万葉雑記 色眼鏡 二〇二 今週のみそひと歌を振り返る その二二
今週は万葉集中に本歌取技法の歌を楽しみます。
さて、歌の技法に本歌取と云う古歌を引用して歌を詠むと云う技法があります。一般には、紀貫之が額田王の歌を引用して詠った歌でもって、本歌取技法の最初に位置付けるようです。
万葉集
巻一 集歌18 額田王
原歌 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
訓読 三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや
古今和歌集
巻二 歌番94 紀貫之
和歌 三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ
では、古今和歌集の時代まで本歌取の技法の歌が無かったかと云うと、そうではありません。万葉集時代にも本歌取の技法の歌は詠われています。しかしながら、現在に伝わる本歌取の技法の定義は鎌倉時代初期に藤原定家が提唱したものが基準となっていますが、当時でも本歌取の技法の歌は「盗古歌」(こかをとる)との批判があり、無名人の歌を発掘し、さも自分の歌のように示すことは、さほど誉められることではありませんでした。現代でのそれはパクリか、パロディかと云う問題です。
<定家が唱える本歌取り技法>
本歌と句の置き所を変えないで用いる場合には2句未満とする。
本歌と句の置き所を変えて用いる場合には2句+3・4字までとする。
著名歌人の秀句と評される歌を除いて、枕詞・序詞を含む初2句を 本歌をそのまま用いるのは許容される。
本歌とは主題を合致させない。
「盗古歌」の批判を浴びないためにも、藤原定家は、本歌として採用するのは三代集(『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』)・『伊勢物語』・『三十六人家集』から採ることを推薦しています。逆に見れば定家の時代、これら五歌集は歌人の共通の教養水準であり、知っていることが前提と云うことになります。
追記して、ここで三代集の定義は時代により変化し、定家より一世代前の藤原清輔の時代では『万葉集』『古今和歌集』『後撰和歌集』を三大集と認識していたようです。つまり、知るべき古歌集が相違しています。
ところで、藤原定家は三代集などの有名な古歌集のる歌から本歌取の技法を使うことを推薦していますが、これはこのような古歌集が広く人々に知られていると云うことが前提となっています。この立場からしますと、万葉集に本歌取の技法の歌が存在することは、その歌に先行して本歌が広く人々に知られていたと云うことになります。例えば、柿本人麻呂の歌に対する類型歌が多数存在することは、万葉集の左注に現れる「柿本人麻呂歌集」は早い時期に世に出て、人々はそれを広く楽しんでいたと云うことになります。
理屈はさて置きとして、次の歌を楽しんでみて下さい。
笠女郎贈大伴宿祢家持謌廿四首より
集歌591 吾念乎 人尓令知哉 玉匣 開阿氣津跡 夢西所見
訓読 吾が思(も)ひを人に知るれか玉匣(たまくしげ)開き明(あ)けつと夢(いめ)にし見ゆる
私訳 私の思いを貴方に知られたからか、櫛を入れる美しい匣の蓋を開いてあけた(藤原卿と鏡王女の相聞のように、貴方に抱かれる)と夢に見えました。
本歌
集歌93 玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳
訓読 玉(たま)匣(くしげ)覆ふを安(やす)み開けて行(い)なば君が名はあれど吾(わ)が名し惜しも
私訳 美しい玉のような櫛を寝るときに納める函を覆うように私の心を硬くしていましたが、覆いを取るように貴方に気を許してこの身を開き、その朝が明け開いてから貴方が帰って行くと、貴方の評判は良いかもしれませんが、私は貴方との二人の仲の評判が立つのが嫌です。
集歌593 君尓戀 痛毛為便無見 楢山之 小松之下尓 立嘆鴨
訓読 君に恋ひ甚(いた)も便(すべ)なみ平山(ならやま)し小松し下(した)に立ち嘆くかも
