万葉雑記 色眼鏡 百七十 奈良時代までの私年号
万葉集巻一と巻二は日本の年号と云う分野からしますと、非常に困った巻々です。もし、万葉集が勅撰和歌集であると認定されますと、年号と云う分野で正史である日本書紀に載るものと万葉集に載るものとが一致しないという問題が生じ、従来からの日本書紀改ざん説を強く裏付けるものとなります。例として、日本書紀からすると「朱鳥四年」と云う年号は存在しません。それは左注に示すように「日本紀」という奈良時代に存在した歴史書に載る年号です。
幸于紀伊國時川嶋皇子御作謌 或云、山上臣憶良作
標訓 紀伊國に幸(いでま)しし時に、川嶋皇子の御(かた)りて作らしし謌 或は云はく「山上臣憶良の作」といへり。
集歌34 白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃經去良武
訓読 白波の浜松し枝(え)の手向(たむ)け草幾代さへにか年の経(へ)ぬらむ
私訳 白浪のうち寄せる浜辺にある松の枝に懸かる手向の幣(ぬさ)よ。あれからどれほどの世代の年月が経ったのでしょう。
日本紀曰、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸紀伊國也
注訓 日本紀に曰はく「朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊國に幸(いでま)す」といへり。
さて、話題としています年号について、公式の年号とは違う「私年号」と云うものがあります。ここで、その「私年号」の定義を示したいと思います。定義では「私年号は、紀年法として元号を用いた東アジアにおいて、安定した統治能力を確立した王朝が定めた元号(公年号)以外の年号を指す」となっているようです。なお、日本では鎌倉時代の南北朝並立の時代がありますから、「日本では正史には記載されていないものの天皇が定めたものとして後世の史書に記載があったり、考古資料に使用例が見られたりする古代の年号を逸年号と呼び、これに含める場合がある」と追記して定義をするようです。
日本の歴史では、おおむね文武天皇の「大宝」と云う年号以降、安定的に年号が使用されたとし、それ以前では孝徳天皇の「大化」・「白雉」、天武天皇の「朱鳥」が日本書紀に載る年号と認定されていますが、「大宝」と云う年号までは不連続な使用であったと考えています。つまり、それ以外の年号と称されるものは、私年号であり、多くは後年の創作と推定されています。ただ、その中でも推古天皇時代の「法興」だけは例外で、法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘や『伊予国風土記』逸文といった信用すべき史料に実例が見られるため、後年創作の私年号とすることは出来ないようです。また、続日本紀や藤氏家伝などに現れる「白鳳」、「朱雀」は公年号の「白雉」、「朱鳥」からそれぞれ派生した年号であると考えられているようです。これは最初に定義しました「正史には記載されたものが年号で、記されて無いものは私年号」としていることによると考えます。「私年号」の定義に反しますが、参考として『続日本紀』に現れる研究者が「私年号」とする「白鳳」と「朱雀」の年号の記事を紹介します。
続日本紀 神亀元年(七二四)十月丁亥朔の記事;-「詔報曰、白鳳以来、朱雀以前、年代玄遠、尋問難明」
非常に馬鹿馬鹿しい話なのですが、「白鳳以来、朱雀以前」の記事に見られるように年号研究者は『日本書紀』や『続日本紀』に示される年号に対して生じる記事の相互矛盾について真面目に対応していないことが指摘されています。ここで、もし、一般的な専門家が「白鳳」や「朱雀」を私年号とするならば、『続日本紀』の編纂者である菅野真道たちが確認し、その『続日本紀』自体を桓武天皇が承認していますから、当時の政府が確認した「白鳳」や「朱雀」と云う年号はどのような位置づけになるのでしょうか。ただ、困ったことに、では、「白鳳」や「朱雀」は西暦換算した時、いつからいつまでなのか、また、その時の天皇は誰なのかを、具体的に説明できません。それでその問題から逃げるために私年号と云う術語で処理をしているのでしょう。
