2011 10 01(土)
今回は義人“茂左衛門”に関係する幾つかの場所のご紹介。
真田伊賀守信利(信直)の暴政に耐えかね、農民を救うために茂左衛門直訴事件の前に直訴におよび失敗し、目的果たせずに打ち首に処せられた政所(まんどころ)村の名主・松井市兵衛を祀る“市兵衛地蔵尊”をお参りします。
みなかみ町政所村の隣村・真庭村の旧街道筋で、昔は利根川岸であった斜面に“市兵衛地蔵尊”がありました。
茂左衛門祭りの当日だったので、地蔵堂の扉は開かれ、祀られている市兵衛地蔵を拝顔することが出来ました。
市兵衛地蔵堂脇の木立の中には“義民・松井市兵衛”の首が切られた刑場跡碑があります。
この地点が義民・松井市衛処刑の地。
農民たちの困窮を救うべく、月夜野村の名主・杉木茂左衛門と相談した松井市兵衛は単身江戸に赴き(延宝9年)、大目付・桜井正之助登城の際に訴状を差し出しますが、握り潰されて越訴(直訴)の咎で捕縛され天和元年12月29日ここ真庭の地で打ち首に処せられました。(茂左衛門直訴の数ヶ月前のこと。)
直訴が取上げられなかった事は後の“茂左衛門直訴”に多くの教訓を与え、上野輪王寺経由の直訴で成功となりました。
次に訪ねたのは国道旧17号線の横にある“大宝院塚”。 場所は沼田市恩田町。
大宝院塚は曼珠紗華が満開の墓地の片隅にひっそりと建っていました。
この苔生した石塚は、「茂左衛門直訴状」を浄書した天台宗大宝院の僧侶・昌月法印が捕らえられ、残酷な“石子詰”(いしこずめ)の刑で処刑された場所です。 江戸時代の直訴には幾多の命が奪われたことか・・・。
大宝院跡から約1kmの場所、小川のほとりに建てられている小さな御堂が“状橋地蔵尊”。
茂左衛門磔刑に間に合わなかった事に責任を感じた赦免状持参の使者“小川安左衛門”と“加瀬甚之丞”が刑場1里手前の井土上村のこの場所で切腹し果てました。
哀れに思った村人たちが二人の使者の霊を弔らうために石地蔵を刻みこの場所に祀ったのです。
更に茂左衛門関係遺跡を訪ねてみました。
みなかみ町月夜野では旧国道17号線脇に建つ民家の軒先に「義人 茂左衛門屋敷跡」の看板。
この辺りが名主・茂左衛門の屋敷があった場所といいます。(左隣は駐在所でP場あり)
茂左衛門屋敷跡から近くの赤谷川に架かる「小袖橋」を渡ります。(この少し上流が絶景の“黒岩渓谷・黒岩八景”)
小袖橋から約400mほど坂を上った場所に建つのが“茂左衛門地蔵奥の院”。
この地(小袖坂)で茂左衛門は捕縛されてしまいました。
極彩色の浮彫り彫刻で飾られた茂左衛門地蔵奥之院。 内陣正面には四体(立像3、坐像1)の石地蔵尊が静かに鎮座していました。
ここまで来たからには、晒し首にされた茂左衛門の首(頭)を村人が強奪し、秘かに埋葬したという“茂左衛門首塚”をお参りする事に・・・。
山中の首塚には所番地がありませんからカーナビが使えません、近くの村で道を尋ねますが「近くて遠きは田舎の道」で迷いっぱなしです。
諦めかけた時、「迷う神に救う神あり」です。 有りがたい事に軽トラックで道案内してくれるという親切な人が現れました。
軽トラの後について実り豊かな農村地帯をくねくね走って着いたのは山の麓!(軽トラのおじさん有難う!)
車の終点からは徒歩で誰も居ない寂しい急な山道を10分ほど息を切らせてハイキングです。(途中に猪除けの電流線あり、注意して跨ぐ)
野鳥のさえずりを聞きながら、あえぎ喘ぎ登った山道の端に目指す“茂左衛門首塚”がありました。
苔生した石が積重ねられた所に茂左衛門の首が埋められたそうです。
石積の最上部にポツンと置かれた古びた墓石が諸行無常の哀れを物語っているようでした。
次回は茂左衛門の時代に農民を苦しめた“水牢”を訪ねます。
2011 10 11(火) 前橋市 薄 最高気温26.0℃
おまけコーナー。
富士山。
Cool Japan! Mt.Fuji
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