沖縄県立南風原高校3年生知念賞くんの三線歴は9年になる。
「祖母の85歳の生れ年祝いには、自分が弾き歌う“かじゃでぃ風節”で、祖母を中心に家族全員を躍らしたい」
その一念で稽古を積み、夢を実現。現在は、郷土芸能部に入部して仲間たちとさらに腕を磨き合っている。将来は、新聞社が主催する芸能コンクール三線の部の新人賞・優秀賞そして最高賞を取得したいそうな。
「他の仲間よりも各賞を取得するのは僕が早いと思います。なにしろ、僕の名前は“賞”ですから」
洒落も忘れてはいない。勉強も三線も、大人になったら仕事も人生も(どうせやるなら楽しくやろう)と、思い極めているようだ。
※【八十五歳・生れ年祝儀歌】
今年(子)ぬ年や 八十五ぬ御祝 子、孫揃るてぃ 百歳御願
<くとぅし (に)ぬとぅしや はちじゅうぐぬ うゆえ くぁ、んまが するてぃ ひゃくしぇ うにげ>
(子)は、便宜上そうしただけで、実際には本人の干支にすればよい。今年、八十五歳の方のためには“今年卯ぬ年や・・・・”というふうに。ついでに、十二支の沖縄語発音を記しておこう。
*子<に>*丑<うし>*寅<とぅら>*卯<う>*辰<たち>*巳<み>*午<んま>*未<ふぃちじ・ひちじ>*申<さる>*酉<とぅゐ>*戌<いん>*亥<ゐ>。
〔歌意〕
今年(子)年は、晴れて八十五歳の祝日を迎えることができた。なんと嬉しいことか。これも先祖神と家族と親族と、厚誼をいただいた方々のおかげである。さあ、これからは子や孫と共に百歳までの長寿を希望し、12年後の97歳の祝いができるよう願掛けをしよう。
この1首をよくよく読みくだしていると、分句のような気がしないでもない。上句を本人が歓びを表わして発したのに対し、下句は居並ぶ子や孫や嫁、婿が呼応したものと風景化してみると、一段と温かい膨らみを感じる。もっとも、これは私の勝手な思い込み。妙にひねくり返さなくても、立派な琉歌であることには変わりはない。そして、長寿祝いの冒頭に「かじゃでぃ風節」を歌舞した後には決まって「祝い節」「めでたい節」の節曲に乗せて、次の歌詞を歌う。太鼓のリードで満座の人たちは、手拍子を取りながら合唱をする。踊りがつくことも稀ではない。
白髪御年寄ゐや 床ぬ前に飾てぃ 産し子歌しみてぃ 孫舞方
<しらぎ うとぅすゐや とぅくぬめに かじゃてぃ なしぐぁ うたしみてぃ んまが めーかた>
*舞方=舞い手。空手舞いを原則とする。
〔歌意〕
人生の荒波に、すっかり白髪になった我が親。それでもかくしゃくとして満面の笑顔が美しい。今日は、敬意と祝意を表して一番座の床の間に座っていただき、われら子は歌三線を華やかし、孫たちには舞方を舞わして祝おう。
舞方には、決まった型や振り付けはない。先人たちが演じたものを見様見真似で習い覚え、その上で今風の型を編み出す。したがって、地方によって表現が異なる。屋内で演ずる場合は、素手の空手舞になるが、村祭りなど屋外でなされる場合は振りも大きく、棒術やヌンチャク、サイ等々、得手の古武術具を自由に操って披露する。もちろん「かじゃでぃ風節」に乗せてである。
舞方は、多いに男らしさを発揮できる。舞方上手の若者は昔も今も女性にモテる。殊に村祭りが近くなると、近隣の女童<みやらび。なーらび>たちは(どこそこの祭りでは、誰それが舞方を演じるそうな)と噂仕合って出かけた。屋内、屋外とも、その座その場の邪気を祓い、福徳を呼び込むという民間信仰があることは言を待たない。
本来、生れ年〔厄年〕と考えられていて、祝儀はその厄を落とす儀式とともに〔健康的自重・自愛の1年〕としてきた。したがって、生れ年の翌年を〔晴れ厄=はりやく〕と言い、再び厄落としの祝いをした。「トゥビー。年日・生れ年」の語源を「年忌み」としているのも、この観念に基づいている。しかし、近年からは年忌みの観念は皆目なく「長寿祝い」と位置付けている。また、それでよいのではなかろうか。
「人間の寿命は天命。欲を出しても仕方ない。ただ、子を産み育てているうちに(この子らに目、鼻がつくまではッ)という考えが強烈に頭をもたげてくる。それが(この子が結婚するまではッ)(孫の顔をみるまではッ)(孫が成人するまではッ)と、際限ない夢を見て懸命になっているうちに85歳になってしまった。まあ、これが欲と言えば欲だろうね。この程度の欲は大目に見てくれないかね。85歳は子や孫が生かしてくれた命とも思える」
過日。85歳のウフスージ<大祝儀>をなさったウミシージャ<先輩に対する敬称>のコメントだ。肖り<あやかり>たくなった。
