昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

三鷹通信(265)日本の文化・日本における美意識の革命(1)

2018-06-02 06:54:21 | 三鷹通信
 昨日は三鷹市民大学、尼ケ崎彬学習院女子大学名誉教授による「日本人の美意識(幽玄・わび・いき」の講演があった。
 ここに他国と異なる日本の美意識を現す貴重な写真がある。
  天皇がサウジアラビアのムハンマド副皇太子と面会された時のものだ
 これが、アラブの国々のマスコミに衝撃的に取り上げられた。          
 *なんだ、このシンプルさは!
 *簡素すぎる!
 *高貴な人の面会の場としてはあまりに粗末!
 *インテリアデザイナーを紹介しようか?

 例えばフランスエリーゼ宮の大統領執務室
 賓客を迎える場としてはこのような豪華絢爛な場がふさわしいというのがグローバルスタンダードなのに、日本の皇居内での会見の場の質素さはなんじゃ!というわけだ。

 日本でも平安時代にまで遡ると、豪華絢爛が愛で囃された時代があった。
 雲霞と咲き誇る桜・紅葉が代表的な美であった。
  
 欠けることのない明月も美の象徴であった。
 

 ところが中世に入ると、「幽玄」という美意識が尊ばれることになる。
 この「幽玄体」は藤原定家の創始した作家法である。
 ・・・見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ・・・

 日本の古典世界では花(桜)と紅葉が美の代表である。だがこの歌には、そんなものは何もないと言う。
 荒涼たる浜辺の粗末な小屋に住んで、しかも秋の日は暮れようとしている。
 この歌の特徴は見えないものを語るところにある。
 ・・・想像された花は単に美しいだけではない。失われたものであるからこそ、深く心に沁みるのである。

 鴨長明は言っている。想像力ある相手には、隠しておいてほのめかすほうが露骨に全てを見せるよりも効果的である。
 たとえば男が浮気をしたとき、女が泣き叫んで訴えるより、じっと耐えながらときおり涙ぐんだりしてみせるほうが男の心に刺さるものだと。
 ・・・霧の切れ間から少しだけ見える紅葉は、もし山の全体がみえたらどんなに美しいだろうと想像させる。この想像の紅葉はじっさいに見るよりも美しい。と。
 これは美についての画期的な主張だった。

 似たような見解は世阿弥の能楽論「風姿花伝」にもある。
 世阿弥は美しい花を想像させるしかけとして「しおれた」花を評価する。
 なんと世阿弥は「しおれたる花」を「花」より上だとした。
 しおれた花を見るとき、私たちは盛りの花を想像するのだ。

 ─続く─