万葉雑記 色眼鏡 丗四 難訓歌を鑑賞する
今回もまた、新たなテーマが見つからず、以前に紹介したもののリメーク版になっています。毎回、毎回、申し訳ありません。多少、言い訳をしますと、前回よりは「少しはまし」になっています。
さて、今回、『万葉集』の中で、その歌の読み方が良く分からないとされる、所謂、難訓歌を紹介します。その難訓歌についてですが、以前に紹介しましたように、使われている漢字の読みが判らなくて本質的に読めない歌と、使われる漢字自体は読めるのですが、その読み方をした場合に歌として落ち着きが悪い歌との、おおまかに二種類に分かれます。
なお、ここのブログに、度々、お立ち寄りの方はご存じと思いますが、現在の訓読み万葉集の歌の中には、その歌を読むために西本願寺本万葉集の原文の歌を校訂して原文の漢字を変えた歌が、相当数、あります。本質的には、伝わる万葉集原文の歌が読めなかったと云う点では、そのような「誤記説からの換字」や「校訂と云う操作で原文歌を変えたもの」は難訓歌の分類に含まれるはずです。ただ、その場合、そのような歌は百首は下りませんから、それを一々、取り上げるのは大変です。そこで、今回は校本万葉集の中でも(逆に云えば、換字や校訂の作業を行っても、それでも読めないと云う歌)有名な難訓歌を扱うことにします。なお、これらの歌には有名歌人のものや伝わるすべての古書での表記が一致し、誤記説や校訂と云う改変作業が出来ない歌が含まれています。
最初に歌の解釈において落ち着きが悪い歌の代表を二首ほど、紹介します。参考として、この二首は誤記説や校訂という作業での改変をすることが出来ない歌です。
集歌48 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
訓読 東(ひむがし)し野(の)し炎(かぎろひ)し立つそ見にかへり見すれば月西渡る
私訳 夜通し昔の出来事を思い出していて、ふと、東の野に朝焼けの光が雲間から立つのが見えて、振り返って見ると昨夜を一夜中に照らした月が西に渡って沈み逝く。
集歌2556 玉垂之 小簀之垂簾乎 徃褐 寐者不眠友 君者通速為
訓読 玉垂し小簾(をす)し垂簾(たれす)を行き褐(かち)む寝(い)は寝(な)さずとも君は通はせ
私訳 美しく垂らすかわいい簾の内がだんだん暗くなります。私を抱くために床で安眠することが出来なくても、貴方は私の許に通って来てください。
紹介した二首は、度々、このブログで紹介していますが、難訓とされるのは集歌48の歌では「野炎」の句であり、集歌2556の歌では「徃褐」の句です。訳文において落ち着きが悪いとされる歌の多くが、平安末期から鎌倉時代に付けられた新点(藤原定家好み)の訓みの扱いに起因します。訓みにおいて藤原定家好みを絶対視しなければ、この手の難訓歌のほとんどが難訓では無くなります。ですが、これらの難訓歌はお手軽で研究論文としては扱い易いテーマですので、現在でもまだ難訓歌として扱ってあげるのが良いようです。
ただし、対象となる文字や言葉について、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』など原文に対してコンピューターを使って全文検索を行わない方が古典文学の研究者を目指すなら無難です。それを行いますと、難訓では無くなるものが増えますし、伝わるこの種の難訓歌とされる歌に対する難訓の根拠自体が無くなるものも出て来ます。つまり、静かな水面に大きな石を投げ入れるようなことになります。
参考として、今までに何度も説明しましたが、「野炎」の「炎」の文字に対する「けぶり」の古訓は「単なる誰かの好みだけ」であって、コンピューターを使って古典作品の全文検索を行った時、「ほむら」や「かげろひ」の訓みは他の『万葉集』の歌や『古事記』の記事などにもありますので、真面目に取り組めば論文にはなりません。難訓研究と云うよりも「時代と語感変化の研究」と云うものになります。
その集歌48の歌を例としますと、藤原定家好みでは「いさな取る」と云う言葉は「恐ろしい響きの言葉」ですから、「東」や「野炎」の訓み問題は難訓歌というよりも「あずま」と「ひむがし」、「けぶり」と「かげろひ」、これらの言葉の響きに対する好みの研究となります。集歌2556の歌では「徃褐」の句に対する「いきかちに」と「いきかちむ」との言葉の響きの好みが問題となります。
和歌の鑑賞において、万葉集の時代は一つの歌の中に漢字表記歌と詠歌における歌の多重性を、古今和歌集では一字一音表記のときの掛詞の下での同音異義語からの歌の多重性を追求した世界です。そして、新古今では本歌取り技法に代表される先行する歌の歴史を知る暗記力と詠歌での調べの美しさを求めた世界です。それぞれの鑑賞態度が違う時、違う世界から眺めれば、歌の表現やその言葉の発声に違和感が生じるのは仕方がないことと考えます。問題の本質を見定めて定義を行うと、難訓歌と云う言葉自体が、結構、曖昧模糊とした世界であることが予定されます。
一応、集歌48の歌のようなものでも難訓歌と称すると万葉集歌の部分的な研究となりますし、先人研究の読書感想文のようなものでも収まります。しかし、それを「時代と語感変化の研究」としますと古典通期の問題となり本格的に通期に渡る古典文学と言語学を研究する必要が生じます。ですから、難訓歌です。ただ、不思議ですが、本歌取り技法に代表される『新古今和歌集』の鑑賞で「時代と語感変化の研究」を伴わないで、『古今和歌集』と『新古今和歌集』との比較研究を行うことは可能なのでしょうか。『古今和歌集』において伝紀貫之の奏覧本と藤原定家の流布本とでは歌が違うものがあるのは有名な話です。
次に紹介する歌は、使われている漢字の読みが判らなくて、本質的に読めない歌に分類される歌です。これらが本質的な難訓歌とされている歌です。
その最初に額田王が詠う集歌9の歌を紹介します。この歌は「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」が難訓とされています。ただ、前提条件として、歌は斉明天皇の紀伊国牟婁郡(熊野地方)への御幸の時に詠われた歌ですから、御幸とその行き先である紀伊国牟婁郡方面にゆかりがある歌として解釈をしなければいけないと云う制約があります。逆にその制約から歌を想像することが可能となります。私訳では古事記に載る神武天皇に故事を取り、鑑賞をしています。そして、歌は使われる文字数から想像して、その使われる多くの文字は音字であろうとの見当を付けて訓んでいます。
