昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

なるほど!と思う日々(307)中村修二氏、ノーベル賞<社長の度量>

2014-10-09 05:05:12 | なるほどと思う日々
 <三人の日本人がノーベル物理学賞受賞>のニュースが大きな反響を呼んでいる。
 そのうちの一人、中村修二氏の経歴に着目した。
 
 
 彼は徳島の大学を卒業して、京セラ(面接官は稲盛和夫氏だったそうだ)を受験、合格したが、家庭の事情で地元の日亜化学工業に入社する。
 度量の広い創業社長の小川信夫氏に目をつけられ、英語の成績がよかったので、アメリカにも留学、3億円の開発資金を与えられ、青色発光ダイオードの開発に専念。
 会議にも電話にも出ないサラリーマンとしては異例の待遇だった。
 そしてついに世界で初めて、窒化カリウムによる高輝度発色ダイオードを開発した。
 新しい社長の下で、その待遇に関し訴訟問題を起してニュースになったのを覚えている。

 比較するのもおこがましいが、思わずボクの人生と重ね合わせてしまった。
 大学を卒業したが、右足が棒状のボクには厳しい就職環境だったが、幸い特別なコネで日本電電公社の幹部候補を募集する本社採用を受験。採用条件はクリアしたが、身体条件で幹部採用ではなく、東京営業所採用となる。
 不本意だったので断り、別なコネでロシア貿易専門商社に入社。
 しかし、これも三年ほどで伊藤忠商事の傘下に組み込まれることを知り、希望を失っていた時、大学時代家庭教師をしていた縁で、機械工具商の社長から声をかけられて移籍する。

 この度量ある社長の温情で、その後のボクの人生が導かれた。
 入社当時、異質のボクは社長以外すべての社員から総スカンだった。
 営業部に配属されたが、営業には出かけず、外国の商品の調査ばかりしていた。
 しかし、社長はボクがいずれは役に立つと思っていたのか、鷹揚に見過ごしてくれていた。
 たまたま、当時世界で初めて開発したスロアウエータイプの超硬切削工具<コロマント>を引っ提げてスエーデンのサンドビックが日本へ進出してきた。
 
 ボクはその担当に任命され、ボクの会社での存在価値が生まれた。

 在庫商品のコンピュータ管理に着手、ルート販売を拡充、社長に随行して世界の一流国を見聞する機会にも恵まれ、当時最先端のカタログ販売に目をつけ、カタログ発行の資金も与えられた。
 

 中村修二氏は日亜化学の先代社長、小川信夫氏なくしてはノーベル賞はなかったと述べていらっしゃるが、機械工具専門商社の先代社長小川一郎氏なくしては今日のボクはなかった。
 今のボクには中村氏のような栄光はないが、このニュースに接して、度量ある先代社長への感謝の気持ちが蘇ってきた。
 
 朝日新聞から木村伊量社長名で詫び状が、タオルとともに届けられた。
 
 <朝日新聞への購読料返還集団訴訟>の旗揚げ式がこの25日にあるそうだ。

 ボクは朝日新聞のモニターになったことがある。
 当時、「日本も核武装を!」という論議があった。
 中国から高官が来日して「日本は核三原則を守るのでしょうね」と述べたという記事が朝日新聞に載っていた。
 たまたま、モニターが集まった場で、時の外岡編集長にボクは言った。
「お前のところには言われたくない!とマスコミ代表として反論してほしかった」
 編集長は頷いていたが何もコメントはなかった。
 ボクは<時の権力を批判するのが新聞社の役目>という考え方に反論するつもりはないが、そのときこうも言った。
「朝日は国益に根ざしていないのがちょっとおかしい」
 朝日には愛着があるから、訴訟に加わるつもりはない。
 しかし、木村社長名で、編集長を代えて報道姿勢を再構築すると言っているが、うわべだけを取り繕う言葉に説得力はない。
 編集長だけの問題ではないだろう。
 徹底的な再構築を期待したいが・・・。


 


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