万葉雑記 色眼鏡 二五九 今週のみそひと歌を振り返る その七九
今回、やっと、七夕の歌から抜け出ました。抜け出ましたが、今週の話題は萩の花です。これもまた季節が合わない話ですが、ご容赦を。
集歌2094 竿志鹿之 心相念 秋芽子之 鐘礼零丹 落僧惜毛
訓読 さ雄鹿し心(うら)相(あひ)思(も)ふし秋萩し時雨し降るに散らくし惜しも
私訳 雄鹿が雌鹿を心に想う季節の秋萩に時雨が降って、散っていくのが惜しいことです。
集歌2095 夕去 野邊秋芽子 末若 露枯 金待難
訓読 夕されば野辺し秋萩末(うら)若み露にそ枯るる秋待ちかてに
私訳 夕方になると野辺の秋萩の枝先の小さい葉が露によって色付き枯れる。秋が待ちきれないように。
七夕の歌を抜け出したことと萩は万葉集を代表する秋の花であることから万葉集の萩の歌を全般を鑑賞することを踏まえて歌の鑑賞よりも萩の花 自体を話題としています。これもまたご容赦下さい。
さて萩について名前由来から見てみますと、萩は確かに古代から「ハギ」と呼称されて来たようですが、その漢字表記「秋芽子」や「芽子」の由来は確定していません。そのため万葉集に載る古名の秋芽子や芽子の由来が専門家もまったく分からないので「ハギの語源は生芽(ハエギ)のようで、毎年根茎から芽を出すことから付けられた」のような解説をしています。ただ、秋を代表する花を楽しむ草木の名の由来を、春の新芽に由来を持ってくるところが辛いところですし、在来植物に漢語の読みを持ってくるのも大変です。それに、音での「ハギ」は説明出来ますが、漢字表記の「芽子」の由来はまったく説明が出来ません。このような状況のため、日本の秋を代表する草木ですが、専門家でも古名の秋芽子や芽子の由来が不明なのです。
また、生芽(ハエギ)説の他に、葉の形状から歯牙(はぎ)、秋に葉が黄色くなるので葉黄(はき)、葉が沢山ついた木なので葉木(はき)などの説もあるようです。個人的には、萩は夏の花である輸入植物の露草と違い日本在来の草木ですので漢語に由来を持つ名ではないでしょうから、鹿の食む木(はむき)がその名の語の由来としてはその可能性が高いと考えています。
ただ、なぜ、万葉人は「ハギ」に「芽子」の当て字を使ったのかについては、未だ、疑問です。なお、芽子の用字には「かわいい芽」とか「たいせつな芽」のような意味が取れますし、「芽」には「わずかにのぞく」との意味があります。ただし、まめ科である萩の花の形状から妄想を広げて、古名の芽子から飛躍して同音異字ですが関西古語の「女子」、また、「御芽子」と「御女子」とを思い浮かべてはいけないようです。なお、奈良時代以降の教養ある人々は「女子」を「じょし」とは発音しません。「女」は「め」と発音します。また、上下を逆にした萩の花の形状からは、古語の芽子は葉木でなくて花の形から女性器を想像しての当て字である可能性が高いと思われます。
馬鹿話を棚上げにして、一応、鹿の食む木(はむき)説を思わせるような正統の鹿と萩の歌を以下に載せます。
湯原王鳴鹿謌一首
集歌1550 秋芽之 落乃乱尓 呼立而 鳴奈流鹿之 音遥者
訓読 秋萩(あきはぎ)し散りの乱(まが)ひに呼びたてて鳴くなる鹿(しか)し声し遥(はる)けさ
私訳 秋萩の花が散る乱れる、その言葉ではないが恋の季節である秋が終わって行くと心を乱して雌鹿を呼び立てて鳴いている雄鹿の声が遥かに聞こえる。
ここで萩の花について、露草の別名 鴨頭草と同じような感覚で芽子や秋芽子の言葉を使う歌を見て行きたいと思います。その最初に大伴坂上郎女が詠う「芽子」の歌を紹介します。
大伴坂上郎女晩芽子謌一首