幸于紀温泉之時、額田王作謌
標訓 紀温泉(きのゆ)に幸(いでま)しし時に、額田王の作れる歌
集歌9 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 染(そ)まりなし御備(おそな)え副(そ)えき吾(あ)が背子し致(いた)ちししけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
私訳 一点の穢れなき純白の絹の布を奉幣に副えました。吾らがお慕いする君が、梓弓が立てる音の中、その奉幣をいたしました。大和の橿原宮の元宮であります、この熊野速玉大社を建てられた大王(=神武天皇)よ。
ここで初句の「莫囂圓隣之」は「莫+(言葉)+之」と考え「囂圓隣」はそのままに音字とし、また二句目の「大相七兄爪謁氣」は七文字ともに音字と解釈しています。三、四、五句目は伝統の訓みをそのままに採用しました。鑑賞としては、斉明天皇が紀伊国への御幸の目的地である神武天皇ゆかりの熊野速玉大社で純白の帛の巻物を奉納し、奉幣を奉げる様子を想像しています。時代性として、純白な帛の布は相当な高価で神聖なものであったと考えています。また、伝存する聖武天皇の御装束は純白の帛の衣だそうです。そして、イメージとしては四方盆に純白の帛三疋を俵積に載せた形です。なお、「御備ふ(おそなふ)」なる言葉が飛鳥時代に使われていたか、どうかは、確認をしていませんが、「御座す(おます)」なる言葉は使われていたようなので、天皇の行為に対する言葉として可能性はあると考えます。
次にこの集歌67の歌もなぜか難訓の部類に入るようです。古来、難訓とされるのは二句目と三句目となる「物戀尓鳴毛」の表現のところです。理由として「鳴」の字を「さえずる」と読めなかったことに由来するようです。そのため、難訓を解消するために、原文の「物戀尓鳴毛」は、一般には想像した読み方から「物戀之伎尓 鶴之鳴毛」と創作改変し「物恋しきに鶴(たづ)が鳴(ね)も」と訓むようになりました。そのために歌の歌意が大幅に変わりましたが、藤原定家風好みで歌詠は美しくなります。
集歌67 旅尓之而 物戀尓 鳴毛 不所聞有世者 孤悲而死萬思
訓読 旅にしにもの恋しさに鳴(さえづる)も聞こえずありせば恋ひに死なまし
私訳 逢いたくても逢えないこの旅の道中だからこそ貴女への想いが募り、そのために、このように鳥が啼きさえずる声も耳に入らないようでは、きっと、私は貴女への想いで死んでしまうでしょう。
右一首高安大嶋
注訓 右の一首は、高安大嶋。
参考として現在の解釈での歌
訓読 旅にしてもの恋しきにたづが音も聞こえずありせば恋ひて死なまし
訳文 旅先にあって、もの恋しいのに鶴の声さえも、聞こえなかったら、家(=家に残して来た妻)恋しさのあまり死んでしまうだろう。
この集歌67の歌の「鳴毛」が読めなくて「鶴之鳴毛」と創作改変したように、次に示す車持朝臣千年が詠う集歌915の歌も三句目の「音成」を「川音成(表記では『〃音成』となります)」と創作改変して鑑賞します。「〃音成」の時、「川音(かはおと)なす」と訓みます。もし、集歌67の歌が難訓歌であるならば、同じ理由で集歌915の歌も難訓歌としていいのですが、さすがに恥ずかしいのか、そこまではしないようです。
或本反謌曰
標訓 或る本の反謌に曰はく
集歌915 千鳥鳴 三吉野川之 音成 止時梨二所 思君
訓読 千鳥鳴くみ吉野川し音(おと)成(な)りし止(や)む時無しにそ思ほゆる君
私訳 多くの鳥が鳴く美しい吉野川のその轟きが止む時がきっとないように常に慕っている貴方です。
さて、集歌156の歌は確かに難訓です。先の歌々については、先人の研究や漢字の訓を調べることで想像がつきますが、この歌の「神之神須疑已具耳矣自得見監乍」は手強いです。
歌は、十市皇女が急死された時、高市皇子が親族代表として挽歌を奉げています。場所は飛鳥鳥見山の赤穂で、三輪山を望む所です。さて、古代、神を祀る時、三つの甕を据え、口噛みの酒を供えるのが礼儀です。それが三瓶や三諸などの地名や言葉に残っています。そして、三輪山の神は口噛みの美味し御酒の神でもあります。きっと、これが歌を鑑賞する時のヒントになるのでしょう。また、古代、まだ若い女性が亡くなられた時、明日香皇女の挽歌でも詠われるように、子を産む女性=性交渉の対象となる成熟した女性であったと詠うのが相手への褒め言葉としての礼儀であったと考えられます。挽歌ではありますが、このような前提条件で歌を鑑賞するのが良いようです。
十市皇女薨時高市皇子尊御作謌三首
標訓 十市皇女の薨(みまか)りし時に高市皇子尊の御(かた)りて作(つく)らしし謌三首
集歌156 三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍 共不寝夜叙多
試訓 三(み)つ諸(もろ)し神し神杉(かむすぎ)過(す)ぐのみを蔀(しとみ)し見つつ共(とも)寝(ね)ぬ夜(よ)そ多(まね)
試訳 三つの甕を据えると云う三諸の三輪山、その神への口噛みの酒を据える、神山の神杉、その言葉の響きではないが、貴女が過ぎ去ってしまったのを貴女の部屋の蔀の動きを見守りながら、その貴女が恋人と共寝をしない夜が多いことです。
解釈を想像する時、「神之神須疑已具耳矣自得見監乍共不寝夜叙多」の表記の中で、比較的に句切れに使われる文字を見つけ出すことにあります。そうすると「矣」や「乍」の文字が句末の文字に使われるものであろうとの見当が付けられます。後は和歌の語調に合わせての訓みだけとなります。つまり、
三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍 共不寝夜叙多
