旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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竹槍・バケツ・防空壕

2014-06-20 00:10:00 | ノンジャンル
 10人でも20人でもいいわけだが、とにかく2組を作る。
 それぞれがバケツを用意し、広場の前方に設置した水槽に水を満たす競争をする。一方は水槽まで縦1列に並び、1個のバケツに水を満たしてリレー形式で水を運び、他方は全員一斉にそれを成す。距離は15メートル。いずれが早く目的を達成できるか。テレビでその実験をしていた。
 いずれに軍配は上がるか。
 バケツリレーよりも、総掛かりの方が早い。それは距離に勝因があった。15メートルならば総掛かり組は何往復でも出来るが、30メートル以上になるとひとりひとりの体力、スタミナが持たない。その点、リレー方式は動きの範囲が狭い分、長距離に対応できるというわけだ。戦時中、このバケツリレーは町内会や学校で日本軍部の命令で毎日のように行われた。
 「神国日本が鬼畜米英に負けることはないが、万が一の空襲、陸上戦による火災被害を防ぐためだ」。
 目的はそれであった。日本軍部は、すでに空襲、陸上戦を覚悟していたのだろう。横道にそれるが戦後、学校の運動会が復活したころ、バケツリレーは競技種目のひとつになっていた。

 昭和19年(1944)の記録にこうある。
 7月。日本が支配していたサイパンが陥落。県内では戦時体制の確立を急いだ。そのひとつは住民の防空訓練。そして防空壕堀りであった。
 各小学校はもちろん、隣組単位、村単位でそれは成された。服装は男子はカーキー色の国民服にゲートル、戦闘帽。女子は筒袖にモンペ、髪型は行動しやすいように(みつあみ)が奨励され、さらに日の丸入りの鉢巻を半ば義務付けられた。訓練はまず、町内、村内の広場や校庭に成人男女が集合。井戸や水飲み場を起点にして、等間隔の縦1列に並び、広場中央に設置された(仮想火災地点)までバケツリレーを行い、消火する訓練である。
 また、学校では空襲警報が発せられた時、天皇陛下の写真(御真影)や、明治以降、天皇が大権によって国民に直接発した意思表示(勅語・ちょくご)書をどこへ奉還(お返しすること。納める)するか、学校長を中心に全職員による訓練もなされた。その他に授業中に空襲警報が発令された場合、児童生徒をどこに避難させるかその訓練。避難用の防空壕をどこに、何カ所設置するか。それが決まると皆、防空壕堀りに懸命だった。これは各戸、集落単位でも協議の上成された地域が少なくない。
 「自分たちの命は、自分たちで守ろう」。
 ところが、いよいよ戦局不利、沖縄地上戦の可能性が濃厚になってくると、それらの防空壕は日本軍に占拠され、住民は児童にいたるまで追い出される羽目になった。
 余談ながら、当時6歳の筆者。那覇市山下町、那覇港南岸の山手にあった生家裏に父や中学生の兄が堀った防空壕があった。昭和19年10月10日、世に言う(10・10空襲)の時は、その防空壕に一家して避難。それでも戦火は防げず、恩納村山田に難を逃れ、翌年5月末まで羽地村(現・名護市)や恩納岳の山中を逃避行することになる。
那覇の大空襲。戦争が何なのか知らない幼児は、防空壕の入り口に防弾用に立てられた数枚の畳の隙間から隊列をなした戦闘機B29から、まさに黒豆をぱらぱら播くように投下される爆弾を恐怖心をつのらせながらも(きれいだなあ)と、垣間見たことを記憶している。

 戦時中の言葉に「少国民」がある。
 戦時下の少年少女に対する呼称。戦時教育の徹底化を図り、子どもを戦争遂行の一員に組み込むのが目的。全国的に組織されたが、沖縄でも(銃後の少国民文化を確立する)と称して昭和17年(1942)。沖縄少国民文化協会が設立された。
 「戦争とはそうしたもの。現地だけで行われるものではない。男たちは戦場へ駆り出し、女たちは銃後を守る国の花となれ!と激励、奨励し、さらには少年少女まで戦時要員に仕立てていく・・・・。いま、どうだろう。徴兵制度が見え隠れする日本。そうなった時に、ワシなぞ年寄りは兵隊としては、もう役には立たない。かえって足手まといだ。徴兵されるのはワシたちの子や孫だ。そうなった時は、ワシたちが物干し棹の先をとがらせた(竹槍)を国に突きつけてでも、子や孫を戦場になぞ行かせるものか!」。
 戦時中、少年だった古老は小刻みに上唇を震わせながら、本心を語る。
 「高校生の孫に、爺ちゃんたちは“何のために竹槍訓練をしたの?竹槍をどうするつもりだったの?”と聞かれて返事に窮したよ。でも正直に、敵が上陸してきたら、ひとりひとり敵兵を竹槍で突き殺せっ!と日本軍に命令されていたと答えた。孫は“そんなバカなっ!戦国時代じゃあるまいし、竹槍が鉄砲や機関銃や戦車に勝てるわけがないじゃん!風車に槍を向けて戦おうとしたドン・キホーテじゃん!”と、腹を抱えて笑っていた。でも、当時は真剣にそうしようと思い、訓練に励んでいたんだからなぁ大人たちは・・・・」。
 時代の価値観と言えばそれまでだが、どんな形でも戦争で死ぬのは兵士だけではない。女、子どもであることは戦史が証明している。われわれは今、何を考え行動すればよいか。
 滋賀県彦根市長夫人であった、琉球最後の国王尚泰(しょう たい)の曾孫井伊文子氏は戦後、帰郷した際「ひめゆりの塔」に詣で和歌を詠んでいる。
 “ひめゆりのいしぶみ深くぬかづけば たいらぎを乞いのむ乙女らの声す
 ひめゆりの塔にぬかづけば、平和の世界が1日も早く訪れるようにという乙女たちの声が聞こえるの意。
 6月23日は、沖縄戦が終結されたとされる日。「慰霊の日」。