ここで、年号に関する馬鹿話の中で李氏朝鮮時代(日本の室町時代に相当)に編纂された日本の国情と歴史を記した『海東諸国紀』と云う書籍があります。この本の重要な点は、著作者である李氏朝鮮王朝で領議政(宰相)を務めた申叔舟が、若い時代、世宗二五年(1443)に朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、その業績と知見に対して成宗の命を受けて成宗二年(1471)に刊行されたものですし、使われたであろう資料や調査対象が応仁の乱(1467)で多くの古書籍が焼失する以前のものを下に作成されたということです。つまり、応仁の乱以前の日本で伝えられていた資料や伝承が元となっていることです。
この『海東諸国紀』の記事において、日本の年号についての情報がありますので紹介します。
舒明天皇 敏達孫名田村、元年己丑(629)改元聖徳。六年甲午八月彗星見、七年乙未(635)改元僧要、三月彗星見、二年丙申大旱、六年庚子(640)改元命長。在位十三年寿四十五
皇極天皇 敏達曾孫女舒明納為后、元年壬寅(642)用命長。在位三年
孝徳天皇 皇極同母弟、元年乙巳(645)用命長。三年丁未(647)改元常色、三年己酉(649)初置八省百官及十禅師寺、六年壬子(652)改元白雉。在位十年寿三十九
斉明天皇、皇極復位。元年乙卯(655)用白雉。六年庚申始造漏刻、七年辛酉(661)改元白鳳、遷都近江州。在位七年寿六十八
天智天皇 舒明太子母皇極名葛城、元年壬戍(662)用白鳳。七年戊辰始任太宰師、八年己巳以大職冠為内大臣、賜姓藤原藤姓、始此大職冠、尋死以大友皇子、天智子為大政大臣、皇子任大政大臣、始此初置大納言三人、在位十年
天武天皇 舒明第二子天智同母弟名大海人、元年壬申(672)用白鳳。天智七年、天武為太子天智将禅位、天武辞避出家隠吉野山、天智歿、太友皇子謀簒欲攻吉野、天武将濃張二州兵入京城討之遂、即位二年癸酉初置大中納言、六年丁丑始作詩賦、十一年壬午始作冠、令国中男子皆束髪・女子皆被髪、十二年癸未造車・停銀銭用銅銭、十三年甲申(684)改元朱雀、三年丙戍(686)改元朱鳥、彗星見。在位十五年
持統天皇 天智第二女天武納為后、元年丁亥(687)用朱鳥。七年癸巳定町段中人平歩両足相距為一歩方六十五歩為一段十段為一町、九年乙未(695)改元大和、三年丁酉八月禅位于文武在位十年
文武天皇 天武孫母元明、元年丁酉(697)、明年戊戍(698)改元大長。定律令四年辛丑(701)改元大宝、三年癸卯初置参議・立東西市、四年甲辰(704)慶雲、三年丙午初定封戸・造斗升。在位十一年寿二十五
元明天皇 天智第四女適天武之子草壁太子生文武、元年戊申(708)改元和同。四年辛亥始織錦綾、五年壬子初置出雲州、六年癸丑初置丹後・美作・日向・大隅等州、七年甲寅始定京城条里坊門、八年乙卯(715)改元霊亀、九月禅位于元正。在位八年寿四十八
元正天皇 文武姉元明女名冰高、元年乙卯(715)、三年丁巳(717)改元養老、二年戊午彗星見、四年庚申新羅来伐西鄙、八年甲子二月禅位于聖武。在位十年寿六十九