標訓 大伴坂上郎女の晩(おそ)き芽子(はぎ)の謌一首
集歌1548 咲花毛 宇都呂波厭 奥手有 長意尓 尚不如家里
訓読 咲く花も移(うつろ)は厭(うと)し晩(おくて)なる長き心になほ如(し)かずけり
私訳 咲くでしょう花も、花として色付き散るのを嫌う。晩熟(おくて)の気長い心持ちには、まだ咲き出さない萩の花ですが、それでも及びません。
注意 原文の「宇都呂波厭」の「宇都」は、一般に「乎曾」の誤記とし「乎曾呂波厭」と表わし「をそろは厭(いと)し」と訓みます。
この歌で理解されると思いますが、歌の標題に示す「晩芽子」の意味するところは大伴坂上郎女の娘の性的成長が遅いと云うことです。娘が婚約をしていても、正式の婚姻には初潮を迎え裳着の儀式を終えて成女になることが前提ですが、それがまだまだな状況を示します。つまり、この標題の「芽子」なる言葉には「女性の性」の意味合いが隠されています。
このような感覚で次の歌を鑑賞してください。当時の生活風習では恋する相手であっても名前を口に出したり、表したりすることは忌むべきこととされていましたから、歌に使う「秋芽子」の言葉に恋する女性、その人自身を代表している可能性があります。逆に女性の比喩として解釈する方が判りやすい歌です。
集歌2122 大夫之 心者無而 秋芽子之 戀耳八方 奈積而有南
訓読 大夫(ますらを)し心はなみに秋萩し恋のみにやもなづみにありなむ
私訳 立派な男の気負いを無くしたままで、秋萩(貴女の姿)の見事さに心を奪われ、その情景に浸ったままです。
集歌2122の歌の秋芽子が女性、その人を比喩する言葉としますと、次の集歌2173の歌は、もう少し、女性でも性の意味合いが強い歌と思われます。そして、歌には草木に置く「白露」と女性の潤いの比喩である「露」との対比があると考えられます。
集歌2173 白露乎 取者可消 去来子等 露尓争而 芽子之遊将為
訓読 白露を取らば消(け)ぬべしいざ子ども露に競(きほ)ひに萩し遊びせむ
表訳
私訳 白露を手に取れば消えてしまうでしょう。さあ、愛しい貴女、その露に競って、萩と共に風流を楽しみましょう。
裏訳
私訳 草木の葉に置く白露を手に取れば消えてしまうでしょう。でも、愛しい貴女、葉に置く露にまさって体を潤わす、そのような貴女と夜の営みを楽しみましょう。
私の感覚において、集歌2173の歌よりも、もう少し、性の意味合いを強めた歌が次の集歌2284の歌です。最初は、標準的な表歌での解釈を紹介します。
集歌2284 率尓 今毛欲見 秋芽子之 四搓二将有 妹之光儀乎
訓読 ゆくりなに今も見が欲(ほ)し秋萩ししなひにあるらむ妹し姿を
意訳 突然ですが、今も眺めて見たい。秋萩のようなあでやかでしなやかな体をしているでしょう、その貴女の姿を。
注意 この歌を比喩歌と取ると、芽子と四搓の言葉から強い男の欲望の歌になります。
この歌に比喩があるとすると「芽子」がその対象になりますし、その時、歌の初句「率尓」の言葉が効いてきます。
集歌2284 率尓 今毛欲見 秋芽子之 四搓二将有 妹之光儀乎
比喩の裏歌
訓読 ゆくりなに今も見が欲(ほ)し秋萩ししなひにあるらむ妹し姿を
試訳 あぁ、我慢できない、今、見せて欲しい。貴女のあそこへの念入りにする愛撫で身悶えた、あの時と同じ貴女の姿を。
御存知のように漢字の「搓」には「さする」や「よじる」と云う意味合いがあります。また、「四」には「四方」や「四海」なる言葉があるように「全部」とか「周囲」とかの意味があるとしますと、「四搓二将有」と云う文字を選択した裏には「遍く愛撫を行い、二の文字に重なる」と云う意味合いが隠れていることになります。そして、倭言葉の「しなひ」には「柔らかく撓ませる」や「柔らかく身をくねらせる」と云う意味合いがあります。それを想像しての裏歌となります。
