万葉雑記 色眼鏡 三〇一 今週のみそひと歌を振り返る その一二一
今週は巻十二の「羈旅發思」に部立される歌々の中で、部の最初に置かれた柿本人麻呂歌集からの歌四首を、再度、鑑賞して遊びます。
羈旅發思
標訓 羈旅に思を発せる
集歌3127 度會 大川邊 若歴木 吾久在者 妹戀鴨
訓読 度会(わたらひ)し大川し辺(へ)し若(わか)歴木(ひさぎ)吾(わ)が久(ひさ)ならば妹恋ひむかも
私訳 度会の大川の岸にある若い櫟。私が無事ならば、あの愛しい人は私に恋をするかな。
集歌3128 吾妹子 夢見来 倭路 度瀬別 手向吾為
訓読 吾妹子し夢し見え来(こ)し大和路(やまとぢ)し渡り瀬ごとに手向(たむけ)けぞ吾(あ)がする
私訳 私の愛しい恋人が夢に出て来いと、大和へ帰る道の川の渡瀬ごとに神にお願いを私はします。
集歌3129 櫻花 開哉散 乃見 誰此所 見散行
訓読 桜花咲(さき)かも散ると見るまでに誰かも此処し見えし散り行く
私訳 この桜の花が咲いて散っていくのを見るのは誰でしょうか。ここに来られて桜の花のように散って逝かれた。
集歌3130 豊洲 聞濱松 心裳 何妹 相云始
訓読 豊国(とよくに)し企救(きく)し浜松心しも何しか妹し相(あひ)云(い)ひ始(し)けむ
私訳 貴女の思い出を聞く、その豊国の企救の浜松。思いを凝らして、さて、どのようにして貴女に言葉を掛けましょうか。
左注 右四首、柿本朝臣人麻呂歌集出。
注訓 右の四首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
最初に集歌3127の三句目「若歴木」は標準訓では「わかひさぎ」とし、「ひさぎ」に「久しい」の音を見出して掛詞と解釈します。新古今和歌集のような鑑賞スタイルからしますと、この標準訓の解釈で十分ですが、柿本人麻呂は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表現された万葉和歌の第一人者ですから、原歌の文字表記からしますと物足りません。当時、歴木は櫟の別表現でしたから、恋愛感情にある男女ですと人麻呂の本拠地となる大和国の檪本と云う地名の暗示を「若歴木」と云う表記から感じたと思います。つまり、檪本の若者=柿本人麻呂たる私と云う意味合いです。音読ですとままに「ひさしい」と云う掛詞であり、墨書された和歌の黙読では檪本と云う地名の暗示です。
当然、集歌3127の歌と集歌3128の歌は二首組歌で、伊勢国渡会郡から大和国(弊ブログの推定では滋賀国大津宮)に住む恋人への贈答歌です。弊ブログに載せる明日香新益京物語(小説で万葉時代を説明する)で私案を紹介するように、柿本人麻呂は壬申の乱では大海人皇子軍に参軍しており、伊勢国渡会あたりで東海道伊勢湾の西側の管理者をしていたと考えています。その時、大津宮に住む恋人に歌を贈ったと考えています。
次いで、集歌3129の歌と集歌3130の歌もまた二首組歌と考えています。萬葉集釋注で伊藤博氏はこれら四首をそれぞれ単独に各地の場所で詠われたもので、編集において恋愛と云う物語に於いて起承転結を構成すると解釈されています。しかしながら、弊ブログでは全く違う立場をとります。先に紹介した集歌3127の歌と集歌3128の歌は天武元年(672)の壬申の乱のときに創られた恋人への贈答歌二首であり、この集歌3129の歌と集歌3130の歌は持統八年(694)の浄広肆で大宰師であった河内王の急死に対する弔問使の立場でその妻である手持女王を慰めるために詠った慰問歌と考えています。
参考として河内王の急死に際し、妻である手持女王が詠った歌として次の三首が残されていますが、ほぼ、柿本人麻呂による代作であろうと考えています。