ここに示しました見慣れない持統天皇の「大和」、文武天皇の「大長」は、『和漢年契』(高安蘆屋、寛政十年:1798)では「持統帝之時大和按不審年数」、「文武帝之時大長按戊戌為元年」とし、日本側資料でも認識されています。また、『和漢年契』では「舒明帝之時、聖聴三年終。一作聖徳。僧安五年終。一作僧要。明長五年終。一作命長、又曰長命。按自三年至五年」と記しますから、『海東諸国紀』と『和漢年契』とが認識する年号「聖徳」、「僧要」、「命長」もまた一致することになります。ところが、孝徳天皇の「大化」については『海東諸国紀』ではなかったとしますが、一方、『和漢年契』では「我邦年号、孝徳帝之時大化為始、見于正史、後世無異議」とし、『日本書紀』の記事を根拠に「大化」を認めます。およそ、『和漢年契』は正史に示されない空白の年号を探るという態度であって、正史に載る年号は無条件に採用するという面が見られます。
追記参考として、正式な上奏文となる齋部廣成の『古語拾遺』(大同二年:807)には「至于難波長柄豊前朝(=斉明天皇)、白鳳四年」と云う一節がありますし、私文書ですが天平宝字四年(760)頃に恵美押勝が整備したとされる『藤氏家伝大織冠伝』や『藤氏家伝貞慧伝』に「白鳳五年秋八月、詔曰、尚道任賢、先王彝則・・」や「故以白鳳五年歳次甲寅(六五四)、随聘唐使、至于長安、住懐徳坊慧日道場・・」と云うものが伝わっています。これらの記述は『海東諸国紀』と一致するところです。およそ、「大化」と云う年号について保留しますと、舒明天皇の「聖徳」から元明天皇までの「和同」までは、ある程度の信頼性のある年号となると思われます。『続日本紀』は正式な正史でしょうし、『古語拾遺』は公式な上奏文でしょう。つまり、「白鳳」を私年号や「白雉」の紛れとするのは無理筋の話題とするのが相当で、まずは定説には程遠い代物ではないでしょうか。
そうしますとそこからの延長において、年号問題における『日本書紀』や『続日本紀』からすると持統天皇や文武天皇の時代には年号の制定は無かったとの従来の比定は間違いで、やはり、『万葉集』が示すように今は伝わらない『日本紀』に載る「朱鳥」と云う年号が正しいということになるようです。逆に『日本書紀』や『続日本紀』は、なぜ、正しい歴史を記さなかったのかと云う問題へ進むべき事項のようです。なお、白村江の戦いがあった年を日本での『日本書紀』と『旧唐書』などの大陸での正史と比べると一年の相違があり、『日本書紀』自体において、天武天皇の崩御の年と持統天皇の称制前紀・持統元年での時系列に一年の問題があります。従いまして、年代研究において海外資料と『日本書紀』や『続日本紀』とを比較する時、国粋主義の時代のように日本のものが絶対的に正しいとは出来ません。
以下に『万葉集』に現れる『日本紀』の「朱鳥」年号の記事を紹介します。
<例一:歌番号34の左注>
日本紀曰、朱鳥四年庚寅(690)秋九月、天皇幸紀伊国也。
<例二:歌番号44の左注>
右日本紀曰、朱鳥六年壬辰(692)春三月丙寅朔戊辰、以浄広肆広瀬王等為留守官。於是中納言三輪朝臣高市麿脱其冠掲上於朝重諌曰農作之前車駕未可以動。辛未、天皇不従諌遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮。
<例三:歌番号50の左注>
右日本紀曰、朱鳥七年癸巳(693)秋八月、幸藤原宮地。八年甲午(694)春正月、幸藤原宮。冬十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮。
<例四:歌番号202の左注>
右一首類聚歌林曰、檜隅女王、怨泣澤神社之歌也。案日本紀曰、十年丙申(696)秋七月辛丑朔庚戌、後尊薨。
<例五:歌番号195の左注>
右或本曰、葬河島皇子越智野之時献泊瀬部天皇皇女歌也。日本紀曰、朱鳥五年辛卯(691)秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子川島薨。
<例六:歌番号416の左注>
右藤原宮朱鳥元年(686)冬十月。
