昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

エッセイ(283)又吉直樹「火花」の才に敬服(3)

2015-10-31 04:09:12 | エッセイ
 変態的であるということと不器用なこととの差は?
 

 僕のような退屈で面倒な男と遊ぶことによって、周囲から色眼鏡で見られ、偽善者と呼ばれる可能性があるということを、この時まで現実的に考えたことはなかった。僕は神谷さんをどこかで人におもねることの出来ない、自分と同種の人間だと思っていたが、そうではなかった。僕は永遠に誰にもおもねることの出来ない人間で、神谷さんは、おもねる器量はあるが、それを選択しない人だったのだ。両者には絶対的な差があった。神谷さんは他の人のように僕に対して身構えたりせず、徹底的に馬鹿にすることもあれば、素直に褒めてくれることもあった。他の尺度に左右されずに僕と向き合ってくれた。
 そんな神谷さんに寄りかかっていたため根本的なことを忘れかけていた。神谷さんの突飛な行動や才能を恐れながらも、変態的であることが正義であるかのように思い違いをしていた。いや、芸人にとって変態的であることが一つの利点であることは真実だけれど、僕はただ不器用なだけで、その不器用さえも売り物に出来ない程の単なる不器用に過ぎなかった。それを神谷さんの変態性と混同して安心していたのである、僕が思っていたよりも事態は深刻だったのだ。
 永福町でまた人が降りた。乗って来る人はいなかった。開いたドアから流れてきた冷たい風が足元に纏わりついた。動き出した窓に、僕と神谷さんの神妙な顔が映った。
「神谷さん、真樹さんと付き合ってるんですよね?」
 
 僕は気持ちを変えようと、前から気になってたことを聞いてみた。
「いや、家に住ませて貰ってるだけやで」
「そうなんですか」
 初めて真樹さんに会ってから、神谷さんに呼ばれて真樹さんの家にお邪魔することが頻繁にあった。外で三人で食事をして一緒に帰ることも多かった。真樹さんは、神谷さんに対して献身的だったし、僕にも優しくしてくれた。
 今日、知らない女性達と呑んでいる時にも、僕は真樹さんのことが何度か頭を過ぎった。真樹さんと三人で呑む方が楽しい。僕が真樹さんを好きな理由の一つは、神谷さんの才能を認めていることにあった。神谷さんがなんと言おうと、真樹さんは神谷さんに心底惚れ込んでいるということが同じ空間にいて分かった。
  
「彼女さんやと思ってました」と僕が言うと、
「そうやんな」と神谷さんは気のない返事をした。
「好きじゃないんですか?」
「お前と喋ってると学生時代思い出すわ」
「僕、大学行ってたら、まだ四年生の歳ですからね」
「それは知らんけど、俺なんかと本気で付き合ったら地獄やで」
「そうですね」
「否定せいよ」と神谷さんは前を見たまま淡々と言った。
「あいつな、徳永君と行くんやったら言うて、いつも金持たしてくれんねん。だから俺、毎日お前と遊んでることになってる」
「一緒に住んでて、付き合うという話にならないんですか?」
「何回かなったな。ちゃんとした彼氏作り、って言うた」
 終点の吉祥寺を告げるアナウンスが流れる。電車は遠慮気味にブレーキ音を立てて速度を落とす。
「真樹さんは、なんて言うんですか?」
「わかったって」
「なんか、嫌です」
 真樹さんは吉祥寺でキャバクラで働いていると聞いたことがある。神谷さんが転がり込んだタイミングでカラオケのバイトを辞めて、夜の仕事を始めたらしい。電車は吉祥寺に到着した。渋谷よりも更に温度が低いような気がしたが、僕の身体が芯から冷えているだけかもしれなかった。改札を抜けて北口へ出る。この街の風景は優しい。ようやく緊張感から解放される安堵が全身に広がっていった。
「ハーモニカ横丁行こか?」
「行きましょか」
 
 路傍の吐瀉物さえも凍える。この街を行く人々は誰も僕のことを知らない。僕たちも街を行くひとのことを知らない。   


 表面的な行動がどうあろうと、才能を秘めた男に惚れる女の度量に敬意!
 では、また明日。