私訳 貴方に恋い慕ってもどうしようもありません。(人麻呂が詠う集歌2487の歌のように)奈良山に生える小松の下で立ち嘆くでしょう。
本歌
集歌2487 平山 子松末 有廉叙波 我思妹 不相止看
訓読 奈良山し小松し末(うれ)しうれむそは我が思(も)ふ妹に逢はず看(み)む止(や)む
私訳 奈良山の小松の末(うれ=若芽)、その言葉のひびきではないが、うれむそは(どうしてまあ)、成長した貴女、そのような私が恋い慕う貴女に逢えないし、姿をながめることも出来なくなってしまった。
集歌603 念西 死為物尓 有麻世波 千遍曽吾者 死變益
訓読 念(おも)ふにし死にするものにあらませば千遍(ちたび)ぞ吾は死に返(かへ)らまし
私訳 (人麻呂に愛された隠れ妻が詠うように)閨で貴方に抱かれて死ぬような思いをすることがあるのならば、千遍でも私は死んで生き返りましょう。
本歌
集歌2390 戀為 死為物 有 我身千遍 死反
訓読 恋するに死するものしあらませば我が身千遍(ちたび)し死にかへらまし
私訳 貴方に抱かれる恋の行いをして、そのために死ぬのでしたら、私の体は千遍も死んで生き還りましょう。
集歌604 劔太刀 身尓取副常 夢見津 何如之恠曽毛 君尓相為
訓読 剣(つるぎ)太刀(たち)身(み)に取り副(そ)ふと夢(いめ)し見つ如何(いか)し怪(け)そも君に相(あ)はむため
私訳 (人麻呂に抱かれた隠れ妻が詠うように)貴方が身につける剣や太刀を受け取って褥の横に置くことを夢を見ました。この夢はどうしたことでしょうか。貴方に会いたいためでしょうか。
本歌
集歌2498 釼刀 諸刃利 足踏 死ゞ 公依
訓読 剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)し利(と)きに足踏みて死なば死なむよ君に依(よ)りては
私訳 貴方が常に身に帯びる剣や太刀の諸刃の鋭い刃に足が触れる、そのように貴方の“もの”でこの身が貫かれ、恋の営みに死ぬのなら死にましょう。貴方のお側に寄り添ったためなら。
紹介しました「笠女郎贈大伴宿祢家持謌廿四首」は、一般には笠女郎と大伴家持とが恋愛関係にあり、大伴家持の手元に残された笠女郎からの恋文を後に二人の縁が切れた後に、家持が二人の出会いから別れまでを編集して、万葉集に載せたのではないかと推測し、実話として考えます。ただ、弊ブログでは笠女郎と大伴家持との年齢差、歌を交わした時の家持の推定実年齢などから推定して、この「笠女郎贈大伴宿祢家持謌廿四首」とは「戀歌の教則本」のようなものと考えています。そのため、内大臣藤原卿と鏡王女との相聞歌や柿本人麻呂と隠れ妻との相聞歌を本歌として歌を詠ったと思います。つまり、大伴家持は神亀・天平初期には知られていた古歌集を教養として勉強しなければいけなかったと思われます。
当然、笠女郎が詠う歌にふんだんに本歌取りの技法が取り入れられていることを認識しなければ、「なぜ、ずいぶん、歳下の家持に恋歌を贈ったのか」と云う根本的な疑問すら気が付かないのではないでしょうか。
万葉集の巻十四「東歌」には人麻呂歌集の異伝として四首、巻十五「遣新羅使歌」にも異伝として五首載ります。およそ、神亀・天平年間には大和朝廷に関わる人々で宴に招待されるような立場であれば、柿本人麻呂歌集は教養であり、それを教本として歌を詠うことを求められていたのではないでしょうか。本歌取りの技法の歌と云うか、教本模倣の歌と云うか難しい点ではありますが、奈良時代初期の時点で鑑賞に堪えるレベルでの本歌取りの技法の歌は詠われていたと考えるべきではないでしょうか。
最後に万葉集編纂の歴史では、元明天皇時代に藤原京時代までの和歌を類聚した現在の万葉集の源流となるような原初万葉集や柿本人麻呂歌集は存在していたと推定します。そのような観点からしますと、今回紹介しました「笠女郎贈大伴宿祢家持謌廿四首」で引用する古歌はその説を補強する位置にあります。
弊ブログは酔論と与太話で成り立っていますが、時に「それらしい」話題も提供します。関西の千三ではない、千無ですが、騙されたと思いつつ、このような視点から歌を楽しんでみて下さい。