参考に持統天皇の時代、『海東諸国紀』は「九年乙未(695)改元大和」とします。一方、後皇子命と称され太政大臣であった高市皇子の死亡は万葉集の歌番号202の左注、「右一首類聚歌林曰、檜隅女王、怨泣澤神社之歌也。案日本紀曰、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後尊薨」とありますように丙申(696)とされています。先に大陸と日本では正史に一年の相違が認められますから、西暦や大陸暦を基準とした時、「朱鳥」から「大和」への改元は高市皇子の死亡と直接に関係する可能性は否定できなくなります。それに『日本書紀』では持統天皇元年(687)の前に持統即位前紀(686)と云う年を「朱鳥元年」と云う形で設けていますから、本来的には万葉集に載る『日本紀』の朱鳥十年と『日本書紀』と持統天皇統治十年とでは一年の差があるべきことになっています。つまり、高市皇子の死亡は西暦686年の朱鳥元年から数えますと西暦695年に相当する朱鳥十年と云うことになります。
つまり、応仁の乱以前までの日本の古代史と書籍を焼失してしまった応仁の乱以降に再構築された日本の古代史とでは違う歴史があるかもしれないのです。なお、持統即位前紀を考えますと西暦換算の元年が違うはずですが、不思議なことに六十干支では万葉集に載る『日本紀』と『日本書紀』は一致します。まずは、何らかの歴史編纂における作為と意図があるのでしょう。
今回は元明天皇の「和同」までに現れた私年号について遊びました。応仁の乱以前の海外に残る記録や地方に残る記録からしますと、現在に認められた古代史が正しいかどうか、疑問は残るようです。また、近々の『日本書紀』や『続日本紀』への天文記事や表記問題からはそれら正史の編纂に作為の存在が認められたり、その編纂者自体も同時代性に疑惑が認められたりするようです。特に『日本書紀』の巻三十持統天皇紀については、漢文表記方法の特徴、天文記録の恣意性など、疑惑のオンパレードであることは有名です。このような事実をご承知して頂ければ幸いです。今回は、酔論や暴論ではありません。裏付けを持ったものとなっております。
万葉集巻一と巻二は日本の年号と云う分野からしますと、非常に困った巻々です。もし、万葉集が勅撰和歌集であると認定されますと、年号と云う分野で正史である日本書紀に載るものと万葉集に載るものとが一致しないという問題が生じ、従来からの日本書紀改ざん説を強く裏付けるものとなります。例として、日本書紀からすると「朱鳥四年」と云う年号は存在しません。それは左注に示すように「日本紀」という奈良時代に存在した歴史書に載る年号です。
幸于紀伊國時川嶋皇子御作謌 或云、山上臣憶良作
標訓 紀伊國に幸(いでま)しし時に、川嶋皇子の御(かた)りて作らしし謌 或は云はく「山上臣憶良の作」といへり。
集歌34 白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃經去良武
訓読 白波の浜松し枝(え)の手向(たむ)け草幾代さへにか年の経(へ)ぬらむ
私訳 白浪のうち寄せる浜辺にある松の枝に懸かる手向の幣(ぬさ)よ。あれからどれほどの世代の年月が経ったのでしょう。
日本紀曰、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸紀伊國也
注訓 日本紀に曰はく「朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊國に幸(いでま)す」といへり。
さて、話題としています年号について、公式の年号とは違う「私年号」と云うものがあります。ここで、その「私年号」の定義を示したいと思います。定義では「私年号は、紀年法として元号を用いた東アジアにおいて、安定した統治能力を確立した王朝が定めた元号(公年号)以外の年号を指す」となっているようです。なお、日本では鎌倉時代の南北朝並立の時代がありますから、「日本では正史には記載されていないものの天皇が定めたものとして後世の史書に記載があったり、考古資料に使用例が見られたりする古代の年号を逸年号と呼び、これに含める場合がある」と追記して定義をするようです。
