旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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かやぶき・煉瓦・コンクリート

2019-06-10 00:10:00 | ノンジャンル
 近くの小学校に行ってみた。
 別段、用があってのことではないが、校庭から聞こえる児童たちの野球をしている歓声に引き寄せられてのこと。
 しばらくゲームの進行にこちらまで一喜一憂しているうちに気付いたことだが、グラウンドが立派なこと。校庭を囲むように建つ校舎の立派なこと。
 ボクらのころと言えば終戦直後のことで、まず、露天にはじまり、茅葺の即席教室に変わり、瓦葺の教室に入ったのは、中学校1年生になった時だった。もちろん、全校舎が瓦葺だったわけではない。依然として茅葺校舎も残っており、それを誰言うともなしに「馬小屋教室」と称していた。
 戦前からそうだったわけではない。コンクリート、煉瓦も導入されていた。

 沖縄で始めてコンクリート建築がなされたのは、大正13年(1924)の金武村(現・町)金武小学校校舎と大宜味村役場であったと(県史)にある。
 設計、建築指導にあったのは、国頭郡役所建築技手・清村勉。
 県庁役人もコンクリートの建物を見たことがない人が多く、わざわざ模型を作り、コンクリート建物の特性を説明。白蟻や台風被害に対する耐久性などを強調して、建築許可を得たという。
 しかし、一部地域住民から4角形のコンクリート建ては、大型の(お墓)に見えたかして「子どもたちを墓の中に閉じ込めるのは、如何なものかっ」と、建築反対の声も上がったという。
 今日のように生コンクリートもなく、ブロックもない時代のこと。砂とセメントをかき混ぜる作業から、手押し車での運搬、バケツによる流し込みなど、すべて人力により完成をみた。この金武小学校は当時、現在の宜野座村にあり、大宜味村役場とともに「珍しい校舎、役場が落成したそうな」と、近隣からは手弁当を持って(見学)にくる人も多かった。

 大正13年には煉瓦建ての校舎も登場する。
 沖縄に教育制度が施行されたのは明治13年(1880)のこと。
 島尻郡に10校、首里に3校、伊江島に1校が設立された。
 小禄間切(現・那覇市)では、小禄尋常小学校が開校をみているが、「織物の里」として知られる地の利を活かして同地特産の琉球絣(染織、織機等)を婦女子に継承させるべく、実業補習学校を小禄小学校の敷地内に設立を計画。同校は明治41年(1908)、糸満村(現・市)をふくむ15ケ村の(組合立)となり「島尻郡女子工業徒弟学校」と改称、実績をつんできたが、組合が解散の憂き目をみて「小禄村立女子工業学校」を名乗ることになった。
 このころから(手に職を持つ)女子の意識が高くなり、工業学校は、女学校とともに各地の女子の(憧れ校)になり、社会的にも認知されるようになる。
 それに伴い恒久校舎建設を計画した行政は、煉瓦の先進地である台湾に関係議員団を派遣して調査。遂に大正13年、総工費5万円をかけて、赤煉瓦2階建てを完成。これが沖縄における初の(煉瓦造り)。
 ちなみに煉瓦は沖縄刑務所入所者が焼き、セメントは「浅野セメント」を使用したと県史にある。

 あのころ新築ともてはやされた学校施設はじめ、ほとんどの建造物が老朽化して改築、新築がなされている。一般の住居もまたしかりである。
 終戦直後の我が家は、まず、捕虜収容地のひとつ石川市(現・うるま市)の1区5班に落ち着いた。同地の茅葺の旧家を半分に仕切り、これまた戦火に追われて同地に着いた(幸地さん一家)とともに住いしていた。
 そのころのことを歌った「敗戦数え唄・一名石川数え唄」の中でも、『戦争が終わってアメリカ世になった。交通もトラック、ジープ、バスなどが走って、那覇との往来も便利になった。軍作業にも就き易いし皆、県令に働いてコンクリート建て、ブロック家屋も建てましょう。造りましょう』とある。軍作業とは、米軍基地で働くことだが、中でも基地づくり、建築現場に派遣された者は(儲け頭)とされ、いち早く自分の家を持つことができた。なにしろ、ベニヤ板、2×4角材、ノコギリ、ハンマー、釘などかが(戦果)として入手できたからだ。当時、もてはやされた職業は1位に軍用トラックのドライバー、2位に通訳、3位にメスホール勤め(軍用食堂)、4位にPX(軍用酒保・軍用売店)と順位付けられた。
 儲け損なったのは文化人、教職員。生き方として常識を逸脱することを成すわけにはいかないから、米軍基地の物資を無許可で黙って持ち出す(戦果上ぎやー・無断持ち出し)になれなかったせいだ。
 事実「娘を嫁にやるなら通訳かトラックドライバー」という言葉が公然と言われた時代だった。

 いま、学校の外から見る校舎のみならず、教育施設も最新機材を導入して、充実していると聞く、嬉しいかぎりである。
 
 小学校に立ち寄っただけなのに、ボクは時間を逆回しして遠いところまで住ってしまった。(帰ろう)。野球に熱中する子どもたちの元気な声は、まだ続いている。