昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

エッセイ(8)厄払い

2008-10-09 08:14:00 | エッセイ
 このブログに毎日100以上(多いときは200にもなる)ものアクセスを頂くと、毎日アップしなければというのが強迫観念となる。
 内容も自ずと一般的に広く通用するものでなくてはならなくなる。
 自分のことをだらだらと書くだけでは済まされない。
 つらいが、励みにもなる。
 既にぼくは古稀を越えたが、今日は還暦のとき経験した厄払いのことを書く。

 近くの深大寺に行った。
 道路わきで草もちや、お団子、湯気を上げている饅頭。
 必ず福がきますよ!と叫んでいるだるま屋さんたちの間を、華やいだ人たちが歩いている。
 お線香を上げ、仏前というより賽銭箱を拝んで、ぼくは猿回しに引きずられる猿のように、厄払い受付所まで妻と母について行く。
 そもそもこんな所へくることになったのは、妻がお寺の折込広告を見て、還暦厄払いなるものを知ったからだ。
 還暦が厄年なんていうのは、お寺が創り出した新商売じゃないの?

 受付で、用紙に氏名、住所などを書き入れさせられる。
 無表情なおばさんから受取書をもらい、妻に促されて拝殿に上がる。
 既に読経が始まっていて、床は人、人、人でいっぱいだ。

 間もなく読経が終わり、行者というにはあまりに栄養の行き届いた、白い法衣をまとった男が現れてお払いをする。
 続いて、これも固太りの、風呂からあがったばかりみたいな、血色のいい、商店街のおにいさんのような僧侶が説教を始めた。

「最近のニュースに、お宮参りの帰りに交通事故にあって死亡した、というのがありましたね」
 どうせ堅苦しいお説教かと思っていたのに、なかなかくだけた調子で思わず惹きつけられる。
「そういうニュースを聞くと、いったいご利益ってなんだろうと思っちゃいますよね。お宮参りの効き目なんてないじゃないかと」

「ご利益というのは、それを得たからって、それで万事何もしなくても、商売繁盛したり、試験に合格したり、願いが叶ったり、一方的なものじゃないんです」
「人それぞれの心の中には、常にそれを阻もうとする弱い意志があるのです」
「つまり交通事故で言えば、お酒を飲んだり、寝不足だったり、注意散漫になったりするのがそれで、それはご利益ではカバーできません」
「結局最終的に決めるのは、それぞれの強い意志なんです。だから強い人はこういう所へ来る必要はない」

「ただ、一般の人間というものは不安心なもので、ああでもないこうでもないと、心配事を沢山持っている」
「そういう人にとっては、こういったお払いでもって安心(あんじん)を与えられるという効果があるのです」

 何のことはない。ただの気休めというわけだ。
 お金を出してわざわざ<気休め>を買いに来ることはなかったと思いながら、それでもお札を取りに行く。
 まだ出来てませんと言われる。
 なるほど受け取り書の受取り時間までまだ間がある。
 どうやら前のグループの説教に途中から割り込んだようだ。

 その間にそばでも食べようと、妻と母を捜すが見当たらない。
 境内と場外の売店を二往復する間にふたりに出会ってそば屋に入った。
 
 満員のため相席となる。
 若いカップルでふたりともタバコを吸っている。
「タバコを吸ってもいいでしょうか」
 男の方がなかなかしっかりとした物言いで感じがいい。
 そばもしこしことして、味もよかった。
 3千円のお札も受け取り、母からは多額な還暦祝いもいただいて、ようやく安心(あんじん)を得た気分になる。