次いで、万葉集巻十に載る秋芽子の言葉を使う歌を紹介します。
集歌2273 何為等加 君乎将厭 秋芽子乃 其始花之 歡寸物乎
訓読 何すとか君を厭(い)とはむ秋萩のその初花(はつはな)し歓(うれ)しきものを
意訳 どうして貴方を嫌いだと思うでしょうか。出会うことを待ち焦がれる、秋萩のその初花のように、出会いがあればうれしいものですから。
一般に、歌に「君」と云う言葉があると、女性から男性に贈る歌と推定します。それで意訳文は女性が歌を詠ったとしてのものです。
さて、集歌2273の歌は原文表記で鑑賞すると、すこし、特異な歌です。どこが特異なのかと云うと、漢詩のように鑑賞が出来るのです。それを紹介してみましょう。
集歌2273の歌
何為等加 何すとか
君乎将厭 君を厭(い)とはむ
秋芽子乃 秋芽子の
其始花之 その花の始めの
歡寸物乎 歓(かん)の寸(すく)なきものを
このような表記スタイルにしますと、歌が女性から男性に贈られたと云うことに疑問が生じます。この漢詩的なスタイルでは、歌は宴会で木簡などに墨書されて回覧して楽しんだ可能性が見出せます。つまり、宴会での猥歌です。
すると、集歌2273の歌は次のように解釈が出来るのではないでしょうか。
集歌2273 何為等加 君乎将厭 秋芽子乃 其始花之 歡寸物乎
裏歌
訓読 何すとか君を厭(い)とはむ秋萩のその始花(はつはな)し歓(うれ)しきものを
私訳 秋萩の花のように咲き始めたばかりの貴女には夜の歡びがまだすくないようです。だからといって貴女が嫌いではないのです。
つまり、即物的に「貴女は未だ性交渉に慣れてはいないけども、それでも、私は貴女が嫌いではありません」と云っているとも読めるのです。文にも手馴れの熟練した男から、初々しい女への歌の景色です。なお、「其始花之」には、いわゆる、初交や性交初夜の意味はありません。初交には「初花」のような漢字表現を使うと考えます。
参考に、まだ、男女関係に馴れていない若い娘が好きな男に抱かれる時の気持ちを詠った歌があります。集歌2650の歌と集歌2273の歌とを重ね合わせて鑑賞すると、若い娘の気持ちが良く分かると思います。
集歌2650 十寸板持 盖流板目乃 不令相者 如何為跡可 吾宿始兼
訓読 そき板(た)以(も)ち葺(ふ)ける板目(いため)の合(あ)はざらば如何(いか)にせむとか吾(あ)が寝(ね)始(そ)めけむ
私訳 薄くそいだ板で葺いた屋根の板目がなかなか合わないように、私の体が貴方に気に入って貰えなければどうしましょうかと、そのような思いで、私は貴方と共寝を始めました。
さて、鴨頭草や芽子の言葉にその花の形などから女性や女性器の比喩があるとしますと、万葉時代の人たちは男女を問わず、それを良く観察していたことにもなります。その良く観察をしていたことを基準に次の歌を紹介します。
集歌2225 吾背子之 挿頭之芽子尓 置露乎 清見世跡 月者照良思
訓読 吾が背子し挿頭(かざし)し萩に置く露を清(さや)かに見よと月は照るらし
私訳 私の愛しい貴方が髪飾りとした萩に置く露を、輝き清らかだから良く見なさいとばかりに月は照っているのでしょう。
集歌2225の歌の二句目「挿頭之芽子尓」は「露を置いた萩の枝を髪飾りとした」と解釈して訳します。情景は髪に挿した萩の露が月の明かりに輝くと云う明るい光の下での出会いです。
