万葉雑記 色眼鏡 二九七 今週のみそひと歌を振り返る その一一七
今週は巻十二の「寄物陳思」に部立される歌々を鑑賞しています。鑑賞は日々の鑑賞での注意に示した説明に酔っています。標準的なものからしますと酔論であり、与太話です。
集歌3034 吾妹兒尓 戀為便名鴈 胸乎熱 旦戸開者 所見霧可聞
試訓 吾妹子に恋ひすべながり胸を熱(あつ)み朝戸(あさと)し開(あ)けばそ見ゆ霧かも
試訳 私の愛しい貴女に恋い焦がれてどうしようもなくて、焦がれる胸が熱い。貴女は朝に戸を開けると、きっと知るでしょう、一面に立ち込めている私の思いを示す霧を。
注意 雲や霧は人の霊魂の写しとする考えがあります。ここでは試訓・試訳として歌を三句切れで恣意的に鑑賞しています。
集歌3035 暁之 朝霧隠 反羽二 如何戀乃 色舟出尓家留
試訓 暁(あかとき)し朝霧隠(こも)りかへらばに何しか恋の色付(にほひ)出でにける
試訳 暁の朝霧に何もかにもが立ち隠っているように、想いを隠していたのに、反って、どうした訳か、霧の中を舟出するように恋い焦がれる雰囲気がほのかに立ち上ってしまいました。
注意 原文の「色舟出尓家留」を、一般には「色丹出尓家留」と「舟」は「丹」の誤記とします。ここでは、原文のままに「舟」の音の「フ」から「付」を起こして「色付」と訓んでいます。霧の扱いは集歌3035の歌と同じで男の思いの表れとしています。
さて、万葉集の研究では、加藤明氏がその論文「『万葉集』の挽歌における死にかかわる表現についての考察」で示すように「貴人の魂は、死後天上に上るという考え方が上代文学に見られる」とし、そうした観想に基づいて詠まれた歌を次の三つに区分し紹介します。
(1) 魂が天上に上るという考え方から詠まれているもの
(2) 魂が天上を往来するという考え方から詠まれているもの
(3) 雲や霧を亡き人の魂の移動したものと見る考え 方から詠まれているもの
弊ブログ管理人は実に無精ですので例として引用紹介する個々の歌の提示は行いません。例歌は加藤明氏の論文を参照ください。
この「雲や霧を亡き人の魂の移動したもの」という視線を持ちますと、集歌3034の歌や集歌3035の歌は弊ブログで示したような鑑賞の可能性があります。対比のため、この二首の歌を萬葉集釋注から引用します。
集歌3034 吾妹兒尓 戀為便名鴈 胸乎熱 旦戸開者 所見霧可聞
訓読 我妹子に恋ひすべながり胸を熱み朝戸開くれば見ゆる霧かも
意訳 あの子が恋しくてどうしようもなく、胸が焼けるように苦しいので、朝の戸を開けると、庭一面に霧がたちこめている。
集歌3035 暁之 朝霧隠 反羽二 如何戀乃 色舟出尓家留
訓読 暁の朝霧隠りかへらばに何しか恋の色に出でにける
意訳 夜明け前の暗い朝霧の中に何もかもが立ち隠っている。そのように何もかも包み隠したつもりなのに、まったく逆に何で私の恋心が面に出てしまったのか。
なお、伊藤博氏は萬葉集釋注で集歌3034の歌の解説に「庭に立ちこめる一面の霧はとして、一夜の嘆きの象徴としてとらえられている」としますから、霧は男の思い=魂の象徴としています。単純に朝霧が出ていた訳ではありません。
弊ブログはこれを一歩進めた解釈で、歌を三句切れとしますと上句が男の激しい恋心を示し、下句はその激しい恋心が体から抜け出し霧となって恋人の屋敷の周りに漂っているとなります。当然、このような解釈ですから歌意は変わります。
同じように集歌3035の歌の朝霧は恋する男の思いが体から抜け出し霧となって恋人の住むあたりに流れて行ったという発想からの歌としています。視界としての霧は物をおぼろにしますが、霊魂が抜け出した表れの霧はそれの代理ですから恋心を相手に悟らすという逆の意味となります。それを示すのが三句目四句目の「反羽二 如何戀乃」と考えます。
今回は万葉集歌での鑑賞の可能性を示しました。表記から見て歌意が取りにくいものや違和感があるものは、ここでのような鑑賞方法も成り立つ可能性があると考えます。ただ、弊ブログは与太話で成り立っているのが自慢ですので、標準的な正しい万葉集の鑑賞をお願いいたします。