の句切れに合わせての解釈です。その結果が先に示した試訓と試訳です。なお、「巳」の発音は現在の中国では「si」、「se」、「su」、「chi」などと発音するようです。そこで可能性として飛鳥時代に現在の南中国方面の発音である「su」の発声はあったのではないかと想像しています。そうすると、飛鳥時代の作歌の特徴である、音の尻取りの技法が見えて来ます。また、体言止めの作歌スタイルもまた、漢詩体和歌のようなものとして当時の流行りではないでしょうか。解釈を示すと、「なんだ、それだけか」の世界です。結果、本格的な難訓にはならずに申し訳ありません。
このような歌の解釈が成り立つとしますと、面白い想像が出来ます。参考に次の人麻呂の詠う「泣血哀慟作歌二首」の内の異伝とされる挽歌を見てください。
集歌216 家来而 吾屋乎見者 玉床之 外向来 妹木枕
訓読 家(いへ)し来に吾が屋(へ)を見れば玉(たま)床(とこ)し外(よそ)に向きけり妹し木(こ)枕(まくら)
私訳 家に戻ってきて私の家の中を見ると貴女と寝た美しい夜の床でいつもは並んでいるはずの枕が、外の方向を向いている貴女の木枕が。
集歌156の歌では十市皇女の再び帰って来ることの無い不在を部屋の蔀の開閉で表現しています。一方、集歌216の歌では妻の永遠の不在を木枕の様子で表現しています。ここには人の状態を物で代表して婉曲に表現をすると云う手法が使われています。歌は人の死を詠っていません。しかし、葬儀の時の歌であると聞けば、歌の中にその人物が亡くなったと云うことが強く感じられます。非常に高度な作歌技法と思います。作歌順からすると、その技法を人麻呂は集歌156の歌から学んだかもしれません。
万葉集巻十六の最後に載る「怕物謌三首」と云う標題を持つ歌三首があります。この内、二首が少し有名な難訓歌です。それも読めない方です。
集歌3888 奥國 領君之 染屋形 黄染乃屋形 神之門涙
訓読 奥(おき)つ国(くに)領(うる)はく君し染め屋形(やかた)黄染(にそめ)の屋形(やかた)神し門(と)涙(なか)る
私訳 死者の国を頂戴した者が乗る染め布の屋形、赤黄色に染めた布の屋形、神の国への門が開くのに涙が流れる。
集歌3888の歌の「染屋形」や「黄染乃屋形」の屋形とは人が乗る箱のことを意味します。普通は牛車の人の乗る部分を示しますが、ここでは棺のことを意味します。つまり、染屋形とは棺に布を掛けた状態です。この集歌3888の歌は「怕物謌三首」と云う標題の下に集められた歌です。そうしたとき、では、何が怖いのかと云うと、この歌では「死」の怖さを詠っています。なお、歌の言葉「黄染」は濃い赤黄諸色の紅花染めの布である可能性が高いと思います。紅花は古墳時代から死者に手向ける花であったようです。
集歌3889 人魂乃 佐青有君之 但獨 相有之雨夜 葉非左思所念
訓読 人魂(ひとたま)のさ青(を)なる君しただ独り逢へりし雨夜(あまよ)枝(え)し左思そ念(も)ふ
私訳 人の心を持つと云う青面金剛童子像を、私がただ独りで寺に拝んだ雨の夜。左思が「鬱鬱」と詠いだす「詠史」の一節を思い浮かべます。
この集歌3889の歌は相当な難訓歌なのですが、なぜか、難訓歌の中でも有名ではありません。標題で恐い歌とのジャンルを与えられていますから、歌は恐くなければいけません。この条件で「さあ、この歌を訓んでみろ」と云われると、専門家でもこの歌はなかったものにしたいようです。
さて、歌の初句と二句目となる「人魂乃佐青有君」は、奈良時代中期に到来した四天王寺庚申堂の青面金剛童子の洒落です。「葉非」も枝は葉に非ずの洒落で、この「枝」と「左思」から「鬱鬱潤底松」で始まる漢詩「詠史」を暗示します。また、奈良時代中期以降に流行した青面金剛童子は疫病に苦しむ人々を救済するためにこの世に現れたとされています。
歌の世界は、雨降る真夜中に一人、わずかに明かりのあるお寺の本堂で仏像とにらめっこしている風景を想像してください。ときおり、どこからするのか判らない物音や鳴き声が聞こえ、時に蝙蝠が飛ぶかもしれません。葬式で棺桶の中の死人とにらめっこをするのと、真夜中のお寺の本堂でのにらめっこと、さて、どちらの方が恐いのでしょうか。二首の歌はそれぞれ物理的な恐さ、精神的な恐さを詠う歌です。種を明かして貰えば、「ふん、なんだ、それだけか」の世界です。難訓歌とは、そのようなものと思うと、難訓歌、難訓歌と騒ぐようなものではないのかもしれません。それに、『万葉集』の成立を研究する人は、時に、『万葉集』は、最初に本体となる歌集、次にそれに附けられた標題と左注、最後に目次となる各巻の目録が、別々に付けられて完成したと考えます。つまり、本体となる歌集の編纂の後に標題を付けた人々は本体となる歌集全てを理解していましたから、奈良時代末期から平安時代中期までは、確実に『万葉集』に難訓歌なるものは存在していないことになります。
もうちょっと。
以下に載せる五首の歌々は難訓歌の紹介では良く紹介される歌です。これらは、使われる漢字自体は読めるのですが、その読み方をした場合、歌として落ち着きが悪いと云う歌です。そのため、難訓歌と云う範疇よりも、鑑賞者のその鑑賞深度と解釈の問題なのかもしれません。
伝統における難訓の部分は集歌160の歌では「面智男雲」、集歌249の歌の「舟公宣」、集歌655の歌の「邑礼左變」、集歌1205の「漸々志夫乎」、集歌2033の歌の「神競者磨待無」の句と云うことになっています。
天皇(すめろぎの)崩(かむあが)りましし時の太上天皇の御(かた)りて製(つく)らしし歌二首より一首
集歌160 燃火物 取而裹而 福路庭 入澄不言八 面智男雲
訓読 燃ゆる火も取りに包みに袋には入(い)ると言はずやも面(をも)智(し)る男雲(をくも)
私訳 あの燃え盛る火とて取って包んで袋に入れると云うではないか。御姿を知っているものを。雲よ。
集歌160の歌については、『竹取物語』との関係で、度々、紹介させていただきました。歌の世界は観月の宴で、『竹取物語』の「火鼠の皮衣」と「耀姫昇天」との場面を想定して、月の輝きを詠ったものです。
柿本朝臣人麿の羈旅(たび)の歌八首より一首
集歌249 三津埼 浪牟恐 隠江乃 舟公宣 奴嶋尓
訓読 御津し崎波を恐み隠り江の舟公(ふなきみ)し宣(の)る奴(ぬ)し島(しま)へに
私訳 住江の御津の崎よ。沖の波を尊重して隠もる入江で船頭が宣言する。奴の島へと。
