朝。出かける前に玄関脇の鏡に向かってニッコリ笑ってみせる。
日々平穏・日々好日のときは、それなりに合格点をつけられる笑顔がある。己の笑顔がその日一日に自信さえ持たせてくれるし[今日もいい男]と自惚れを増倍することもある。しかし「胸に一物背に荷物」の日は、どうしても無理な作り笑顔がそこにあって、自己嫌悪を引っ提げたままの一日になってしまう。おふくろは、よく言っていた。
「結婚するなら、フークブン〈頬の窪み。えくぼ〉の出る女性と結婚なさい。笑い福ゐ・笑い誇ゐと言って、フークブンの笑顔の女性は、男に福と徳をつけてくれる」。
「笑う門には福来たる」。明るい家庭にこそ幸福はやってくるということを言い聞かせたかったのだろう。そのおふくろの教訓通りに今日まで家庭生活を営んできたが・・・。わが側近の者は肉付きがよくフークブンの出にくい顔立ち。これまで何とか共存してはいるものの、果たして幸か不幸か。玄関先の鏡に相談してみなければならない。
日常生活の中の笑い・ユーモアは大いに歓迎すべきであることは、何人も否定はしないだろう。このことは家庭にとどまらず、それぞれの住む地域にも当てはまることだ。
“ようこそここへ 区、区、区、区 私の真栄原区”
“交通事故ゼロ 演歌はジェロ”
宜野湾市字真栄原の交差点に見ることができる立て看板の文句だ。
作詞阿久悠・作曲中村泰士・歌桜田淳子のヒット曲「わたしの青い空」の“クッククックわたしの青い空”をもじったフレーズはいささかマニアックだが思わず吹き出した後、なごやかな気持ちになる。
宜野湾市字真栄原は、市制前の宜野湾市字大謝名と字嘉数の各一部だったが、昭和14年に行政区として分立している。地名は、真に栄える地〈原〉になるよう念願して付けられたと宜野湾市史に記されている。明治34年、普天間街道の整備が進むにつれ、居住者は増え、この地の十字路付近には商店が建ち、街の形を成してくるようになった。そのことにより行政区・真栄原の誕生をみるのである。現在、区内には嘉数中学校、沖縄カトリック小・中・高等学校、病院があるほか各種店舗、中古車センター、飲食店、遊技場などで昼夜にぎわっている。また、真栄原十字路は、東西南北への要路になっていて、朝夕は車の渋滞を余儀なくされているだけに“交通事故ゼロ 演歌はジェロ”などのおもしろ看板は、先を急ぐドライバーを落ち着かせているようだ。
この「おもしろ看板」の発案者は現・真栄原区自治会知名康司会長〈54歳〉。「知名さんは、日ごろから駄じゃれやギャグを連発している人物。その特技?が活かされて、区内が明るくなった」とは、区民の賛辞である。
“あせりは禁物 あさりは海産物”“考えよう 沖縄の未来と犬のフン”
これらに対して「ふざけ過ぎ」の批判もあるが、区民の大方は歓迎。車を止めて写真撮影する人や噂を聞いて[看板巡り]をする観光客もいて「明るい街のイメージ」とする意見が多い。しかし、アクシデントもあった。
知名会長快心の傑作“お年寄りはいたわろう 空手は板割ろう”の看板を立て掛けたところ、翌朝には見事に看板が割られていた。
「世の中には実に素直の人がいるものだ。空手家では決してなかろうが、下の句を実行したらしい。でも、その人はどこかで上の句を実践しているだろうから、区としては苦にならない。エッ?それでどうしたって?また同じものを作って立て掛けたよ」。
知名会長はあくまでも駄じゃれを忘れない。
“ユーモアのある人は ゆうモーヤー”“備えあれば憂いなし その日あればウレーマシ”にいたっては、沖縄語に通じないと理解しにくかろう。あえて注釈すると前句は「ユーモアを解する人は性格も明るく、うまく手踊り・舞いの達人」。後句は「憂いのない日があれば。それに越したことはない」となる。舞い=モーヰ。ゆう=よくするの強調接頭語。それがの意。これ=クリ。あれ=アリ。待てッ!駄じゃれを注釈するほど不粋なことはない。反省。
北村孝一編「世界のことわざ辞典=東京堂出版」【言葉】の項目につぎなようなそれがある。
足は滑らせても 口は滑らせるな〈英、仏〉
おしゃべりは道を短くし 歌は仕事を楽にする〈露〉
口先では世界中でも耕せるが 手では狭い土地でも大変だ〈マダガスカル〉
沖縄にもマダガスカルと同義の俗語がある。
口びけーんやれぇー 首里御城ん建ちゅん=口で言うだけなら、首里の御城でも簡単に建てられる。
真栄原区のおもしろ看板は、好評不評は問題外の外。人心怪しくなったいま、ユーモアを駆使した表現が発揮されるべきではなかろうか。
余談。
沖縄市某所の一角にある食堂。昼間は味噌汁、沖縄そば、煮つけを主としているが、夕刻からはタコ刺身と泡盛の一杯飲み屋になる。仕事帰り、空腹で入ってくる客のために最近、店内に真新しいメニュー案内を貼ってある。曰く。