ただ、芽子や露に比喩があるとすると、古語の「かざす=翳す」には「物の上に手で覆うように差し出す」と云う意味がありますから、時に「かざす」をしたものは恋人の顔かもしれません。そうした場合は、歌は閨での痴話になり、女性が「私の芽子に置く露の様子を月明かりの下、もっと、良く見て」とお願いしていることになります。参考として、万葉時代、ふくよかな白き肌に潤い濡れた体が美人の基準の一つだったようです。
もう一つ、裏の意味がありそうな芽子の歌を紹介します。それが集歌2228の歌です。風景は枝一杯に花を付けた萩が月の光に明るく照らされています。そのようなすがすがしい歌です。
集歌2228 芽子之花 開乃乎再入緒 見代跡可聞 月夜之清 戀益良國
訓読 萩し花咲きのををりを見よとかも月夜(つくよ)し清(きよ)き恋まさらくに
私訳 萩の花がたわわに咲いているのを眺めなさいと云うのでしょうか、月夜が清らかで、この風情に心が引きつけられる。
さて、紹介した集歌2228の歌は二句目が難訓で「乎再入緒」は「ををりを」と訓むことになっています。一応、「乎再」は同じ文字の繰り返しを避けるための表記での「乎が再び」と解釈し、「乎再入緒」は「乎乎入緒」と見なしての「ををりを」です。
ここで古語の「ををり」は「撓り」とも表記し、漢字で「撓り」と表記しますと別訓で「たをり」とも訓むことが出来ます。この「たをり」は「山の稜線のくぼんで低くなっている所」を意味しますし、「ををり」は「花や葉がたくさんついて枝がしなうこと」を意味します。およそ、「ををり」や「たをり」とは「くぼみ」や「周りより低くなる様」を表す言葉のようです。
そうした時、原文表記の「再入」は意味深長です。「芽子」に女性器の隠語があることを思いますと、歌を発声で詠う場合と木簡などに墨書した場合での歌の雰囲気は大きく違います。その墨書した場合には、ちょうど、鴨頭草の花の形が意味する男女の状況を眺めるのにちょうどよい月明かりと云う意味が現れて来ます。それも、「もう一度」と歌にはあります。
集歌2228 芽子之花 開乃乎再入緒 見代跡可聞 月夜之清 戀益良國
裏歌
訓読 萩し花割(さ)けの撓(をを)りを見よとかも月夜(つくよ)し清(きよ)き恋まさらくに
私訳 貴女の芽子のあたりの窪みを見つ、もう一度、体を交わしなさいとばかりに月夜の明かりは清らかです。だから貴女を抱きたくてたまらない。
もし、集歌2225の歌と集歌2228の歌とが、仲秋の名月の下、宴を催しての歌会での二首問答歌としますと、非常に楽しい宴ではないでしょうか。発声で詠う場合、共に歌は月明かりに照らされる萩花の風情を詠います。ですが、その歌を木簡などに墨書して女性陣に回覧し目配せしますと、次のような返歌を貰えるかもしれません。
集歌2252 秋芽子之 開散野邊之 暮露尓 沾乍来益 夜者深去鞆
訓読 秋萩し咲き散る野辺(のへ)し暮露に濡れつつ来ませ夜は更けぬとも
私訳 秋萩の花が咲き散る野辺の、その夕露に濡れながらやって来て下さい。夜は更けたとしても。
集歌2271 草深三 蟋多 鳴屋前 芽子見公者 何時来益牟
訓読 草深み蟋蟀(こほろぎ)さはに鳴く屋前(やと)し萩見に君はいつか来まさむ
私訳 草むらが深いのでコオロギが盛大に鳴いている私の家の庭に、萩を眺めに貴方はいつお出でになるのでしょうか。
今回は完全に馬鹿話です。ただし、萩の花を詠う歌を鑑賞するとき、このような馬鹿話の可能性があることをどうでも良い知識として持っていますと、鑑賞の奥行きが広がるのではないでしょうか。風流のようで、その歌の表現に使われる漢語や漢字文字に注目しますと時に馬鹿話の歌であるかも知れません。