この集歌249の歌は歌の句に対する語感をどのように評価をするのかが重要です。まず、藤原定家好みではなかったのではないでしょうか。それで、語調の良い「舟なる公(きみ)は奴嶋(ぬしま)へと宣(の)る」の訓みを求めたと思われます。ただ、この語調優先のスタイルですと最後の「尓」の文字の落ち着きが悪くなります。それで難訓歌なのでしょう。一度、改変をしますと、次からは色々と提案が出て来ます。
集歌655 不念乎 思常云者 天地之 神祇毛知寒 邑礼左變
訓読 念(おも)はぬを思ふと云はば天地し神祇(かみ)も知るさむ邑(さと)し礼(いや)さへ
私訳 愛してもいないのに慕っていると云うと、天地の神々にもばれるでしょう。愛していると云うのが里の習いとしても。
集歌655の歌もまた言葉の語感が藤原定家たちには受け入れられなかったと思われます。歌の語句も訓め、解釈が出来ても、詠いでの発声が気に食わなかったのではないでしょうか。そのため、四句目、五句目の「神祇毛知寒邑礼左變」を「かみもしらさん あれもとがめん」などと原文の文字に囚われずに歌を詠んだものと思われます。この原文の漢字に囚われないルール下、今日、多くの提案が行われています。
集歌1205 奥津梶 漸々志夫乎 欲見 吾為里乃 隠久惜毛
訓読 沖つ梶(かぢ)漸々(やくやく)強(し)ふを見まく欲(ほ)り吾がする里の隠(かく)らく惜しも
私訳 沖に向かう船の梶をようやくに流れに逆らい操る様子を見たいと思う。しかし、一方で、私が眺めたいと思う村里が浪間に隠れていくのが残念なことです。
この集歌1205の歌もまた、集歌655の歌と同じように、歌の語句も訓め、解釈が出来ても、言葉の語感が藤原定家たちには受け入れられなかったと思われます。なお、この「漸々志夫乎」を「やくやくしふを」と訓む時、その意味は何かが難しいところです。別に「ややややしぶを」と云う訓みあるようです。
集歌2033 天漢 安川原 定而 神競者 磨待無
訓読 天つ川八湍(やす)し川原し定まりに神(かみ)し競(きそ)はば磨(まろ)し待たなく
私訳 天の八湍の川原で約束をして天照大御神と建速須佐之男命とが大切な誓約(うけひ)をされていると、それが終わるまで天の川を渡って棚機女(たなはたつめ)に逢いに行くのを待たなくてはいけませんが、年に一度、二人が出会う今宵、その出会いの場面をこの私(=人麿)は待つことが出来ません。
この集歌2033の歌は天武九年(780)に宮中で開かれた七夕の宴で柿本人麻呂が披露した歌です。歌の世界には「安川原」の言葉がありますから、人麻呂は大空に輝く「天漢=天の川」を『古事記』に載る神話で神々が集う 「安川原=八湍の川原」と見立てています。その時、歌の世界には二組の男女が居ることに気が付き必要があります。大和言葉の「安川原」からは天照大御神と建速須佐之男命を、中国語の「天漢」からは牽牛と織姫とが見えて来ます。およそ、この歌もまた、難訓歌と云うより、鑑賞深度と解釈の問題に集約されるものではないでしょうか。再度、種を明かして貰えば、「ふん、なんだ、それだけか」の世界です。
最後に、手前味噌ではありますが、このブログでは難訓歌は一首もありません。すべてに訓みをつけ、さらに鑑賞に堪える意訳を添えています。素人の冒険ですが、一方、それが自慢でもあります。
ご存知のように、現在の訓読み万葉集のその訓みは平安末期から鎌倉時代に付けられた新点の訓みを尊重し、その発展形となっています。そのため、訓みの議論では、時に、新点や古点の訓みを引用して議論をします。ただ、難訓歌ではそのような読書感想文的なスタイルは取れません。やはり、『万葉集』の鑑賞の原点に立ち戻り、歌が詠われた環境、目的、使われる漢字から、歌の世界を想像し、そこから言葉を探し、楽しむ必要があります。その時、ここで紹介したように、難訓歌と云うものは無くなります。
(読書感想文的なスタイルとは、新たな仮説提案とその論理展開下での一定量以下の論文引用ではなく、仮説提案もなく、ただ、引用を主体とするものを示します)
今回もまた、新たなテーマが見つからず、以前に紹介したもののリメーク版になっています。毎回、毎回、申し訳ありません。多少、言い訳をしますと、前回よりは「少しはまし」になっています。
さて、今回、『万葉集』の中で、その歌の読み方が良く分からないとされる、所謂、難訓歌を紹介します。その難訓歌についてですが、以前に紹介しましたように、使われている漢字の読みが判らなくて本質的に読めない歌と、使われる漢字自体は読めるのですが、その読み方をした場合に歌として落ち着きが悪い歌との、おおまかに二種類に分かれます。
なお、ここのブログに、度々、お立ち寄りの方はご存じと思いますが、現在の訓読み万葉集の歌の中には、その歌を読むために西本願寺本万葉集の原文の歌を校訂して原文の漢字を変えた歌が、相当数、あります。本質的には、伝わる万葉集原文の歌が読めなかったと云う点では、そのような「誤記説からの換字」や「校訂と云う操作で原文歌を変えたもの」は難訓歌の分類に含まれるはずです。ただ、その場合、そのような歌は百首は下りませんから、それを一々、取り上げるのは大変です。そこで、今回は校本万葉集の中でも(逆に云えば、換字や校訂の作業を行っても、それでも読めないと云う歌)有名な難訓歌を扱うことにします。なお、これらの歌には有名歌人のものや伝わるすべての古書での表記が一致し、誤記説や校訂と云う改変作業が出来ない歌が含まれています。
最初に歌の解釈において落ち着きが悪い歌の代表を二首ほど、紹介します。参考として、この二首は誤記説や校訂という作業での改変をすることが出来ない歌です。
集歌48 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
訓読 東(ひむがし)し野(の)し炎(かぎろひ)し立つそ見にかへり見すれば月西渡る
私訳 夜通し昔の出来事を思い出していて、ふと、東の野に朝焼けの光が雲間から立つのが見えて、振り返って見ると昨夜を一夜中に照らした月が西に渡って沈み逝く。
集歌2556 玉垂之 小簀之垂簾乎 徃褐 寐者不眠友 君者通速為
訓読 玉垂し小簾(をす)し垂簾(たれす)を行き褐(かち)む寝(い)は寝(な)さずとも君は通はせ
私訳 美しく垂らすかわいい簾の内がだんだん暗くなります。私を抱くために床で安眠することが出来なくても、貴方は私の許に通って来てください。
