第三部 後日並皇子高市皇子
ここまで、壬申の乱での高市皇子の奮戦の状況を見てきました。その壬申の乱の折の高市皇子の奮戦振りは、挽歌の一節を見ることで説明しました。そこで、壬申の乱全体像が見えてきたところで、もう一度、人麻呂の高市皇子尊の殯宮の挽歌の全文を掲げ、従来の高市皇子の人物像が正しいかどうか、見て行きたいと思います。
藤原京と大将軍贈右大臣大伴卿の歌
高市皇子の人物像を見ていく前に藤原京と明日香の地名について寄り道します。
最初に、この藤原京の地名の理解は、昭和以降と昭和以前では大きく違います。藤原京は、日本書紀や続日本紀に藤原京の全体像が文字で明確に記されていないために、昭和以前では現在の東大寺や法隆寺程度の小規模の王宮と理解されていて、現在のように平城京と同じ規模かそれより大きかったとは理解されていません。そのために、現在の万葉集での解説や高市皇子への説明は、その小規模な王宮に住まわれる持統天皇の補佐程度と理解されていました。
ところが、今日では津田文学とは違い考古学の成果や日本書紀や続日本紀を正当に評価しようとする姿勢から、藤原京は平城京や平安京と比較しなければいけない規模と理解されるようになり、古代の歴史の解釈や理解を変える必要があるとなってきています。このような考古学などの成果を下に、藤原京に係わる万葉集の歌を見てみたいと思います。こうしたときに、万葉集巻二十に次のような歌があります。
壬申年之乱平定以後謌二首
標訓 壬申の年の乱の平定せし後の歌二首
集歌4260 皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都
訓読 皇(すべらぎ)は神にし坐(ま)せば赤駒の腹這ふ田井(たい)を都と成しつ
私訳 皇は現人神でいらっしゃるので赤駒がぬかるみに足を取られ腹ばう深田を都と姿を変えられた。
右一首、大将軍贈右大臣大伴卿作
注訓 右の一首は、大将軍贈右大臣大伴卿の作なり。
集歌4261 大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通 (作者未詳)
訓読 大王(おほきみ)は神にしませば水鳥のすだく水沼(みぬま)を都と成しつ (作者は未だ詳らかならず)
私訳 大王は現人神でいらっしゃるので水鳥が群れ集う水のある沼を都と姿を変えられた。
右件二首、天平勝寶四年二月二日聞之、即載於茲也
注訓 右の件の二首は、天平勝寶四年二月二日に之を聞きて、即ち茲に載す也。
先に説明した理由により、昭和以前の文学者にとっての飛鳥時代の王宮とは天武天皇の飛鳥浄御原宮です。そのため、集歌4260と4261の歌で詠われた「都」は、飛鳥浄御原宮とされてきました。それで、歌での「皇」や「大王」とは天武天皇のことを示すとされてきました。ところが、飛鳥浄御原宮の場所は、舒明天皇が飛鳥岡に立てられた岡本宮の南に位置しますので、飛鳥岡の丘陵地帯の裾に位置します。このため、飛鳥浄御原宮の場所は、歌で詠う「赤駒の腹這ふ田井」や「水鳥のすだく水沼」が示す湖沼地形ではありません。反って、集歌4260と4261の歌が詠う世界は、次の藤原京御井歌が示す香具山・畝傍山・耳成山で囲まれる飛鳥川と八釣川の氾濫原である藤井が原の湿地帶が相応しくと思われます。
また、拙書「人麻呂歌集を読み直す」で説明したように、現御神の思想が確認できるのは持統三年(689)四月に亡くなられた草壁皇子への人麻呂が詠う挽歌以降です。少なくても、歌で詠う思想や表記方法からは集歌4260と4261の歌は天武天皇時代とするのは厳しいと思われますし、伝聞としても、「皇」と「大王」との表記の書き分けの理由を説明しないと口承歌の採歌・記述とするには苦しいと思います。
藤原宮之役民作謌
標訓 藤原宮の役民(えのみたから)の作れる歌
集歌50 八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 檜乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須良牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
