旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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正月・琉歌・そして余話

2014-01-01 00:00:00 | ノンジャンル
 幾度「新年」を迎えたことか。
 少年のころはそうそう食せない馳走に期待して“もういくつ寝るとお正月”も歌った。私の(少年のころ)は終戦の20年代だから“お正月は凧上げて駒を回して遊びましょう”とはいかなかったが、それでも年末に屠殺したソーグァチウァー(正月用の豚)の肉にはありつけた。もっとも、それにありつけなない捕虜収容地もあったが・・・・。しかし、敗戦の中でも(正月は正月)。何かいいことありそうで、正月の馳走はそれなりにこしらえていた。
 戦火に追われての中、北部の山中を逃避行。最終的には現うるま市石川の収容地に命を繋いだ一家には、配給と称した豚肉が届く。したがってソーグァチウァーのシシは形ばかり。あとは米軍基地から流出する豚肉、牛肉の缶詰が食卓に乗った。こうした正月を大人たちは「クァンジュミ・ソーグァチ=缶詰正月」と言っていた。
 そして、三線をよくする人の家からは「正月かぢゃでぃ風節」が聞こえた。

 ♪新玉ぬ年に 炭とぅ昆布飾ぢゃてぃ 心から姿 若くなゆさ
 〈あらたまぬ とぅしに タンとぅクブかぢゃてぃ くくるからしがた わかくなゆさ

 歌意=巡り来た正月に炭を昆布で巻いたものと金運に恵まれるようにと黄金色の蜜柑を添えた注連縄を飾る。身も心も若くなる心地がする。めでたし!めでたし!
 「炭と昆布」は、沢山、大いに意味する「たんと喜ぶ」の語呂合わせ。注連縄は間に合わせで作られたもので、門松が登場するのは、まだまだ後年のこと。命ひとつ引っ提げて生き残った人びとは、粗末な注連縄、ソーグァチウァー、缶詰、そして歌三線に明日への希望を見出したかったに違いない。

 これも少年のころのことだが、黒砂糖1個を奪い合って2つ違いの姉と喧嘩して泣いた。母親はすかさず言った「正月に泣くと1年中ナチブサーになるよっ!」。
 ナチブサーは泣き虫のこと。この1年、泣き虫になっては男としては面目ない。悔し涙を抑えるための努力はしたものの、姉に奪われた黒砂糖への未練は容易には立ち難く、涙が止まるまでには時間がかかった。
 「正月に兄弟喧嘩をすると、1年中兄弟仲が悪くなる」。
 「正月に嘘をつくと、1年中ユクサー(嘘つき)になる」。
 などなどと(悪さ)を戒められた。逆に、
 「正月に人さまに親切にすると、1年中心やさしく過ごせる」。
 「正月に勉強すると1年中ディキヤー(賢い人)になる」。
 などなどの奨励もあった。
 中学のころの正月。手作りの机とは名ばかりのモノに向かって読書の態を取っていた。親は「えらい勉強!」と褒めてくれたが、その本を10歳上の兄貴に見つかって、こっぴどい仕置きを受けた。読んでいたモノがいけなかった。悪友が近くの貸本屋で借りてきた月刊誌「夫婦生活」がそれ。少年には仕置きの理由が理解できていたので、兄貴の叱責を甘んじて受けたことだが、そのころ私は色気づきはじめていたのだろう。その正月以来、いまもって色気ばなしには敏感に反応する。「正月にナニナニすると1年中ナニナニになる」と言うのは、どうやら本当らしい。

 正月には酒がつきもの。
 年始の座、あるいは古馴染みの者が集まっての酒もある。
 酒は飲む人の本性を導き出す。日頃は温厚な御仁が豹変して鬼になる事もあり、その逆もある。酒癖も様々。年始客に泣き上戸がいて、何かと言えば泣いて話し、それでも盃は離さない。挙句の果てには三線を弾いて歌い出す。この泣き上戸の仕様を見て、ある人が琉歌を詠んでいる。

 ♪正月ぬ御酒 飲み過ぎゆしちょてぃ 酔い泣ちぬマドゥや述懐仲風
 〈ソーグァチぬウジャキ ぬみすぎゆしちょてぃ ゥイなちぬマドゥや すっくぇーなかふう

 *ゥイなち=酔い泣き。*述懐、仲風=琉球宮廷音楽の中のニ揚り調子の名曲。
 歌意=おやおやこの御仁。年始の酒をちょいと飲みすぎたかな。ほんの世間ばなしも泣きながら話したかと思ったら、いきなり泣き止んで得意の述懐仲風を歌い出す。なんと変わり身の速さであることか。いや、めでたし!めでたし!
 「マドゥ」は、ナニナニとナニナニ間の意。
 泣いていると思えば突然泣き止み。次に泣き語りをする合間には、歌三線を披露する。なんと器用な酒癖、泣き上戸であることか。
 
 さてさて。
 “もう幾つ寝るとお正月・・・・”を歌わなくなってから幾歳になったろうか。
 自分の年齢を数えるのも面倒くさくなってきた。青年のころまでは「早く壮年になって、世間をよく見たい」と思ったことだが、それが過ぎると年齢なぞ「単なる時間の経過」であることを悟り、無関心になる。そして「歳とぅカーギや なあ前々=トゥシとぅカーギや なあめーめー」に気づく。つまり、年齢と容姿は人それぞれ。大した問題ではないのだ。
 そこで私。2014年1月1日号をこの琉歌で締めて「午年の心意気」としよう。

 ♪年寄たん思むてぃ 鏡取てぃ見りば なま年やあらん 花ぬ姿
 〈とぅしゆたんとぅうむてぃ かがんとぅてぃみりば なまとぅしやあらん はなぬしがた

 歌意=もう老年だ!と思いながら鏡を取って己を見た。そこに映っているのは、どうしてどうして老顔どころか、花と見まがう溌剌とした姿ではないか。めでたし!めでたし!
 んっ?今号の琉歌、会話を読み返してみると「歳とぅカーギや なあ前々」と訳知りごとを吹聴しながら、切実に「老い」を意識しているのは己ではないか・・・・。まあまあ、心意気だけは健全に押し出して「午年」をこなして行こう。

 ※1月上旬の催事。
 *首里城公園「新春の宴」(那覇市)
 開催日:1月1日~1月3日
 場所:首里城