今回、やっと、七夕の歌から抜け出ました。抜け出ましたが、今週の話題は萩の花です。これもまた季節が合わない話ですが、ご容赦を。
集歌2094 竿志鹿之 心相念 秋芽子之 鐘礼零丹 落僧惜毛
訓読 さ雄鹿し心(うら)相(あひ)思(も)ふし秋萩し時雨し降るに散らくし惜しも
私訳 雄鹿が雌鹿を心に想う季節の秋萩に時雨が降って、散っていくのが惜しいことです。
集歌2095 夕去 野邊秋芽子 末若 露枯 金待難
訓読 夕されば野辺し秋萩末(うら)若み露にそ枯るる秋待ちかてに
私訳 夕方になると野辺の秋萩の枝先の小さい葉が露によって色付き枯れる。秋が待ちきれないように。
七夕の歌を抜け出したことと萩は万葉集を代表する秋の花であることから万葉集の萩の歌を全般を鑑賞することを踏まえて歌の鑑賞よりも萩の花 自体を話題としています。これもまたご容赦下さい。
さて萩について名前由来から見てみますと、萩は確かに古代から「ハギ」と呼称されて来たようですが、その漢字表記「秋芽子」や「芽子」の由来は確定していません。そのため万葉集に載る古名の秋芽子や芽子の由来が専門家もまったく分からないので「ハギの語源は生芽(ハエギ)のようで、毎年根茎から芽を出すことから付けられた」のような解説をしています。ただ、秋を代表する花を楽しむ草木の名の由来を、春の新芽に由来を持ってくるところが辛いところですし、在来植物に漢語の読みを持ってくるのも大変です。それに、音での「ハギ」は説明出来ますが、漢字表記の「芽子」の由来はまったく説明が出来ません。このような状況のため、日本の秋を代表する草木ですが、専門家でも古名の秋芽子や芽子の由来が不明なのです。
また、生芽(ハエギ)説の他に、葉の形状から歯牙(はぎ)、秋に葉が黄色くなるので葉黄(はき)、葉が沢山ついた木なので葉木(はき)などの説もあるようです。個人的には、萩は夏の花である輸入植物の露草と違い日本在来の草木ですので漢語に由来を持つ名ではないでしょうから、鹿の食む木(はむき)がその名の語の由来としてはその可能性が高いと考えています。
ただ、なぜ、万葉人は「ハギ」に「芽子」の当て字を使ったのかについては、未だ、疑問です。なお、芽子の用字には「かわいい芽」とか「たいせつな芽」のような意味が取れますし、「芽」には「わずかにのぞく」との意味があります。ただし、まめ科である萩の花の形状から妄想を広げて、古名の芽子から飛躍して同音異字ですが関西古語の「女子」、また、「御芽子」と「御女子」とを思い浮かべてはいけないようです。なお、奈良時代以降の教養ある人々は「女子」を「じょし」とは発音しません。「女」は「め」と発音します。また、上下を逆にした萩の花の形状からは、古語の芽子は葉木でなくて花の形から女性器を想像しての当て字である可能性が高いと思われます。
馬鹿話を棚上げにして、一応、鹿の食む木(はむき)説を思わせるような正統の鹿と萩の歌を以下に載せます。
湯原王鳴鹿謌一首
集歌1550 秋芽之 落乃乱尓 呼立而 鳴奈流鹿之 音遥者
訓読 秋萩(あきはぎ)し散りの乱(まが)ひに呼びたてて鳴くなる鹿(しか)し声し遥(はる)けさ
私訳 秋萩の花が散る乱れる、その言葉ではないが恋の季節である秋が終わって行くと心を乱して雌鹿を呼び立てて鳴いている雄鹿の声が遥かに聞こえる。
ここで萩の花について、露草の別名 鴨頭草と同じような感覚で芽子や秋芽子の言葉を使う歌を見て行きたいと思います。その最初に大伴坂上郎女が詠う「芽子」の歌を紹介します。
大伴坂上郎女晩芽子謌一首
標訓 大伴坂上郎女の晩(おそ)き芽子(はぎ)の謌一首
集歌1548 咲花毛 宇都呂波厭 奥手有 長意尓 尚不如家里