“夜もランチ有ります”
日々平穏・日々好日のときは、それなりに合格点をつけられる笑顔がある。己の笑顔がその日一日に自信さえ持たせてくれるし[今日もいい男]と自惚れを増倍することもある。しかし「胸に一物背に荷物」の日は、どうしても無理な作り笑顔がそこにあって、自己嫌悪を引っ提げたままの一日になってしまう。おふくろは、よく言っていた。
「結婚するなら、フークブン〈頬の窪み。えくぼ〉の出る女性と結婚なさい。笑い福ゐ・笑い誇ゐと言って、フークブンの笑顔の女性は、男に福と徳をつけてくれる」。
「笑う門には福来たる」。明るい家庭にこそ幸福はやってくるということを言い聞かせたかったのだろう。そのおふくろの教訓通りに今日まで家庭生活を営んできたが・・・。わが側近の者は肉付きがよくフークブンの出にくい顔立ち。これまで何とか共存してはいるものの、果たして幸か不幸か。玄関先の鏡に相談してみなければならない。
日常生活の中の笑い・ユーモアは大いに歓迎すべきであることは、何人も否定はしないだろう。このことは家庭にとどまらず、それぞれの住む地域にも当てはまることだ。
“ようこそここへ 区、区、区、区 私の真栄原区”
“交通事故ゼロ 演歌はジェロ”
宜野湾市字真栄原の交差点に見ることができる立て看板の文句だ。
作詞阿久悠・作曲中村泰士・歌桜田淳子のヒット曲「わたしの青い空」の“クッククックわたしの青い空”をもじったフレーズはいささかマニアックだが思わず吹き出した後、なごやかな気持ちになる。
宜野湾市字真栄原は、市制前の宜野湾市字大謝名と字嘉数の各一部だったが、昭和14年に行政区として分立している。地名は、真に栄える地〈原〉になるよう念願して付けられたと宜野湾市史に記されている。明治34年、普天間街道の整備が進むにつれ、居住者は増え、この地の十字路付近には商店が建ち、街の形を成してくるようになった。そのことにより行政区・真栄原の誕生をみるのである。現在、区内には嘉数中学校、沖縄カトリック小・中・高等学校、病院があるほか各種店舗、中古車センター、飲食店、遊技場などで昼夜にぎわっている。また、真栄原十字路は、東西南北への要路になっていて、朝夕は車の渋滞を余儀なくされているだけに“交通事故ゼロ 演歌はジェロ”などのおもしろ看板は、先を急ぐドライバーを落ち着かせているようだ。
この「おもしろ看板」の発案者は現・真栄原区自治会知名康司会長〈54歳〉。「知名さんは、日ごろから駄じゃれやギャグを連発している人物。その特技?が活かされて、区内が明るくなった」とは、区民の賛辞である。
“あせりは禁物 あさりは海産物”“考えよう 沖縄の未来と犬のフン”
これらに対して「ふざけ過ぎ」の批判もあるが、区民の大方は歓迎。車を止めて写真撮影する人や噂を聞いて[看板巡り]をする観光客もいて「明るい街のイメージ」とする意見が多い。しかし、アクシデントもあった。
知名会長快心の傑作“お年寄りはいたわろう 空手は板割ろう”の看板を立て掛けたところ、翌朝には見事に看板が割られていた。
「世の中には実に素直の人がいるものだ。空手家では決してなかろうが、下の句を実行したらしい。でも、その人はどこかで上の句を実践しているだろうから、区としては苦にならない。エッ?それでどうしたって?また同じものを作って立て掛けたよ」。
知名会長はあくまでも駄じゃれを忘れない。
“ユーモアのある人は ゆうモーヤー”“備えあれば憂いなし その日あればウレーマシ”にいたっては、沖縄語に通じないと理解しにくかろう。あえて注釈すると前句は「ユーモアを解する人は性格も明るく、うまく手踊り・舞いの達人」。後句は「憂いのない日があれば。それに越したことはない」となる。舞い=モーヰ。ゆう=よくするの強調接頭語。それがの意。これ=クリ。あれ=アリ。待てッ!駄じゃれを注釈するほど不粋なことはない。反省。
北村孝一編「世界のことわざ辞典=東京堂出版」【言葉】の項目につぎなようなそれがある。
足は滑らせても 口は滑らせるな〈英、仏〉
おしゃべりは道を短くし 歌は仕事を楽にする〈露〉
口先では世界中でも耕せるが 手では狭い土地でも大変だ〈マダガスカル〉
沖縄にもマダガスカルと同義の俗語がある。
口びけーんやれぇー 首里御城ん建ちゅん=口で言うだけなら、首里の御城でも簡単に建てられる。
真栄原区のおもしろ看板は、好評不評は問題外の外。人心怪しくなったいま、ユーモアを駆使した表現が発揮されるべきではなかろうか。
余談。
沖縄市某所の一角にある食堂。昼間は味噌汁、沖縄そば、煮つけを主としているが、夕刻からはタコ刺身と泡盛の一杯飲み屋になる。仕事帰り、空腹で入ってくる客のために最近、店内に真新しいメニュー案内を貼ってある。曰く。
“夜もランチ有ります”