今週は万葉集中に本歌取技法の歌を楽しみます。
さて、歌の技法に本歌取と云う古歌を引用して歌を詠むと云う技法があります。一般には、紀貫之が額田王の歌を引用して詠った歌でもって、本歌取技法の最初に位置付けるようです。
万葉集
巻一 集歌18 額田王
原歌 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
訓読 三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや
古今和歌集
巻二 歌番94 紀貫之
和歌 三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ
では、古今和歌集の時代まで本歌取の技法の歌が無かったかと云うと、そうではありません。万葉集時代にも本歌取の技法の歌は詠われています。しかしながら、現在に伝わる本歌取の技法の定義は鎌倉時代初期に藤原定家が提唱したものが基準となっていますが、当時でも本歌取の技法の歌は「盗古歌」(こかをとる)との批判があり、無名人の歌を発掘し、さも自分の歌のように示すことは、さほど誉められることではありませんでした。現代でのそれはパクリか、パロディかと云う問題です。
<定家が唱える本歌取り技法>
本歌と句の置き所を変えないで用いる場合には2句未満とする。
本歌と句の置き所を変えて用いる場合には2句+3・4字までとする。
著名歌人の秀句と評される歌を除いて、枕詞・序詞を含む初2句を 本歌をそのまま用いるのは許容される。
本歌とは主題を合致させない。
「盗古歌」の批判を浴びないためにも、藤原定家は、本歌として採用するのは三代集(『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』)・『伊勢物語』・『三十六人家集』から採ることを推薦しています。逆に見れば定家の時代、これら五歌集は歌人の共通の教養水準であり、知っていることが前提と云うことになります。
追記して、ここで三代集の定義は時代により変化し、定家より一世代前の藤原清輔の時代では『万葉集』『古今和歌集』『後撰和歌集』を三大集と認識していたようです。つまり、知るべき古歌集が相違しています。
ところで、藤原定家は三代集などの有名な古歌集のる歌から本歌取の技法を使うことを推薦していますが、これはこのような古歌集が広く人々に知られていると云うことが前提となっています。この立場からしますと、万葉集に本歌取の技法の歌が存在することは、その歌に先行して本歌が広く人々に知られていたと云うことになります。例えば、柿本人麻呂の歌に対する類型歌が多数存在することは、万葉集の左注に現れる「柿本人麻呂歌集」は早い時期に世に出て、人々はそれを広く楽しんでいたと云うことになります。
理屈はさて置きとして、次の歌を楽しんでみて下さい。
笠女郎贈大伴宿祢家持謌廿四首より
集歌591 吾念乎 人尓令知哉 玉匣 開阿氣津跡 夢西所見
訓読 吾が思(も)ひを人に知るれか玉匣(たまくしげ)開き明(あ)けつと夢(いめ)にし見ゆる
私訳 私の思いを貴方に知られたからか、櫛を入れる美しい匣の蓋を開いてあけた(藤原卿と鏡王女の相聞のように、貴方に抱かれる)と夢に見えました。
本歌
集歌93 玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳
訓読 玉(たま)匣(くしげ)覆ふを安(やす)み開けて行(い)なば君が名はあれど吾(わ)が名し惜しも
私訳 美しい玉のような櫛を寝るときに納める函を覆うように私の心を硬くしていましたが、覆いを取るように貴方に気を許してこの身を開き、その朝が明け開いてから貴方が帰って行くと、貴方の評判は良いかもしれませんが、私は貴方との二人の仲の評判が立つのが嫌です。
集歌593 君尓戀 痛毛為便無見 楢山之 小松之下尓 立嘆鴨
訓読 君に恋ひ甚(いた)も便(すべ)なみ平山(ならやま)し小松し下(した)に立ち嘆くかも
私訳 貴方に恋い慕ってもどうしようもありません。(人麻呂が詠う集歌2487の歌のように)奈良山に生える小松の下で立ち嘆くでしょう。