紹介した二首は、度々、このブログで紹介していますが、難訓とされるのは集歌48の歌では「野炎」の句であり、集歌2556の歌では「徃褐」の句です。訳文において落ち着きが悪いとされる歌の多くが、平安末期から鎌倉時代に付けられた新点(藤原定家好み)の訓みの扱いに起因します。訓みにおいて藤原定家好みを絶対視しなければ、この手の難訓歌のほとんどが難訓では無くなります。ですが、これらの難訓歌はお手軽で研究論文としては扱い易いテーマですので、現在でもまだ難訓歌として扱ってあげるのが良いようです。
ただし、対象となる文字や言葉について、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』など原文に対してコンピューターを使って全文検索を行わない方が古典文学の研究者を目指すなら無難です。それを行いますと、難訓では無くなるものが増えますし、伝わるこの種の難訓歌とされる歌に対する難訓の根拠自体が無くなるものも出て来ます。つまり、静かな水面に大きな石を投げ入れるようなことになります。
参考として、今までに何度も説明しましたが、「野炎」の「炎」の文字に対する「けぶり」の古訓は「単なる誰かの好みだけ」であって、コンピューターを使って古典作品の全文検索を行った時、「ほむら」や「かげろひ」の訓みは他の『万葉集』の歌や『古事記』の記事などにもありますので、真面目に取り組めば論文にはなりません。難訓研究と云うよりも「時代と語感変化の研究」と云うものになります。
その集歌48の歌を例としますと、藤原定家好みでは「いさな取る」と云う言葉は「恐ろしい響きの言葉」ですから、「東」や「野炎」の訓み問題は難訓歌というよりも「あずま」と「ひむがし」、「けぶり」と「かげろひ」、これらの言葉の響きに対する好みの研究となります。集歌2556の歌では「徃褐」の句に対する「いきかちに」と「いきかちむ」との言葉の響きの好みが問題となります。
和歌の鑑賞において、万葉集の時代は一つの歌の中に漢字表記歌と詠歌における歌の多重性を、古今和歌集では一字一音表記のときの掛詞の下での同音異義語からの歌の多重性を追求した世界です。そして、新古今では本歌取り技法に代表される先行する歌の歴史を知る暗記力と詠歌での調べの美しさを求めた世界です。それぞれの鑑賞態度が違う時、違う世界から眺めれば、歌の表現やその言葉の発声に違和感が生じるのは仕方がないことと考えます。問題の本質を見定めて定義を行うと、難訓歌と云う言葉自体が、結構、曖昧模糊とした世界であることが予定されます。
一応、集歌48の歌のようなものでも難訓歌と称すると万葉集歌の部分的な研究となりますし、先人研究の読書感想文のようなものでも収まります。しかし、それを「時代と語感変化の研究」としますと古典通期の問題となり本格的に通期に渡る古典文学と言語学を研究する必要が生じます。ですから、難訓歌です。ただ、不思議ですが、本歌取り技法に代表される『新古今和歌集』の鑑賞で「時代と語感変化の研究」を伴わないで、『古今和歌集』と『新古今和歌集』との比較研究を行うことは可能なのでしょうか。『古今和歌集』において伝紀貫之の奏覧本と藤原定家の流布本とでは歌が違うものがあるのは有名な話です。
次に紹介する歌は、使われている漢字の読みが判らなくて、本質的に読めない歌に分類される歌です。これらが本質的な難訓歌とされている歌です。
その最初に額田王が詠う集歌9の歌を紹介します。この歌は「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」が難訓とされています。ただ、前提条件として、歌は斉明天皇の紀伊国牟婁郡(熊野地方)への御幸の時に詠われた歌ですから、御幸とその行き先である紀伊国牟婁郡方面にゆかりがある歌として解釈をしなければいけないと云う制約があります。逆にその制約から歌を想像することが可能となります。私訳では古事記に載る神武天皇に故事を取り、鑑賞をしています。そして、歌は使われる文字数から想像して、その使われる多くの文字は音字であろうとの見当を付けて訓んでいます。
幸于紀温泉之時、額田王作謌
標訓 紀温泉(きのゆ)に幸(いでま)しし時に、額田王の作れる歌
集歌9 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 染(そ)まりなし御備(おそな)え副(そ)えき吾(あ)が背子し致(いた)ちししけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
私訳 一点の穢れなき純白の絹の布を奉幣に副えました。吾らがお慕いする君が、梓弓が立てる音の中、その奉幣をいたしました。大和の橿原宮の元宮であります、この熊野速玉大社を建てられた大王(=神武天皇)よ。
ここで初句の「莫囂圓隣之」は「莫+(言葉)+之」と考え「囂圓隣」はそのままに音字とし、また二句目の「大相七兄爪謁氣」は七文字ともに音字と解釈しています。三、四、五句目は伝統の訓みをそのままに採用しました。鑑賞としては、斉明天皇が紀伊国への御幸の目的地である神武天皇ゆかりの熊野速玉大社で純白の帛の巻物を奉納し、奉幣を奉げる様子を想像しています。時代性として、純白な帛の布は相当な高価で神聖なものであったと考えています。また、伝存する聖武天皇の御装束は純白の帛の衣だそうです。そして、イメージとしては四方盆に純白の帛三疋を俵積に載せた形です。なお、「御備ふ(おそなふ)」なる言葉が飛鳥時代に使われていたか、どうかは、確認をしていませんが、「御座す(おます)」なる言葉は使われていたようなので、天皇の行為に対する言葉として可能性はあると考えます。
次にこの集歌67の歌もなぜか難訓の部類に入るようです。古来、難訓とされるのは二句目と三句目となる「物戀尓鳴毛」の表現のところです。理由として「鳴」の字を「さえずる」と読めなかったことに由来するようです。そのため、難訓を解消するために、原文の「物戀尓鳴毛」は、一般には想像した読み方から「物戀之伎尓 鶴之鳴毛」と創作改変し「物恋しきに鶴(たづ)が鳴(ね)も」と訓むようになりました。そのために歌の歌意が大幅に変わりましたが、藤原定家風好みで歌詠は美しくなります。
集歌67 旅尓之而 物戀尓 鳴毛 不所聞有世者 孤悲而死萬思