訓読 八隅(やすみ)知(し)し 吾(あ)が大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 藤原が上に 食(を)す国を 見し給はむと 都宮(みあから)は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ 磐走(いははし)る 淡海(あふみ)の国の 衣手の 田上山の 真木さく 檜の嬬手(つまて)を 物(もの)の布(ふ)の 八十(やそ)宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると 騒く御民(みたから)も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居(ゐ)て 吾(あ)が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より 我が国は 常世にならむ 図負(あやお)へる 神(くす)しき亀も 新代(あらたよ)と 泉の川に 持ち越せる 真木の嬬手を 百(もも)足らず 筏に作り 泝(のぼ)すらむ 勤(いそ)はく見れば 神ながら有(な)らし
私訳 天下をあまねく統治される我が大王の天まで威光を照らす日の皇子が、新しい藤原の地で統治する国を治めようと王宮を御建てになろうと現御神としてお思いになられると、天神も地祇も賛同しているので、岩が河を流れるような淡海の国の衣手の田上山の立派な檜を切り出した太い根元の木材を川に布を晒すように川一面に沢山、宇治川に玉藻のように浮かべて流すと、それを取り上げようと立ち騒ぐ民の人々は家のことを忘れ、自分のことも顧みずに、水に浮かぶ鴨のように水に浮かんでいて自分たちが造る、その天皇の王宮に人も知らない遥か彼方の国から通ってくる、その巨勢の道から我が国は永遠に繁栄すると甲羅に示した神意の亀もやってくる。新しい時代と木津川に宇治川から持ち越してきた立派な木材を百(もも)には足りないが五十(いか)のその筏に組んで川を上らせる。民の人々が勤勉に働く姿を見ると、これも現御神であることらしい。
藤原京御井歌
標訓 藤原京の御井の歌
集歌52 八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日経乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳高之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宜名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水
訓読 やすみしし わご大王 高照らす 日の御子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始め給ひて埴安(はにやす)の 堤の上に 在(あ)り立(た)たし 見し給へば 大和の 青香具山は 日の経(たて)の 大御門に 春山と 繁(しみ)さび立てり 畝火の この瑞山(みずやま)は 日の緯(よこ)の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青(あお)菅山(すがやま)は 背面(そとも)の 大御門に 宜しなへ 神さび立てり 名くはし 吉野の山は 影面(かげとも)の 大御門ゆ 雲居にそ 遠くありける 高知るや 天の御蔭(みかげ) 天知るや 日の御影の 水こそば 常にあらめ 御井の清水
私訳 天下をあまねく統治されるわが大王の天の神の国まで高く照らす日の御子の、人の踏み入れていない神聖な藤井ガ原に新しい宮城を始めなさって、埴安の堤の上に御出でになりお立ちになって周囲を御覧になると、大和の青々とした香具山は日の縦の線上の宮城の春山のように木々が繁り立っている、畝傍のこの瑞々しい山は日の横の線上の宮城の瑞山として相応しい山容をしている、耳成の青々とした菅の山は背面の宮城に相応しく神の山らしくそそり立っている、名も相応しい吉野の山は日の指す方向の宮城から雲が立ち上るような遠くにある。天の神の国まで高く知られている天の宮殿、天の神も知っている日の御子の宮殿の水こそは常にあるだろう。御井の清水よ。
こうしてみますと、集歌4260と4261の歌で示す「皇」や「大王」とは天武天皇のことはないと思われます。こうしたとき、持統天皇と考えるのが自然ですが、天智天皇時代の中皇命である間人皇太后と政治の実権を執った葛城皇太子との関係を思うと、太政大臣高市皇子の可能性を捨て去ることは出来ません。ここでは、集歌4260と4261の歌で詠う「赤駒の腹這ふ田井」や「水鳥のすだく水沼」が示すように湖沼地形を埋め立て、それを都とされた「皇」や「大王」とは、持統天皇か太政大臣高市皇子かのどちらかであるとして、万葉集に標として載る高市皇子尊への挽歌を見て行きたいと思います。