日本の歴史では、おおむね文武天皇の「大宝」と云う年号以降、安定的に年号が使用されたとし、それ以前では孝徳天皇の「大化」・「白雉」、天武天皇の「朱鳥」が日本書紀に載る年号と認定されていますが、「大宝」と云う年号までは不連続な使用であったと考えています。つまり、それ以外の年号と称されるものは、私年号であり、多くは後年の創作と推定されています。ただ、その中でも推古天皇時代の「法興」だけは例外で、法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘や『伊予国風土記』逸文といった信用すべき史料に実例が見られるため、後年創作の私年号とすることは出来ないようです。また、続日本紀や藤氏家伝などに現れる「白鳳」、「朱雀」は公年号の「白雉」、「朱鳥」からそれぞれ派生した年号であると考えられているようです。これは最初に定義しました「正史には記載されたものが年号で、記されて無いものは私年号」としていることによると考えます。「私年号」の定義に反しますが、参考として『続日本紀』に現れる研究者が「私年号」とする「白鳳」と「朱雀」の年号の記事を紹介します。
続日本紀 神亀元年(七二四)十月丁亥朔の記事;-「詔報曰、白鳳以来、朱雀以前、年代玄遠、尋問難明」
非常に馬鹿馬鹿しい話なのですが、「白鳳以来、朱雀以前」の記事に見られるように年号研究者は『日本書紀』や『続日本紀』に示される年号に対して生じる記事の相互矛盾について真面目に対応していないことが指摘されています。ここで、もし、一般的な専門家が「白鳳」や「朱雀」を私年号とするならば、『続日本紀』の編纂者である菅野真道たちが確認し、その『続日本紀』自体を桓武天皇が承認していますから、当時の政府が確認した「白鳳」や「朱雀」と云う年号はどのような位置づけになるのでしょうか。ただ、困ったことに、では、「白鳳」や「朱雀」は西暦換算した時、いつからいつまでなのか、また、その時の天皇は誰なのかを、具体的に説明できません。それでその問題から逃げるために私年号と云う術語で処理をしているのでしょう。
ここで、年号に関する馬鹿話の中で李氏朝鮮時代(日本の室町時代に相当)に編纂された日本の国情と歴史を記した『海東諸国紀』と云う書籍があります。この本の重要な点は、著作者である李氏朝鮮王朝で領議政(宰相)を務めた申叔舟が、若い時代、世宗二五年(1443)に朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、その業績と知見に対して成宗の命を受けて成宗二年(1471)に刊行されたものですし、使われたであろう資料や調査対象が応仁の乱(1467)で多くの古書籍が焼失する以前のものを下に作成されたということです。つまり、応仁の乱以前の日本で伝えられていた資料や伝承が元となっていることです。
この『海東諸国紀』の記事において、日本の年号についての情報がありますので紹介します。
舒明天皇 敏達孫名田村、元年己丑(629)改元聖徳。六年甲午八月彗星見、七年乙未(635)改元僧要、三月彗星見、二年丙申大旱、六年庚子(640)改元命長。在位十三年寿四十五
皇極天皇 敏達曾孫女舒明納為后、元年壬寅(642)用命長。在位三年
孝徳天皇 皇極同母弟、元年乙巳(645)用命長。三年丁未(647)改元常色、三年己酉(649)初置八省百官及十禅師寺、六年壬子(652)改元白雉。在位十年寿三十九
斉明天皇、皇極復位。元年乙卯(655)用白雉。六年庚申始造漏刻、七年辛酉(661)改元白鳳、遷都近江州。在位七年寿六十八
天智天皇 舒明太子母皇極名葛城、元年壬戍(662)用白鳳。七年戊辰始任太宰師、八年己巳以大職冠為内大臣、賜姓藤原藤姓、始此大職冠、尋死以大友皇子、天智子為大政大臣、皇子任大政大臣、始此初置大納言三人、在位十年