河内王葬豊前國鏡山之時、手持女王作謌三首
標訓 河内王を豊前國の鏡山に葬(はふ)りし時に、手持女王の作れる歌三首
集歌417 王之 親魄相哉 豊國乃 鏡山乎 宮登定流
訓読 王(おほきみ)し親魄(にきたま)相(あ)ふや豊国(とよくに)の鏡し山を宮とさだむる
私訳 王の親魄をお祀るところに相応しいでしょう。豊国の鏡山を王の常夜の宮と定めましょう。
集歌418 豊國乃 鏡山之 石戸立 隠尓計良思 雖待不来座
訓読 豊国の鏡し山し石戸(いはと)立て隠(こも)りにけらし待てど来(き)まさず
私訳 豊国の鏡山の石戸を閉めてお籠りになってしまった。待っているけれどお出ましになられない。
集歌419 石戸破 手力毛欲得 手弱寸 女有者 為便乃不知苦
訓読 石戸(いはと)破(ぶ)る手力(たぢから)もがも手(た)弱(よわ)き女(をみな)にしあれば術(すべ)の知らなく
私訳 お籠りになった石戸を引き破る手力が欲しい。手力の弱い女であるので石戸を引き破り再び王に逢う方法を知りません。
弊ブログでは明日香新益京物語(小説で万葉時代を説明する)の記事とは別に人麻呂年譜を推理すると云う記事でも人麻呂の人生に対する私案を提示しています。弊ブログで組み立てました柿本人麻呂と云う人物や飛鳥浄御原宮から前期平城京までの時代感覚は標準的な通説などとは大きく違います。そのため、時折、これらの歌の解釈のように標準解釈から大きくずれることが生じます。
今回は歌の解釈の相違の背景を紹介しました。もし、興味があり、お時間があるようでしたら紹介しました明日香新益京物語(小説で万葉時代を説明する)の記事や人麻呂年譜を推理すると云う記事を参照いただければ幸いです。ただ、ともに長いです。
今週は巻十二の「羈旅發思」に部立される歌々の中で、部の最初に置かれた柿本人麻呂歌集からの歌四首を、再度、鑑賞して遊びます。
羈旅發思
標訓 羈旅に思を発せる
集歌3127 度會 大川邊 若歴木 吾久在者 妹戀鴨
訓読 度会(わたらひ)し大川し辺(へ)し若(わか)歴木(ひさぎ)吾(わ)が久(ひさ)ならば妹恋ひむかも
私訳 度会の大川の岸にある若い櫟。私が無事ならば、あの愛しい人は私に恋をするかな。
集歌3128 吾妹子 夢見来 倭路 度瀬別 手向吾為
訓読 吾妹子し夢し見え来(こ)し大和路(やまとぢ)し渡り瀬ごとに手向(たむけ)けぞ吾(あ)がする
私訳 私の愛しい恋人が夢に出て来いと、大和へ帰る道の川の渡瀬ごとに神にお願いを私はします。
集歌3129 櫻花 開哉散 乃見 誰此所 見散行
訓読 桜花咲(さき)かも散ると見るまでに誰かも此処し見えし散り行く
私訳 この桜の花が咲いて散っていくのを見るのは誰でしょうか。ここに来られて桜の花のように散って逝かれた。
集歌3130 豊洲 聞濱松 心裳 何妹 相云始
訓読 豊国(とよくに)し企救(きく)し浜松心しも何しか妹し相(あひ)云(い)ひ始(し)けむ
私訳 貴女の思い出を聞く、その豊国の企救の浜松。思いを凝らして、さて、どのようにして貴女に言葉を掛けましょうか。
左注 右四首、柿本朝臣人麻呂歌集出。
注訓 右の四首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