ここまで、壬申の乱での高市皇子の奮戦の状況を見てきました。その壬申の乱の折の高市皇子の奮戦振りは、挽歌の一節を見ることで説明しました。そこで、壬申の乱全体像が見えてきたところで、もう一度、人麻呂の高市皇子尊の殯宮の挽歌の全文を掲げ、従来の高市皇子の人物像が正しいかどうか、見て行きたいと思います。
藤原京と大将軍贈右大臣大伴卿の歌
高市皇子の人物像を見ていく前に藤原京と明日香の地名について寄り道します。
最初に、この藤原京の地名の理解は、昭和以降と昭和以前では大きく違います。藤原京は、日本書紀や続日本紀に藤原京の全体像が文字で明確に記されていないために、昭和以前では現在の東大寺や法隆寺程度の小規模の王宮と理解されていて、現在のように平城京と同じ規模かそれより大きかったとは理解されていません。そのために、現在の万葉集での解説や高市皇子への説明は、その小規模な王宮に住まわれる持統天皇の補佐程度と理解されていました。
ところが、今日では津田文学とは違い考古学の成果や日本書紀や続日本紀を正当に評価しようとする姿勢から、藤原京は平城京や平安京と比較しなければいけない規模と理解されるようになり、古代の歴史の解釈や理解を変える必要があるとなってきています。このような考古学などの成果を下に、藤原京に係わる万葉集の歌を見てみたいと思います。こうしたときに、万葉集巻二十に次のような歌があります。
壬申年之乱平定以後謌二首
標訓 壬申の年の乱の平定せし後の歌二首
集歌4260 皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都
訓読 皇(すべらぎ)は神にし坐(ま)せば赤駒の腹這ふ田井(たい)を都と成しつ
私訳 皇は現人神でいらっしゃるので赤駒がぬかるみに足を取られ腹ばう深田を都と姿を変えられた。
右一首、大将軍贈右大臣大伴卿作
注訓 右の一首は、大将軍贈右大臣大伴卿の作なり。
集歌4261 大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通 (作者未詳)
訓読 大王(おほきみ)は神にしませば水鳥のすだく水沼(みぬま)を都と成しつ (作者は未だ詳らかならず)
私訳 大王は現人神でいらっしゃるので水鳥が群れ集う水のある沼を都と姿を変えられた。
右件二首、天平勝寶四年二月二日聞之、即載於茲也
注訓 右の件の二首は、天平勝寶四年二月二日に之を聞きて、即ち茲に載す也。
先に説明した理由により、昭和以前の文学者にとっての飛鳥時代の王宮とは天武天皇の飛鳥浄御原宮です。そのため、集歌4260と4261の歌で詠われた「都」は、飛鳥浄御原宮とされてきました。それで、歌での「皇」や「大王」とは天武天皇のことを示すとされてきました。ところが、飛鳥浄御原宮の場所は、舒明天皇が飛鳥岡に立てられた岡本宮の南に位置しますので、飛鳥岡の丘陵地帯の裾に位置します。このため、飛鳥浄御原宮の場所は、歌で詠う「赤駒の腹這ふ田井」や「水鳥のすだく水沼」が示す湖沼地形ではありません。反って、集歌4260と4261の歌が詠う世界は、次の藤原京御井歌が示す香具山・畝傍山・耳成山で囲まれる飛鳥川と八釣川の氾濫原である藤井が原の湿地帶が相応しくと思われます。
また、拙書「人麻呂歌集を読み直す」で説明したように、現御神の思想が確認できるのは持統三年(689)四月に亡くなられた草壁皇子への人麻呂が詠う挽歌以降です。少なくても、歌で詠う思想や表記方法からは集歌4260と4261の歌は天武天皇時代とするのは厳しいと思われますし、伝聞としても、「皇」と「大王」との表記の書き分けの理由を説明しないと口承歌の採歌・記述とするには苦しいと思います。
藤原宮之役民作謌
標訓 藤原宮の役民(えのみたから)の作れる歌
集歌50 八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 檜乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須良牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