訓読 咲く花も移(うつろ)は厭(うと)し晩(おくて)なる長き心になほ如(し)かずけり
私訳 咲くでしょう花も、花として色付き散るのを嫌う。晩熟(おくて)の気長い心持ちには、まだ咲き出さない萩の花ですが、それでも及びません。
注意 原文の「宇都呂波厭」の「宇都」は、一般に「乎曾」の誤記とし「乎曾呂波厭」と表わし「をそろは厭(いと)し」と訓みます。
この歌で理解されると思いますが、歌の標題に示す「晩芽子」の意味するところは大伴坂上郎女の娘の性的成長が遅いと云うことです。娘が婚約をしていても、正式の婚姻には初潮を迎え裳着の儀式を終えて成女になることが前提ですが、それがまだまだな状況を示します。つまり、この標題の「芽子」なる言葉には「女性の性」の意味合いが隠されています。
このような感覚で次の歌を鑑賞してください。当時の生活風習では恋する相手であっても名前を口に出したり、表したりすることは忌むべきこととされていましたから、歌に使う「秋芽子」の言葉に恋する女性、その人自身を代表している可能性があります。逆に女性の比喩として解釈する方が判りやすい歌です。
集歌2122 大夫之 心者無而 秋芽子之 戀耳八方 奈積而有南
訓読 大夫(ますらを)し心はなみに秋萩し恋のみにやもなづみにありなむ
私訳 立派な男の気負いを無くしたままで、秋萩(貴女の姿)の見事さに心を奪われ、その情景に浸ったままです。
集歌2122の歌の秋芽子が女性、その人を比喩する言葉としますと、次の集歌2173の歌は、もう少し、女性でも性の意味合いが強い歌と思われます。そして、歌には草木に置く「白露」と女性の潤いの比喩である「露」との対比があると考えられます。
集歌2173 白露乎 取者可消 去来子等 露尓争而 芽子之遊将為
訓読 白露を取らば消(け)ぬべしいざ子ども露に競(きほ)ひに萩し遊びせむ
表訳
私訳 白露を手に取れば消えてしまうでしょう。さあ、愛しい貴女、その露に競って、萩と共に風流を楽しみましょう。
裏訳
私訳 草木の葉に置く白露を手に取れば消えてしまうでしょう。でも、愛しい貴女、葉に置く露にまさって体を潤わす、そのような貴女と夜の営みを楽しみましょう。
私の感覚において、集歌2173の歌よりも、もう少し、性の意味合いを強めた歌が次の集歌2284の歌です。最初は、標準的な表歌での解釈を紹介します。
集歌2284 率尓 今毛欲見 秋芽子之 四搓二将有 妹之光儀乎
訓読 ゆくりなに今も見が欲(ほ)し秋萩ししなひにあるらむ妹し姿を
意訳 突然ですが、今も眺めて見たい。秋萩のようなあでやかでしなやかな体をしているでしょう、その貴女の姿を。
注意 この歌を比喩歌と取ると、芽子と四搓の言葉から強い男の欲望の歌になります。
この歌に比喩があるとすると「芽子」がその対象になりますし、その時、歌の初句「率尓」の言葉が効いてきます。
集歌2284 率尓 今毛欲見 秋芽子之 四搓二将有 妹之光儀乎
比喩の裏歌
訓読 ゆくりなに今も見が欲(ほ)し秋萩ししなひにあるらむ妹し姿を
試訳 あぁ、我慢できない、今、見せて欲しい。貴女のあそこへの念入りにする愛撫で身悶えた、あの時と同じ貴女の姿を。
御存知のように漢字の「搓」には「さする」や「よじる」と云う意味合いがあります。また、「四」には「四方」や「四海」なる言葉があるように「全部」とか「周囲」とかの意味があるとしますと、「四搓二将有」と云う文字を選択した裏には「遍く愛撫を行い、二の文字に重なる」と云う意味合いが隠れていることになります。そして、倭言葉の「しなひ」には「柔らかく撓ませる」や「柔らかく身をくねらせる」と云う意味合いがあります。それを想像しての裏歌となります。