最初に集歌3127の三句目「若歴木」は標準訓では「わかひさぎ」とし、「ひさぎ」に「久しい」の音を見出して掛詞と解釈します。新古今和歌集のような鑑賞スタイルからしますと、この標準訓の解釈で十分ですが、柿本人麻呂は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表現された万葉和歌の第一人者ですから、原歌の文字表記からしますと物足りません。当時、歴木は櫟の別表現でしたから、恋愛感情にある男女ですと人麻呂の本拠地となる大和国の檪本と云う地名の暗示を「若歴木」と云う表記から感じたと思います。つまり、檪本の若者=柿本人麻呂たる私と云う意味合いです。音読ですとままに「ひさしい」と云う掛詞であり、墨書された和歌の黙読では檪本と云う地名の暗示です。
当然、集歌3127の歌と集歌3128の歌は二首組歌で、伊勢国渡会郡から大和国(弊ブログの推定では滋賀国大津宮)に住む恋人への贈答歌です。弊ブログに載せる明日香新益京物語(小説で万葉時代を説明する)で私案を紹介するように、柿本人麻呂は壬申の乱では大海人皇子軍に参軍しており、伊勢国渡会あたりで東海道伊勢湾の西側の管理者をしていたと考えています。その時、大津宮に住む恋人に歌を贈ったと考えています。
次いで、集歌3129の歌と集歌3130の歌もまた二首組歌と考えています。萬葉集釋注で伊藤博氏はこれら四首をそれぞれ単独に各地の場所で詠われたもので、編集において恋愛と云う物語に於いて起承転結を構成すると解釈されています。しかしながら、弊ブログでは全く違う立場をとります。先に紹介した集歌3127の歌と集歌3128の歌は天武元年(672)の壬申の乱のときに創られた恋人への贈答歌二首であり、この集歌3129の歌と集歌3130の歌は持統八年(694)の浄広肆で大宰師であった河内王の急死に対する弔問使の立場でその妻である手持女王を慰めるために詠った慰問歌と考えています。
参考として河内王の急死に際し、妻である手持女王が詠った歌として次の三首が残されていますが、ほぼ、柿本人麻呂による代作であろうと考えています。
河内王葬豊前國鏡山之時、手持女王作謌三首
標訓 河内王を豊前國の鏡山に葬(はふ)りし時に、手持女王の作れる歌三首
集歌417 王之 親魄相哉 豊國乃 鏡山乎 宮登定流
訓読 王(おほきみ)し親魄(にきたま)相(あ)ふや豊国(とよくに)の鏡し山を宮とさだむる
私訳 王の親魄をお祀るところに相応しいでしょう。豊国の鏡山を王の常夜の宮と定めましょう。
集歌418 豊國乃 鏡山之 石戸立 隠尓計良思 雖待不来座
訓読 豊国の鏡し山し石戸(いはと)立て隠(こも)りにけらし待てど来(き)まさず
私訳 豊国の鏡山の石戸を閉めてお籠りになってしまった。待っているけれどお出ましになられない。
集歌419 石戸破 手力毛欲得 手弱寸 女有者 為便乃不知苦
訓読 石戸(いはと)破(ぶ)る手力(たぢから)もがも手(た)弱(よわ)き女(をみな)にしあれば術(すべ)の知らなく
私訳 お籠りになった石戸を引き破る手力が欲しい。手力の弱い女であるので石戸を引き破り再び王に逢う方法を知りません。
弊ブログでは明日香新益京物語(小説で万葉時代を説明する)の記事とは別に人麻呂年譜を推理すると云う記事でも人麻呂の人生に対する私案を提示しています。弊ブログで組み立てました柿本人麻呂と云う人物や飛鳥浄御原宮から前期平城京までの時代感覚は標準的な通説などとは大きく違います。そのため、時折、これらの歌の解釈のように標準解釈から大きくずれることが生じます。
今回は歌の解釈の相違の背景を紹介しました。もし、興味があり、お時間があるようでしたら紹介しました明日香新益京物語(小説で万葉時代を説明する)の記事や人麻呂年譜を推理すると云う記事を参照いただければ幸いです。ただ、ともに長いです。
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