高揚、昇華させたに違いない。
絵画については(〇)さへもまともに描けないボク。絵の描ける人を心底、リスペクトする。友人に画家が何人かいて、彼らからの仕入で絵画について能書きをたれることがある。ボクが絵画から感じ取ることができるのは「絵は口ほどにものを言う」。このことである。