次いで、万葉集巻十に載る秋芽子の言葉を使う歌を紹介します。
集歌2273 何為等加 君乎将厭 秋芽子乃 其始花之 歡寸物乎
訓読 何すとか君を厭(い)とはむ秋萩のその初花(はつはな)し歓(うれ)しきものを
意訳 どうして貴方を嫌いだと思うでしょうか。出会うことを待ち焦がれる、秋萩のその初花のように、出会いがあればうれしいものですから。
一般に、歌に「君」と云う言葉があると、女性から男性に贈る歌と推定します。それで意訳文は女性が歌を詠ったとしてのものです。
さて、集歌2273の歌は原文表記で鑑賞すると、すこし、特異な歌です。どこが特異なのかと云うと、漢詩のように鑑賞が出来るのです。それを紹介してみましょう。
集歌2273の歌
何為等加 何すとか
君乎将厭 君を厭(い)とはむ
秋芽子乃 秋芽子の
其始花之 その花の始めの
歡寸物乎 歓(かん)の寸(すく)なきものを
このような表記スタイルにしますと、歌が女性から男性に贈られたと云うことに疑問が生じます。この漢詩的なスタイルでは、歌は宴会で木簡などに墨書されて回覧して楽しんだ可能性が見出せます。つまり、宴会での猥歌です。
すると、集歌2273の歌は次のように解釈が出来るのではないでしょうか。
集歌2273 何為等加 君乎将厭 秋芽子乃 其始花之 歡寸物乎
裏歌
訓読 何すとか君を厭(い)とはむ秋萩のその始花(はつはな)し歓(うれ)しきものを
私訳 秋萩の花のように咲き始めたばかりの貴女には夜の歡びがまだすくないようです。だからといって貴女が嫌いではないのです。
つまり、即物的に「貴女は未だ性交渉に慣れてはいないけども、それでも、私は貴女が嫌いではありません」と云っているとも読めるのです。文にも手馴れの熟練した男から、初々しい女への歌の景色です。なお、「其始花之」には、いわゆる、初交や性交初夜の意味はありません。初交には「初花」のような漢字表現を使うと考えます。
参考に、まだ、男女関係に馴れていない若い娘が好きな男に抱かれる時の気持ちを詠った歌があります。集歌2650の歌と集歌2273の歌とを重ね合わせて鑑賞すると、若い娘の気持ちが良く分かると思います。
集歌2650 十寸板持 盖流板目乃 不令相者 如何為跡可 吾宿始兼
訓読 そき板(た)以(も)ち葺(ふ)ける板目(いため)の合(あ)はざらば如何(いか)にせむとか吾(あ)が寝(ね)始(そ)めけむ
私訳 薄くそいだ板で葺いた屋根の板目がなかなか合わないように、私の体が貴方に気に入って貰えなければどうしましょうかと、そのような思いで、私は貴方と共寝を始めました。
さて、鴨頭草や芽子の言葉にその花の形などから女性や女性器の比喩があるとしますと、万葉時代の人たちは男女を問わず、それを良く観察していたことにもなります。その良く観察をしていたことを基準に次の歌を紹介します。
集歌2225 吾背子之 挿頭之芽子尓 置露乎 清見世跡 月者照良思
訓読 吾が背子し挿頭(かざし)し萩に置く露を清(さや)かに見よと月は照るらし
私訳 私の愛しい貴方が髪飾りとした萩に置く露を、輝き清らかだから良く見なさいとばかりに月は照っているのでしょう。
集歌2225の歌の二句目「挿頭之芽子尓」は「露を置いた萩の枝を髪飾りとした」と解釈して訳します。情景は髪に挿した萩の露が月の明かりに輝くと云う明るい光の下での出会いです。