今週は巻十二の「寄物陳思」に部立される歌々を鑑賞しています。鑑賞は日々の鑑賞での注意に示した説明に酔っています。標準的なものからしますと酔論であり、与太話です。
集歌3034 吾妹兒尓 戀為便名鴈 胸乎熱 旦戸開者 所見霧可聞
試訓 吾妹子に恋ひすべながり胸を熱(あつ)み朝戸(あさと)し開(あ)けばそ見ゆ霧かも
試訳 私の愛しい貴女に恋い焦がれてどうしようもなくて、焦がれる胸が熱い。貴女は朝に戸を開けると、きっと知るでしょう、一面に立ち込めている私の思いを示す霧を。
注意 雲や霧は人の霊魂の写しとする考えがあります。ここでは試訓・試訳として歌を三句切れで恣意的に鑑賞しています。
集歌3035 暁之 朝霧隠 反羽二 如何戀乃 色舟出尓家留
試訓 暁(あかとき)し朝霧隠(こも)りかへらばに何しか恋の色付(にほひ)出でにける
試訳 暁の朝霧に何もかにもが立ち隠っているように、想いを隠していたのに、反って、どうした訳か、霧の中を舟出するように恋い焦がれる雰囲気がほのかに立ち上ってしまいました。
注意 原文の「色舟出尓家留」を、一般には「色丹出尓家留」と「舟」は「丹」の誤記とします。ここでは、原文のままに「舟」の音の「フ」から「付」を起こして「色付」と訓んでいます。霧の扱いは集歌3035の歌と同じで男の思いの表れとしています。
さて、万葉集の研究では、加藤明氏がその論文「『万葉集』の挽歌における死にかかわる表現についての考察」で示すように「貴人の魂は、死後天上に上るという考え方が上代文学に見られる」とし、そうした観想に基づいて詠まれた歌を次の三つに区分し紹介します。
(1) 魂が天上に上るという考え方から詠まれているもの
(2) 魂が天上を往来するという考え方から詠まれているもの
(3) 雲や霧を亡き人の魂の移動したものと見る考え 方から詠まれているもの
弊ブログ管理人は実に無精ですので例として引用紹介する個々の歌の提示は行いません。例歌は加藤明氏の論文を参照ください。
この「雲や霧を亡き人の魂の移動したもの」という視線を持ちますと、集歌3034の歌や集歌3035の歌は弊ブログで示したような鑑賞の可能性があります。対比のため、この二首の歌を萬葉集釋注から引用します。
集歌3034 吾妹兒尓 戀為便名鴈 胸乎熱 旦戸開者 所見霧可聞
訓読 我妹子に恋ひすべながり胸を熱み朝戸開くれば見ゆる霧かも
意訳 あの子が恋しくてどうしようもなく、胸が焼けるように苦しいので、朝の戸を開けると、庭一面に霧がたちこめている。
集歌3035 暁之 朝霧隠 反羽二 如何戀乃 色舟出尓家留
訓読 暁の朝霧隠りかへらばに何しか恋の色に出でにける
意訳 夜明け前の暗い朝霧の中に何もかもが立ち隠っている。そのように何もかも包み隠したつもりなのに、まったく逆に何で私の恋心が面に出てしまったのか。
なお、伊藤博氏は萬葉集釋注で集歌3034の歌の解説に「庭に立ちこめる一面の霧はとして、一夜の嘆きの象徴としてとらえられている」としますから、霧は男の思い=魂の象徴としています。単純に朝霧が出ていた訳ではありません。
弊ブログはこれを一歩進めた解釈で、歌を三句切れとしますと上句が男の激しい恋心を示し、下句はその激しい恋心が体から抜け出し霧となって恋人の屋敷の周りに漂っているとなります。当然、このような解釈ですから歌意は変わります。
同じように集歌3035の歌の朝霧は恋する男の思いが体から抜け出し霧となって恋人の住むあたりに流れて行ったという発想からの歌としています。視界としての霧は物をおぼろにしますが、霊魂が抜け出した表れの霧はそれの代理ですから恋心を相手に悟らすという逆の意味となります。それを示すのが三句目四句目の「反羽二 如何戀乃」と考えます。
今回は万葉集歌での鑑賞の可能性を示しました。表記から見て歌意が取りにくいものや違和感があるものは、ここでのような鑑賞方法も成り立つ可能性があると考えます。ただ、弊ブログは与太話で成り立っているのが自慢ですので、標準的な正しい万葉集の鑑賞をお願いいたします。
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