訓読 八隅(やすみ)知(し)し 吾(あ)が大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 藤原が上に 食(を)す国を 見し給はむと 都宮(みあから)は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ 磐走(いははし)る 淡海(あふみ)の国の 衣手の 田上山の 真木さく 檜の嬬手(つまて)を 物(もの)の布(ふ)の 八十(やそ)宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると 騒く御民(みたから)も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居(ゐ)て 吾(あ)が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より 我が国は 常世にならむ 図負(あやお)へる 神(くす)しき亀も 新代(あらたよ)と 泉の川に 持ち越せる 真木の嬬手を 百(もも)足らず 筏に作り 泝(のぼ)すらむ 勤(いそ)はく見れば 神ながら有(な)らし
私訳 天下をあまねく統治される我が大王の天まで威光を照らす日の皇子が、新しい藤原の地で統治する国を治めようと王宮を御建てになろうと現御神としてお思いになられると、天神も地祇も賛同しているので、岩が河を流れるような淡海の国の衣手の田上山の立派な檜を切り出した太い根元の木材を川に布を晒すように川一面に沢山、宇治川に玉藻のように浮かべて流すと、それを取り上げようと立ち騒ぐ民の人々は家のことを忘れ、自分のことも顧みずに、水に浮かぶ鴨のように水に浮かんでいて自分たちが造る、その天皇の王宮に人も知らない遥か彼方の国から通ってくる、その巨勢の道から我が国は永遠に繁栄すると甲羅に示した神意の亀もやってくる。新しい時代と木津川に宇治川から持ち越してきた立派な木材を百(もも)には足りないが五十(いか)のその筏に組んで川を上らせる。民の人々が勤勉に働く姿を見ると、これも現御神であることらしい。
藤原京御井歌
標訓 藤原京の御井の歌
集歌52 八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日経乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳高之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宜名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水
訓読 やすみしし わご大王 高照らす 日の御子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始め給ひて埴安(はにやす)の 堤の上に 在(あ)り立(た)たし 見し給へば 大和の 青香具山は 日の経(たて)の 大御門に 春山と 繁(しみ)さび立てり 畝火の この瑞山(みずやま)は 日の緯(よこ)の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青(あお)菅山(すがやま)は 背面(そとも)の 大御門に 宜しなへ 神さび立てり 名くはし 吉野の山は 影面(かげとも)の 大御門ゆ 雲居にそ 遠くありける 高知るや 天の御蔭(みかげ) 天知るや 日の御影の 水こそば 常にあらめ 御井の清水
私訳 天下をあまねく統治されるわが大王の天の神の国まで高く照らす日の御子の、人の踏み入れていない神聖な藤井ガ原に新しい宮城を始めなさって、埴安の堤の上に御出でになりお立ちになって周囲を御覧になると、大和の青々とした香具山は日の縦の線上の宮城の春山のように木々が繁り立っている、畝傍のこの瑞々しい山は日の横の線上の宮城の瑞山として相応しい山容をしている、耳成の青々とした菅の山は背面の宮城に相応しく神の山らしくそそり立っている、名も相応しい吉野の山は日の指す方向の宮城から雲が立ち上るような遠くにある。天の神の国まで高く知られている天の宮殿、天の神も知っている日の御子の宮殿の水こそは常にあるだろう。御井の清水よ。
こうしてみますと、集歌4260と4261の歌で示す「皇」や「大王」とは天武天皇のことはないと思われます。こうしたとき、持統天皇と考えるのが自然ですが、天智天皇時代の中皇命である間人皇太后と政治の実権を執った葛城皇太子との関係を思うと、太政大臣高市皇子の可能性を捨て去ることは出来ません。ここでは、集歌4260と4261の歌で詠う「赤駒の腹這ふ田井」や「水鳥のすだく水沼」が示すように湖沼地形を埋め立て、それを都とされた「皇」や「大王」とは、持統天皇か太政大臣高市皇子かのどちらかであるとして、万葉集に標として載る高市皇子尊への挽歌を見て行きたいと思います。
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