ただ、芽子や露に比喩があるとすると、古語の「かざす=翳す」には「物の上に手で覆うように差し出す」と云う意味がありますから、時に「かざす」をしたものは恋人の顔かもしれません。そうした場合は、歌は閨での痴話になり、女性が「私の芽子に置く露の様子を月明かりの下、もっと、良く見て」とお願いしていることになります。参考として、万葉時代、ふくよかな白き肌に潤い濡れた体が美人の基準の一つだったようです。
もう一つ、裏の意味がありそうな芽子の歌を紹介します。それが集歌2228の歌です。風景は枝一杯に花を付けた萩が月の光に明るく照らされています。そのようなすがすがしい歌です。
集歌2228 芽子之花 開乃乎再入緒 見代跡可聞 月夜之清 戀益良國
訓読 萩し花咲きのををりを見よとかも月夜(つくよ)し清(きよ)き恋まさらくに
私訳 萩の花がたわわに咲いているのを眺めなさいと云うのでしょうか、月夜が清らかで、この風情に心が引きつけられる。
さて、紹介した集歌2228の歌は二句目が難訓で「乎再入緒」は「ををりを」と訓むことになっています。一応、「乎再」は同じ文字の繰り返しを避けるための表記での「乎が再び」と解釈し、「乎再入緒」は「乎乎入緒」と見なしての「ををりを」です。
ここで古語の「ををり」は「撓り」とも表記し、漢字で「撓り」と表記しますと別訓で「たをり」とも訓むことが出来ます。この「たをり」は「山の稜線のくぼんで低くなっている所」を意味しますし、「ををり」は「花や葉がたくさんついて枝がしなうこと」を意味します。およそ、「ををり」や「たをり」とは「くぼみ」や「周りより低くなる様」を表す言葉のようです。
そうした時、原文表記の「再入」は意味深長です。「芽子」に女性器の隠語があることを思いますと、歌を発声で詠う場合と木簡などに墨書した場合での歌の雰囲気は大きく違います。その墨書した場合には、ちょうど、鴨頭草の花の形が意味する男女の状況を眺めるのにちょうどよい月明かりと云う意味が現れて来ます。それも、「もう一度」と歌にはあります。
集歌2228 芽子之花 開乃乎再入緒 見代跡可聞 月夜之清 戀益良國
裏歌
訓読 萩し花割(さ)けの撓(をを)りを見よとかも月夜(つくよ)し清(きよ)き恋まさらくに
私訳 貴女の芽子のあたりの窪みを見つ、もう一度、体を交わしなさいとばかりに月夜の明かりは清らかです。だから貴女を抱きたくてたまらない。
もし、集歌2225の歌と集歌2228の歌とが、仲秋の名月の下、宴を催しての歌会での二首問答歌としますと、非常に楽しい宴ではないでしょうか。発声で詠う場合、共に歌は月明かりに照らされる萩花の風情を詠います。ですが、その歌を木簡などに墨書して女性陣に回覧し目配せしますと、次のような返歌を貰えるかもしれません。
集歌2252 秋芽子之 開散野邊之 暮露尓 沾乍来益 夜者深去鞆
訓読 秋萩し咲き散る野辺(のへ)し暮露に濡れつつ来ませ夜は更けぬとも
私訳 秋萩の花が咲き散る野辺の、その夕露に濡れながらやって来て下さい。夜は更けたとしても。
集歌2271 草深三 蟋多 鳴屋前 芽子見公者 何時来益牟
訓読 草深み蟋蟀(こほろぎ)さはに鳴く屋前(やと)し萩見に君はいつか来まさむ
私訳 草むらが深いのでコオロギが盛大に鳴いている私の家の庭に、萩を眺めに貴方はいつお出でになるのでしょうか。
今回は完全に馬鹿話です。ただし、萩の花を詠う歌を鑑賞するとき、このような馬鹿話の可能性があることをどうでも良い知識として持っていますと、鑑賞の奥行きが広がるのではないでしょうか。風流のようで、その歌の表現に使われる漢語や漢字文字に注目しますと時に馬鹿話の歌であるかも知れません。
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