訓読 旅にしにもの恋しさに鳴(さえづる)も聞こえずありせば恋ひに死なまし
私訳 逢いたくても逢えないこの旅の道中だからこそ貴女への想いが募り、そのために、このように鳥が啼きさえずる声も耳に入らないようでは、きっと、私は貴女への想いで死んでしまうでしょう。
右一首高安大嶋
注訓 右の一首は、高安大嶋。
参考として現在の解釈での歌
訓読 旅にしてもの恋しきにたづが音も聞こえずありせば恋ひて死なまし
訳文 旅先にあって、もの恋しいのに鶴の声さえも、聞こえなかったら、家(=家に残して来た妻)恋しさのあまり死んでしまうだろう。
この集歌67の歌の「鳴毛」が読めなくて「鶴之鳴毛」と創作改変したように、次に示す車持朝臣千年が詠う集歌915の歌も三句目の「音成」を「川音成(表記では『〃音成』となります)」と創作改変して鑑賞します。「〃音成」の時、「川音(かはおと)なす」と訓みます。もし、集歌67の歌が難訓歌であるならば、同じ理由で集歌915の歌も難訓歌としていいのですが、さすがに恥ずかしいのか、そこまではしないようです。
或本反謌曰
標訓 或る本の反謌に曰はく
集歌915 千鳥鳴 三吉野川之 音成 止時梨二所 思君
訓読 千鳥鳴くみ吉野川し音(おと)成(な)りし止(や)む時無しにそ思ほゆる君
私訳 多くの鳥が鳴く美しい吉野川のその轟きが止む時がきっとないように常に慕っている貴方です。
さて、集歌156の歌は確かに難訓です。先の歌々については、先人の研究や漢字の訓を調べることで想像がつきますが、この歌の「神之神須疑已具耳矣自得見監乍」は手強いです。
歌は、十市皇女が急死された時、高市皇子が親族代表として挽歌を奉げています。場所は飛鳥鳥見山の赤穂で、三輪山を望む所です。さて、古代、神を祀る時、三つの甕を据え、口噛みの酒を供えるのが礼儀です。それが三瓶や三諸などの地名や言葉に残っています。そして、三輪山の神は口噛みの美味し御酒の神でもあります。きっと、これが歌を鑑賞する時のヒントになるのでしょう。また、古代、まだ若い女性が亡くなられた時、明日香皇女の挽歌でも詠われるように、子を産む女性=性交渉の対象となる成熟した女性であったと詠うのが相手への褒め言葉としての礼儀であったと考えられます。挽歌ではありますが、このような前提条件で歌を鑑賞するのが良いようです。
十市皇女薨時高市皇子尊御作謌三首
標訓 十市皇女の薨(みまか)りし時に高市皇子尊の御(かた)りて作(つく)らしし謌三首
集歌156 三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍 共不寝夜叙多
試訓 三(み)つ諸(もろ)し神し神杉(かむすぎ)過(す)ぐのみを蔀(しとみ)し見つつ共(とも)寝(ね)ぬ夜(よ)そ多(まね)
試訳 三つの甕を据えると云う三諸の三輪山、その神への口噛みの酒を据える、神山の神杉、その言葉の響きではないが、貴女が過ぎ去ってしまったのを貴女の部屋の蔀の動きを見守りながら、その貴女が恋人と共寝をしない夜が多いことです。
解釈を想像する時、「神之神須疑已具耳矣自得見監乍共不寝夜叙多」の表記の中で、比較的に句切れに使われる文字を見つけ出すことにあります。そうすると「矣」や「乍」の文字が句末の文字に使われるものであろうとの見当が付けられます。後は和歌の語調に合わせての訓みだけとなります。つまり、
三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍 共不寝夜叙多
の句切れに合わせての解釈です。その結果が先に示した試訓と試訳です。なお、「巳」の発音は現在の中国では「si」、「se」、「su」、「chi」などと発音するようです。そこで可能性として飛鳥時代に現在の南中国方面の発音である「su」の発声はあったのではないかと想像しています。そうすると、飛鳥時代の作歌の特徴である、音の尻取りの技法が見えて来ます。また、体言止めの作歌スタイルもまた、漢詩体和歌のようなものとして当時の流行りではないでしょうか。解釈を示すと、「なんだ、それだけか」の世界です。結果、本格的な難訓にはならずに申し訳ありません。
このような歌の解釈が成り立つとしますと、面白い想像が出来ます。参考に次の人麻呂の詠う「泣血哀慟作歌二首」の内の異伝とされる挽歌を見てください。
集歌216 家来而 吾屋乎見者 玉床之 外向来 妹木枕
訓読 家(いへ)し来に吾が屋(へ)を見れば玉(たま)床(とこ)し外(よそ)に向きけり妹し木(こ)枕(まくら)
私訳 家に戻ってきて私の家の中を見ると貴女と寝た美しい夜の床でいつもは並んでいるはずの枕が、外の方向を向いている貴女の木枕が。
集歌156の歌では十市皇女の再び帰って来ることの無い不在を部屋の蔀の開閉で表現しています。一方、集歌216の歌では妻の永遠の不在を木枕の様子で表現しています。ここには人の状態を物で代表して婉曲に表現をすると云う手法が使われています。歌は人の死を詠っていません。しかし、葬儀の時の歌であると聞けば、歌の中にその人物が亡くなったと云うことが強く感じられます。非常に高度な作歌技法と思います。作歌順からすると、その技法を人麻呂は集歌156の歌から学んだかもしれません。
万葉集巻十六の最後に載る「怕物謌三首」と云う標題を持つ歌三首があります。この内、二首が少し有名な難訓歌です。それも読めない方です。
集歌3888 奥國 領君之 染屋形 黄染乃屋形 神之門涙
訓読 奥(おき)つ国(くに)領(うる)はく君し染め屋形(やかた)黄染(にそめ)の屋形(やかた)神し門(と)涙(なか)る
私訳 死者の国を頂戴した者が乗る染め布の屋形、赤黄色に染めた布の屋形、神の国への門が開くのに涙が流れる。
集歌3888の歌の「染屋形」や「黄染乃屋形」の屋形とは人が乗る箱のことを意味します。普通は牛車の人の乗る部分を示しますが、ここでは棺のことを意味します。つまり、染屋形とは棺に布を掛けた状態です。この集歌3888の歌は「怕物謌三首」と云う標題の下に集められた歌です。そうしたとき、では、何が怖いのかと云うと、この歌では「死」の怖さを詠っています。なお、歌の言葉「黄染」は濃い赤黄諸色の紅花染めの布である可能性が高いと思います。紅花は古墳時代から死者に手向ける花であったようです。
