地下鉄六本木駅のポスター
私にとっての最後の1本。
この映画祭での9本目です。
台風の中、行ってきました。
最後を飾ったのは、トルコ映画でした。
トルコの映画、初めて見ました。
イラン映画の『ハーフェズ』に続き、イスラム圏の映画です。
田舎の村の生活と、子供達の日常が、雄大な自然の景色の中に描かれていました。
風景が綺麗で綺麗で・・。
舞台は田舎の村ですが、とて豊かな生活です。
そして、人々も落ち着いていて、一種の桃源郷のように感じました。
トルコはイスラムの中でも政治と宗教が切り離された、比較的緩やかな体制だと聞いた事があります。
生活環境の厳しさと宗教の厳格さは比例するのでしょう。
宗教は多く描かれていますが、それよりもむしろ子供が大人になることに重点のある映画でした。
ストーリーはほとんど無いに等しく、
子供とそれを取りまく大人達の生活を淡々と追っています。
ロケ地はどこでしょう?
とっても綺麗でした。
私のこのみで言えば、音楽がもっと軽いものなら良かった。
音楽の存在感が大きすぎて、ちょっと鬱陶しかった。
ところどころ、ストーリーとは関係無く、象徴的に子供の倒れた姿が出てきます。
(死んでいるようにも見える・・眠ってるようにも見える)
子供が成長していくときには、子供自身の中にある「こども」死んでいく
というたとえなのでしょうか?
子供にとって「人生の厳しさ」「人間の醜さ」「現実」を知っていくのは、
そのたび毎に、それまでの自分が死ぬような感覚なのかもしれません。
筋肉が鍛えられるとき、筋繊維が一旦ズタズタになり、それが快復する中で一層強い筋肉ができるのだとか。
子供の感性もそうやって、何かある毎にズタズタになり、快復する中でおとなになっていく。
トルコの人の感性もおなじなんだな~とちょっと嬉しい。
人間のあり方は、どこの人でも同じでしょうけど。
この映画の舞台が「桃源郷」のようだと感じたと書きましたが、
桃源郷などこの世にあるはずは無いですね。
なぜ桃源郷と感じたか。
それは、大人が、大人の苦悩が、描かれていないからだと思います。
大人の苦悩も表面的には出てきます。
いつまでたっても年老いた親に認めてもらえず、泣いちゃうような大の男とか。
でもそれが子供の視点で捉えられているので、表面的には苦悩に見えない。
こどもは大人の苦悩や悲哀を子供の視点で理解するから。
子供の世界を頑張って表現した映画。
だから、現実の大人の苦悩は、描かれず、だから御伽噺のように感じさせてくれたのでしょう。
私の成長物語も誰も映画にしてはくれませんが、
時間と風と同じことがあったと思います。
ほんの少しだけ、映画のように「私の中の子供性」が死んだ瞬間を思い出す事も出来ます。
でも、私は割と鈍感な子供だったし、大人になるときにさらに鈍感になってしまったので、大半は忘れてしまいました。
「死」として描かれていますが、
裏を返せば、「成長」。
大人側から見れば、大歓迎のものです。
きっとあの少年少女達自身も、成長したあとの自分側から見ると、
あの時泣いたこと、自分にとって「死」と思えたことも、歓迎すべき事柄になるはず。
というか、人間は常に、時間を先へすすめる事しか出来ないから、
あの「死」を、「死」として、捕らえる事が出来るのは
「カメラ」だけだと言う事もできますね。
へ~。
そんな映画だったんだ・・
珠には深く考えてみるのも面白いですね。
終わって、監督にサインもらいました。
9本か~。何年分かを一遍に見た感じです。
いや~楽しかった。
映画祭でお会いした皆様、また来年も会いましょう!
私にとっての最後の1本。
この映画祭での9本目です。
台風の中、行ってきました。
最後を飾ったのは、トルコ映画でした。
トルコの映画、初めて見ました。
イラン映画の『ハーフェズ』に続き、イスラム圏の映画です。
田舎の村の生活と、子供達の日常が、雄大な自然の景色の中に描かれていました。
風景が綺麗で綺麗で・・。
舞台は田舎の村ですが、とて豊かな生活です。
そして、人々も落ち着いていて、一種の桃源郷のように感じました。
トルコはイスラムの中でも政治と宗教が切り離された、比較的緩やかな体制だと聞いた事があります。
生活環境の厳しさと宗教の厳格さは比例するのでしょう。
宗教は多く描かれていますが、それよりもむしろ子供が大人になることに重点のある映画でした。
ストーリーはほとんど無いに等しく、
子供とそれを取りまく大人達の生活を淡々と追っています。
ロケ地はどこでしょう?
とっても綺麗でした。
私のこのみで言えば、音楽がもっと軽いものなら良かった。
音楽の存在感が大きすぎて、ちょっと鬱陶しかった。
ところどころ、ストーリーとは関係無く、象徴的に子供の倒れた姿が出てきます。
(死んでいるようにも見える・・眠ってるようにも見える)
子供が成長していくときには、子供自身の中にある「こども」死んでいく
というたとえなのでしょうか?
子供にとって「人生の厳しさ」「人間の醜さ」「現実」を知っていくのは、
そのたび毎に、それまでの自分が死ぬような感覚なのかもしれません。
筋肉が鍛えられるとき、筋繊維が一旦ズタズタになり、それが快復する中で一層強い筋肉ができるのだとか。
子供の感性もそうやって、何かある毎にズタズタになり、快復する中でおとなになっていく。
トルコの人の感性もおなじなんだな~とちょっと嬉しい。
人間のあり方は、どこの人でも同じでしょうけど。
この映画の舞台が「桃源郷」のようだと感じたと書きましたが、
桃源郷などこの世にあるはずは無いですね。
なぜ桃源郷と感じたか。
それは、大人が、大人の苦悩が、描かれていないからだと思います。
大人の苦悩も表面的には出てきます。
いつまでたっても年老いた親に認めてもらえず、泣いちゃうような大の男とか。
でもそれが子供の視点で捉えられているので、表面的には苦悩に見えない。
こどもは大人の苦悩や悲哀を子供の視点で理解するから。
子供の世界を頑張って表現した映画。
だから、現実の大人の苦悩は、描かれず、だから御伽噺のように感じさせてくれたのでしょう。
私の成長物語も誰も映画にしてはくれませんが、
時間と風と同じことがあったと思います。
ほんの少しだけ、映画のように「私の中の子供性」が死んだ瞬間を思い出す事も出来ます。
でも、私は割と鈍感な子供だったし、大人になるときにさらに鈍感になってしまったので、大半は忘れてしまいました。
「死」として描かれていますが、
裏を返せば、「成長」。
大人側から見れば、大歓迎のものです。
きっとあの少年少女達自身も、成長したあとの自分側から見ると、
あの時泣いたこと、自分にとって「死」と思えたことも、歓迎すべき事柄になるはず。
というか、人間は常に、時間を先へすすめる事しか出来ないから、
あの「死」を、「死」として、捕らえる事が出来るのは
「カメラ」だけだと言う事もできますね。
へ~。
そんな映画だったんだ・・
珠には深く考えてみるのも面白いですね。
終わって、監督にサインもらいました。
9本か~。何年分かを一遍に見た感じです。
いや~楽しかった。
映画祭でお会いした皆様、また来年も会いましょう!
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