本歌
集歌2487 平山 子松末 有廉叙波 我思妹 不相止看
訓読 奈良山し小松し末(うれ)しうれむそは我が思(も)ふ妹に逢はず看(み)む止(や)む
私訳 奈良山の小松の末(うれ=若芽)、その言葉のひびきではないが、うれむそは(どうしてまあ)、成長した貴女、そのような私が恋い慕う貴女に逢えないし、姿をながめることも出来なくなってしまった。
集歌603 念西 死為物尓 有麻世波 千遍曽吾者 死變益
訓読 念(おも)ふにし死にするものにあらませば千遍(ちたび)ぞ吾は死に返(かへ)らまし
私訳 (人麻呂に愛された隠れ妻が詠うように)閨で貴方に抱かれて死ぬような思いをすることがあるのならば、千遍でも私は死んで生き返りましょう。
本歌
集歌2390 戀為 死為物 有 我身千遍 死反
訓読 恋するに死するものしあらませば我が身千遍(ちたび)し死にかへらまし
私訳 貴方に抱かれる恋の行いをして、そのために死ぬのでしたら、私の体は千遍も死んで生き還りましょう。
集歌604 劔太刀 身尓取副常 夢見津 何如之恠曽毛 君尓相為
訓読 剣(つるぎ)太刀(たち)身(み)に取り副(そ)ふと夢(いめ)し見つ如何(いか)し怪(け)そも君に相(あ)はむため
私訳 (人麻呂に抱かれた隠れ妻が詠うように)貴方が身につける剣や太刀を受け取って褥の横に置くことを夢を見ました。この夢はどうしたことでしょうか。貴方に会いたいためでしょうか。
本歌
集歌2498 釼刀 諸刃利 足踏 死ゞ 公依
訓読 剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)し利(と)きに足踏みて死なば死なむよ君に依(よ)りては
私訳 貴方が常に身に帯びる剣や太刀の諸刃の鋭い刃に足が触れる、そのように貴方の“もの”でこの身が貫かれ、恋の営みに死ぬのなら死にましょう。貴方のお側に寄り添ったためなら。
紹介しました「笠女郎贈大伴宿祢家持謌廿四首」は、一般には笠女郎と大伴家持とが恋愛関係にあり、大伴家持の手元に残された笠女郎からの恋文を後に二人の縁が切れた後に、家持が二人の出会いから別れまでを編集して、万葉集に載せたのではないかと推測し、実話として考えます。ただ、弊ブログでは笠女郎と大伴家持との年齢差、歌を交わした時の家持の推定実年齢などから推定して、この「笠女郎贈大伴宿祢家持謌廿四首」とは「戀歌の教則本」のようなものと考えています。そのため、内大臣藤原卿と鏡王女との相聞歌や柿本人麻呂と隠れ妻との相聞歌を本歌として歌を詠ったと思います。つまり、大伴家持は神亀・天平初期には知られていた古歌集を教養として勉強しなければいけなかったと思われます。
当然、笠女郎が詠う歌にふんだんに本歌取りの技法が取り入れられていることを認識しなければ、「なぜ、ずいぶん、歳下の家持に恋歌を贈ったのか」と云う根本的な疑問すら気が付かないのではないでしょうか。
万葉集の巻十四「東歌」には人麻呂歌集の異伝として四首、巻十五「遣新羅使歌」にも異伝として五首載ります。およそ、神亀・天平年間には大和朝廷に関わる人々で宴に招待されるような立場であれば、柿本人麻呂歌集は教養であり、それを教本として歌を詠うことを求められていたのではないでしょうか。本歌取りの技法の歌と云うか、教本模倣の歌と云うか難しい点ではありますが、奈良時代初期の時点で鑑賞に堪えるレベルでの本歌取りの技法の歌は詠われていたと考えるべきではないでしょうか。
最後に万葉集編纂の歴史では、元明天皇時代に藤原京時代までの和歌を類聚した現在の万葉集の源流となるような原初万葉集や柿本人麻呂歌集は存在していたと推定します。そのような観点からしますと、今回紹介しました「笠女郎贈大伴宿祢家持謌廿四首」で引用する古歌はその説を補強する位置にあります。
弊ブログは酔論と与太話で成り立っていますが、時に「それらしい」話題も提供します。関西の千三ではない、千無ですが、騙されたと思いつつ、このような視点から歌を楽しんでみて下さい。
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