集歌3889 人魂乃 佐青有君之 但獨 相有之雨夜 葉非左思所念
訓読 人魂(ひとたま)のさ青(を)なる君しただ独り逢へりし雨夜(あまよ)枝(え)し左思そ念(も)ふ
私訳 人の心を持つと云う青面金剛童子像を、私がただ独りで寺に拝んだ雨の夜。左思が「鬱鬱」と詠いだす「詠史」の一節を思い浮かべます。
この集歌3889の歌は相当な難訓歌なのですが、なぜか、難訓歌の中でも有名ではありません。標題で恐い歌とのジャンルを与えられていますから、歌は恐くなければいけません。この条件で「さあ、この歌を訓んでみろ」と云われると、専門家でもこの歌はなかったものにしたいようです。
さて、歌の初句と二句目となる「人魂乃佐青有君」は、奈良時代中期に到来した四天王寺庚申堂の青面金剛童子の洒落です。「葉非」も枝は葉に非ずの洒落で、この「枝」と「左思」から「鬱鬱潤底松」で始まる漢詩「詠史」を暗示します。また、奈良時代中期以降に流行した青面金剛童子は疫病に苦しむ人々を救済するためにこの世に現れたとされています。
歌の世界は、雨降る真夜中に一人、わずかに明かりのあるお寺の本堂で仏像とにらめっこしている風景を想像してください。ときおり、どこからするのか判らない物音や鳴き声が聞こえ、時に蝙蝠が飛ぶかもしれません。葬式で棺桶の中の死人とにらめっこをするのと、真夜中のお寺の本堂でのにらめっこと、さて、どちらの方が恐いのでしょうか。二首の歌はそれぞれ物理的な恐さ、精神的な恐さを詠う歌です。種を明かして貰えば、「ふん、なんだ、それだけか」の世界です。難訓歌とは、そのようなものと思うと、難訓歌、難訓歌と騒ぐようなものではないのかもしれません。それに、『万葉集』の成立を研究する人は、時に、『万葉集』は、最初に本体となる歌集、次にそれに附けられた標題と左注、最後に目次となる各巻の目録が、別々に付けられて完成したと考えます。つまり、本体となる歌集の編纂の後に標題を付けた人々は本体となる歌集全てを理解していましたから、奈良時代末期から平安時代中期までは、確実に『万葉集』に難訓歌なるものは存在していないことになります。
もうちょっと。
以下に載せる五首の歌々は難訓歌の紹介では良く紹介される歌です。これらは、使われる漢字自体は読めるのですが、その読み方をした場合、歌として落ち着きが悪いと云う歌です。そのため、難訓歌と云う範疇よりも、鑑賞者のその鑑賞深度と解釈の問題なのかもしれません。
伝統における難訓の部分は集歌160の歌では「面智男雲」、集歌249の歌の「舟公宣」、集歌655の歌の「邑礼左變」、集歌1205の「漸々志夫乎」、集歌2033の歌の「神競者磨待無」の句と云うことになっています。
天皇(すめろぎの)崩(かむあが)りましし時の太上天皇の御(かた)りて製(つく)らしし歌二首より一首
集歌160 燃火物 取而裹而 福路庭 入澄不言八 面智男雲
訓読 燃ゆる火も取りに包みに袋には入(い)ると言はずやも面(をも)智(し)る男雲(をくも)
私訳 あの燃え盛る火とて取って包んで袋に入れると云うではないか。御姿を知っているものを。雲よ。
集歌160の歌については、『竹取物語』との関係で、度々、紹介させていただきました。歌の世界は観月の宴で、『竹取物語』の「火鼠の皮衣」と「耀姫昇天」との場面を想定して、月の輝きを詠ったものです。
柿本朝臣人麿の羈旅(たび)の歌八首より一首
集歌249 三津埼 浪牟恐 隠江乃 舟公宣 奴嶋尓
訓読 御津し崎波を恐み隠り江の舟公(ふなきみ)し宣(の)る奴(ぬ)し島(しま)へに
私訳 住江の御津の崎よ。沖の波を尊重して隠もる入江で船頭が宣言する。奴の島へと。
この集歌249の歌は歌の句に対する語感をどのように評価をするのかが重要です。まず、藤原定家好みではなかったのではないでしょうか。それで、語調の良い「舟なる公(きみ)は奴嶋(ぬしま)へと宣(の)る」の訓みを求めたと思われます。ただ、この語調優先のスタイルですと最後の「尓」の文字の落ち着きが悪くなります。それで難訓歌なのでしょう。一度、改変をしますと、次からは色々と提案が出て来ます。
集歌655 不念乎 思常云者 天地之 神祇毛知寒 邑礼左變
訓読 念(おも)はぬを思ふと云はば天地し神祇(かみ)も知るさむ邑(さと)し礼(いや)さへ
私訳 愛してもいないのに慕っていると云うと、天地の神々にもばれるでしょう。愛していると云うのが里の習いとしても。
集歌655の歌もまた言葉の語感が藤原定家たちには受け入れられなかったと思われます。歌の語句も訓め、解釈が出来ても、詠いでの発声が気に食わなかったのではないでしょうか。そのため、四句目、五句目の「神祇毛知寒邑礼左變」を「かみもしらさん あれもとがめん」などと原文の文字に囚われずに歌を詠んだものと思われます。この原文の漢字に囚われないルール下、今日、多くの提案が行われています。
集歌1205 奥津梶 漸々志夫乎 欲見 吾為里乃 隠久惜毛
訓読 沖つ梶(かぢ)漸々(やくやく)強(し)ふを見まく欲(ほ)り吾がする里の隠(かく)らく惜しも
私訳 沖に向かう船の梶をようやくに流れに逆らい操る様子を見たいと思う。しかし、一方で、私が眺めたいと思う村里が浪間に隠れていくのが残念なことです。
この集歌1205の歌もまた、集歌655の歌と同じように、歌の語句も訓め、解釈が出来ても、言葉の語感が藤原定家たちには受け入れられなかったと思われます。なお、この「漸々志夫乎」を「やくやくしふを」と訓む時、その意味は何かが難しいところです。別に「ややややしぶを」と云う訓みあるようです。
集歌2033 天漢 安川原 定而 神競者 磨待無
訓読 天つ川八湍(やす)し川原し定まりに神(かみ)し競(きそ)はば磨(まろ)し待たなく
私訳 天の八湍の川原で約束をして天照大御神と建速須佐之男命とが大切な誓約(うけひ)をされていると、それが終わるまで天の川を渡って棚機女(たなはたつめ)に逢いに行くのを待たなくてはいけませんが、年に一度、二人が出会う今宵、その出会いの場面をこの私(=人麿)は待つことが出来ません。