天武天皇 舒明第二子天智同母弟名大海人、元年壬申(672)用白鳳。天智七年、天武為太子天智将禅位、天武辞避出家隠吉野山、天智歿、太友皇子謀簒欲攻吉野、天武将濃張二州兵入京城討之遂、即位二年癸酉初置大中納言、六年丁丑始作詩賦、十一年壬午始作冠、令国中男子皆束髪・女子皆被髪、十二年癸未造車・停銀銭用銅銭、十三年甲申(684)改元朱雀、三年丙戍(686)改元朱鳥、彗星見。在位十五年
持統天皇 天智第二女天武納為后、元年丁亥(687)用朱鳥。七年癸巳定町段中人平歩両足相距為一歩方六十五歩為一段十段為一町、九年乙未(695)改元大和、三年丁酉八月禅位于文武在位十年
文武天皇 天武孫母元明、元年丁酉(697)、明年戊戍(698)改元大長。定律令四年辛丑(701)改元大宝、三年癸卯初置参議・立東西市、四年甲辰(704)慶雲、三年丙午初定封戸・造斗升。在位十一年寿二十五
元明天皇 天智第四女適天武之子草壁太子生文武、元年戊申(708)改元和同。四年辛亥始織錦綾、五年壬子初置出雲州、六年癸丑初置丹後・美作・日向・大隅等州、七年甲寅始定京城条里坊門、八年乙卯(715)改元霊亀、九月禅位于元正。在位八年寿四十八
元正天皇 文武姉元明女名冰高、元年乙卯(715)、三年丁巳(717)改元養老、二年戊午彗星見、四年庚申新羅来伐西鄙、八年甲子二月禅位于聖武。在位十年寿六十九
ここに示しました見慣れない持統天皇の「大和」、文武天皇の「大長」は、『和漢年契』(高安蘆屋、寛政十年:1798)では「持統帝之時大和按不審年数」、「文武帝之時大長按戊戌為元年」とし、日本側資料でも認識されています。また、『和漢年契』では「舒明帝之時、聖聴三年終。一作聖徳。僧安五年終。一作僧要。明長五年終。一作命長、又曰長命。按自三年至五年」と記しますから、『海東諸国紀』と『和漢年契』とが認識する年号「聖徳」、「僧要」、「命長」もまた一致することになります。ところが、孝徳天皇の「大化」については『海東諸国紀』ではなかったとしますが、一方、『和漢年契』では「我邦年号、孝徳帝之時大化為始、見于正史、後世無異議」とし、『日本書紀』の記事を根拠に「大化」を認めます。およそ、『和漢年契』は正史に示されない空白の年号を探るという態度であって、正史に載る年号は無条件に採用するという面が見られます。
追記参考として、正式な上奏文となる齋部廣成の『古語拾遺』(大同二年:807)には「至于難波長柄豊前朝(=斉明天皇)、白鳳四年」と云う一節がありますし、私文書ですが天平宝字四年(760)頃に恵美押勝が整備したとされる『藤氏家伝大織冠伝』や『藤氏家伝貞慧伝』に「白鳳五年秋八月、詔曰、尚道任賢、先王彝則・・」や「故以白鳳五年歳次甲寅(六五四)、随聘唐使、至于長安、住懐徳坊慧日道場・・」と云うものが伝わっています。これらの記述は『海東諸国紀』と一致するところです。およそ、「大化」と云う年号について保留しますと、舒明天皇の「聖徳」から元明天皇までの「和同」までは、ある程度の信頼性のある年号となると思われます。『続日本紀』は正式な正史でしょうし、『古語拾遺』は公式な上奏文でしょう。つまり、「白鳳」を私年号や「白雉」の紛れとするのは無理筋の話題とするのが相当で、まずは定説には程遠い代物ではないでしょうか。
そうしますとそこからの延長において、年号問題における『日本書紀』や『続日本紀』からすると持統天皇や文武天皇の時代には年号の制定は無かったとの従来の比定は間違いで、やはり、『万葉集』が示すように今は伝わらない『日本紀』に載る「朱鳥」と云う年号が正しいということになるようです。逆に『日本書紀』や『続日本紀』は、なぜ、正しい歴史を記さなかったのかと云う問題へ進むべき事項のようです。なお、白村江の戦いがあった年を日本での『日本書紀』と『旧唐書』などの大陸での正史と比べると一年の相違があり、『日本書紀』自体において、天武天皇の崩御の年と持統天皇の称制前紀・持統元年での時系列に一年の問題があります。従いまして、年代研究において海外資料と『日本書紀』や『続日本紀』とを比較する時、国粋主義の時代のように日本のものが絶対的に正しいとは出来ません。