*「歌い分け・かじゃでぃ風節」は4月1日号に続く。
「祖母の85歳の生れ年祝いには、自分が弾き歌う“かじゃでぃ風節”で、祖母を中心に家族全員を躍らしたい」
その一念で稽古を積み、夢を実現。現在は、郷土芸能部に入部して仲間たちとさらに腕を磨き合っている。将来は、新聞社が主催する芸能コンクール三線の部の新人賞・優秀賞そして最高賞を取得したいそうな。
「他の仲間よりも各賞を取得するのは僕が早いと思います。なにしろ、僕の名前は“賞”ですから」
洒落も忘れてはいない。勉強も三線も、大人になったら仕事も人生も(どうせやるなら楽しくやろう)と、思い極めているようだ。
※【八十五歳・生れ年祝儀歌】
今年(子)ぬ年や 八十五ぬ御祝 子、孫揃るてぃ 百歳御願
<くとぅし (に)ぬとぅしや はちじゅうぐぬ うゆえ くぁ、んまが するてぃ ひゃくしぇ うにげ>
(子)は、便宜上そうしただけで、実際には本人の干支にすればよい。今年、八十五歳の方のためには“今年卯ぬ年や・・・・”というふうに。ついでに、十二支の沖縄語発音を記しておこう。
*子<に>*丑<うし>*寅<とぅら>*卯<う>*辰<たち>*巳<み>*午<んま>*未<ふぃちじ・ひちじ>*申<さる>*酉<とぅゐ>*戌<いん>*亥<ゐ>。
〔歌意〕
今年(子)年は、晴れて八十五歳の祝日を迎えることができた。なんと嬉しいことか。これも先祖神と家族と親族と、厚誼をいただいた方々のおかげである。さあ、これからは子や孫と共に百歳までの長寿を希望し、12年後の97歳の祝いができるよう願掛けをしよう。
この1首をよくよく読みくだしていると、分句のような気がしないでもない。上句を本人が歓びを表わして発したのに対し、下句は居並ぶ子や孫や嫁、婿が呼応したものと風景化してみると、一段と温かい膨らみを感じる。もっとも、これは私の勝手な思い込み。妙にひねくり返さなくても、立派な琉歌であることには変わりはない。そして、長寿祝いの冒頭に「かじゃでぃ風節」を歌舞した後には決まって「祝い節」「めでたい節」の節曲に乗せて、次の歌詞を歌う。太鼓のリードで満座の人たちは、手拍子を取りながら合唱をする。踊りがつくことも稀ではない。
白髪御年寄ゐや 床ぬ前に飾てぃ 産し子歌しみてぃ 孫舞方
<しらぎ うとぅすゐや とぅくぬめに かじゃてぃ なしぐぁ うたしみてぃ んまが めーかた>
*舞方=舞い手。空手舞いを原則とする。
〔歌意〕
人生の荒波に、すっかり白髪になった我が親。それでもかくしゃくとして満面の笑顔が美しい。今日は、敬意と祝意を表して一番座の床の間に座っていただき、われら子は歌三線を華やかし、孫たちには舞方を舞わして祝おう。
舞方には、決まった型や振り付けはない。先人たちが演じたものを見様見真似で習い覚え、その上で今風の型を編み出す。したがって、地方によって表現が異なる。屋内で演ずる場合は、素手の空手舞になるが、村祭りなど屋外でなされる場合は振りも大きく、棒術やヌンチャク、サイ等々、得手の古武術具を自由に操って披露する。もちろん「かじゃでぃ風節」に乗せてである。
舞方は、多いに男らしさを発揮できる。舞方上手の若者は昔も今も女性にモテる。殊に村祭りが近くなると、近隣の女童<みやらび。なーらび>たちは(どこそこの祭りでは、誰それが舞方を演じるそうな)と噂仕合って出かけた。屋内、屋外とも、その座その場の邪気を祓い、福徳を呼び込むという民間信仰があることは言を待たない。
本来、生れ年〔厄年〕と考えられていて、祝儀はその厄を落とす儀式とともに〔健康的自重・自愛の1年〕としてきた。したがって、生れ年の翌年を〔晴れ厄=はりやく〕と言い、再び厄落としの祝いをした。「トゥビー。年日・生れ年」の語源を「年忌み」としているのも、この観念に基づいている。しかし、近年からは年忌みの観念は皆目なく「長寿祝い」と位置付けている。また、それでよいのではなかろうか。
「人間の寿命は天命。欲を出しても仕方ない。ただ、子を産み育てているうちに(この子らに目、鼻がつくまではッ)という考えが強烈に頭をもたげてくる。それが(この子が結婚するまではッ)(孫の顔をみるまではッ)(孫が成人するまではッ)と、際限ない夢を見て懸命になっているうちに85歳になってしまった。まあ、これが欲と言えば欲だろうね。この程度の欲は大目に見てくれないかね。85歳は子や孫が生かしてくれた命とも思える」
過日。85歳のウフスージ<大祝儀>をなさったウミシージャ<先輩に対する敬称>のコメントだ。肖り<あやかり>たくなった。
*「歌い分け・かじゃでぃ風節」は4月1日号に続く。