以下に『万葉集』に現れる『日本紀』の「朱鳥」年号の記事を紹介します。
<例一:歌番号34の左注>
日本紀曰、朱鳥四年庚寅(690)秋九月、天皇幸紀伊国也。
<例二:歌番号44の左注>
右日本紀曰、朱鳥六年壬辰(692)春三月丙寅朔戊辰、以浄広肆広瀬王等為留守官。於是中納言三輪朝臣高市麿脱其冠掲上於朝重諌曰農作之前車駕未可以動。辛未、天皇不従諌遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮。
<例三:歌番号50の左注>
右日本紀曰、朱鳥七年癸巳(693)秋八月、幸藤原宮地。八年甲午(694)春正月、幸藤原宮。冬十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮。
<例四:歌番号202の左注>
右一首類聚歌林曰、檜隅女王、怨泣澤神社之歌也。案日本紀曰、十年丙申(696)秋七月辛丑朔庚戌、後尊薨。
<例五:歌番号195の左注>
右或本曰、葬河島皇子越智野之時献泊瀬部天皇皇女歌也。日本紀曰、朱鳥五年辛卯(691)秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子川島薨。
<例六:歌番号416の左注>
右藤原宮朱鳥元年(686)冬十月。
参考に持統天皇の時代、『海東諸国紀』は「九年乙未(695)改元大和」とします。一方、後皇子命と称され太政大臣であった高市皇子の死亡は万葉集の歌番号202の左注、「右一首類聚歌林曰、檜隅女王、怨泣澤神社之歌也。案日本紀曰、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後尊薨」とありますように丙申(696)とされています。先に大陸と日本では正史に一年の相違が認められますから、西暦や大陸暦を基準とした時、「朱鳥」から「大和」への改元は高市皇子の死亡と直接に関係する可能性は否定できなくなります。それに『日本書紀』では持統天皇元年(687)の前に持統即位前紀(686)と云う年を「朱鳥元年」と云う形で設けていますから、本来的には万葉集に載る『日本紀』の朱鳥十年と『日本書紀』と持統天皇統治十年とでは一年の差があるべきことになっています。つまり、高市皇子の死亡は西暦686年の朱鳥元年から数えますと西暦695年に相当する朱鳥十年と云うことになります。
つまり、応仁の乱以前までの日本の古代史と書籍を焼失してしまった応仁の乱以降に再構築された日本の古代史とでは違う歴史があるかもしれないのです。なお、持統即位前紀を考えますと西暦換算の元年が違うはずですが、不思議なことに六十干支では万葉集に載る『日本紀』と『日本書紀』は一致します。まずは、何らかの歴史編纂における作為と意図があるのでしょう。
今回は元明天皇の「和同」までに現れた私年号について遊びました。応仁の乱以前の海外に残る記録や地方に残る記録からしますと、現在に認められた古代史が正しいかどうか、疑問は残るようです。また、近々の『日本書紀』や『続日本紀』への天文記事や表記問題からはそれら正史の編纂に作為の存在が認められたり、その編纂者自体も同時代性に疑惑が認められたりするようです。特に『日本書紀』の巻三十持統天皇紀については、漢文表記方法の特徴、天文記録の恣意性など、疑惑のオンパレードであることは有名です。このような事実をご承知して頂ければ幸いです。今回は、酔論や暴論ではありません。裏付けを持ったものとなっております。
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