この集歌2033の歌は天武九年(780)に宮中で開かれた七夕の宴で柿本人麻呂が披露した歌です。歌の世界には「安川原」の言葉がありますから、人麻呂は大空に輝く「天漢=天の川」を『古事記』に載る神話で神々が集う 「安川原=八湍の川原」と見立てています。その時、歌の世界には二組の男女が居ることに気が付き必要があります。大和言葉の「安川原」からは天照大御神と建速須佐之男命を、中国語の「天漢」からは牽牛と織姫とが見えて来ます。およそ、この歌もまた、難訓歌と云うより、鑑賞深度と解釈の問題に集約されるものではないでしょうか。再度、種を明かして貰えば、「ふん、なんだ、それだけか」の世界です。
最後に、手前味噌ではありますが、このブログでは難訓歌は一首もありません。すべてに訓みをつけ、さらに鑑賞に堪える意訳を添えています。素人の冒険ですが、一方、それが自慢でもあります。
ご存知のように、現在の訓読み万葉集のその訓みは平安末期から鎌倉時代に付けられた新点の訓みを尊重し、その発展形となっています。そのため、訓みの議論では、時に、新点や古点の訓みを引用して議論をします。ただ、難訓歌ではそのような読書感想文的なスタイルは取れません。やはり、『万葉集』の鑑賞の原点に立ち戻り、歌が詠われた環境、目的、使われる漢字から、歌の世界を想像し、そこから言葉を探し、楽しむ必要があります。その時、ここで紹介したように、難訓歌と云うものは無くなります。
(読書感想文的なスタイルとは、新たな仮説提案とその論理展開下での一定量以下の論文引用ではなく、仮説提案もなく、ただ、引用を主体とするものを示します)
同じお金を払うなら大学教授である間宮厚司氏の「万葉難訓歌の研究(法政大学出版局)」より、お勧めです。
ただ、永井津記夫氏のものは日本語研究からの本格的なものですので、保守本流の先人研究の板書的なものではありません。それで有名になれていないと考えます。
67番の歌の「鳴毛」は五音に読もうとすると、「鳴」という用字を「口」と「鳥」の構成要素に分解し、「鳥」を二重文字と見ると、「鳥鳴毛」となり、「鳥鳴くも(トリナクモ)」と読めます。これでよいかどうかは前後の結びつきをもう少し考察する必要があります。
万葉の難訓歌を研究されていて、うれしいかぎりです。自分の名前を検索していて貴兄のサイトを見つけました。
日給月給の建設作業員が開くブログとしては、異例なことで、大変に恐縮し、また、光栄に思っております。
さらに、弊ブログでの解釈に対して、考慮すべき別案を教授して頂き、有難いことです。
幣ブログを続けてきて、実によかったと、独り、感じています。
さっそく、ホームページに訪問させて頂きます。
もちろん、9番歌の試訓も含まれています。以下は、その結論部分の抜粋です。
斉明天皇(作者は額田王)は、第二句の「七」をスイッチ装置として、
「な」と訓んだ場合は、面(表)の歌
鎮まりし 影萎えそゆけ 我が背子が
い立たせるがね いつか逢はなむ
「なな」と訓んだ場合は、心(裏)の歌
鎮まりし 影な萎えそゆけ 我が背子が
い立たせりけむ 厳橿(いつかし)が本
と、それぞれ別の訓解が成立するように歌を詠んでいるのです。
その結果、後世の人は上二句の訓が分からず、したがってスイッチ装置の存在に気づかないまま、下二句の訓だけは、前記のように二様に訓まれてきたのです。
前記伊藤博氏はこの点を感知し、「一首の上二句は、本来、斉明女帝とその側近たち数名にしかわからない謎の表記だったのではあるまいか。」と述べています。
すなわち「七」を普通に「な」と訓ませることによって、他者には謀反を起こした有間皇子の死を冷静に詠んだ歌と見せかけ、「七」を「なな」と秘かに訓めば、有間皇子の死を哀惜した心の歌となるように、斉明天皇の側近によって仕組まれた謎の歌なのです。
どうぞ、ご批判下さい。
出版、おめでとうございます。
さて、訓じについて、弊ブログでは初句の訓じについて伝統のものを採用していません。また、初句の解釈で二句目が自動的に決まると考えています。そのため、貴方が初句を「鎮まりし」と訓じた背景が判りませんと、評価は難しいものがあります。「誰々先生の訓じだから」でしたら、なおさら、評価は難しいと思います。
歌の解釈は、有間皇子事件で鎮められた私の愛しい有間皇子が、わが影は決して萎えずにゆくと、護送の途上、この神聖な橿の樹の下にお立ちになって願ったことであろう、との斉明天皇の回想歌です。
「萎え」るは、力がなくなること、しおれることであり、ここでは特に死に向うことを意味しています。
有間皇子は紀の湯で中大兄の審問を受けた後、紀路を護送され藤白坂まで来たときに処刑されました。時に、満一八歳の若さです。その死を聞いた後、同じ紀路を飛鳥の都に帰る斉明天皇が、その途上にあった橿の樹を見て、有間皇子を偲んで詠った歌です。
難訓字の連続 まず注目すべきは、「囂」の字です。
この字は「かまびすしい」と読まれます。
この字は、多くの口(上に二つの口と、下に二つの口を書く。)と、その間に頁(この字は「頭」や「顔」の旁(つくり)です。)があり、頭の周りに口を寄せ集めて、がやがや言い騒ぐ意を表わしていると言われています。
蘇我赤兄が有間皇子に謀反を唆(そそのか)し密議をしたこと、またそのことを赤兄が中大兄に通報したこと、中大兄が紀の湯まで連行された有間皇子を厳しく糾弾したこと、そして有間皇子も「天と赤兄と知らむ。吾全ら解らず」と応酬したことを、斉明天皇は、「囂」の字によって表現しているものです。
斉明天皇は、有間皇子事件が多くの口によって仕組まれた事件であることを察していた
ので、「囂」の一字をもって、有間皇子事件を言い表しました。
すなわち、斉明天皇は有間皇子事件を「囂」の一字によって象徴したのです。
そして、有間皇子に謀反の企てがあったという形でこの事件が落着したことを「かまびすしい(囂)」ことが「莫」(ない)状態になったと表現しているのです。
つまり、「莫囂圓隣之」の意は、有間皇子事件が鎮まったこと、有間皇子が鎮められたことを言っており、その訓は「鎮まりし」となります。「圓隣之」の三文字を「まりし」と訓むことは、「圓」を訓仮名で「ま」、「隣」「之」を音仮名で「り」「し」と訓むことになり、訓仮名と音仮名の混用ですが、他にも訓仮名・音仮名の混用例があります。
三三番歌「浦佐備」(うらさび) 一五九番歌「裏佐備」(うらさび)
二六五一番歌「目頬次吉」(めづらしき) 三二四三番歌「湯良羅」(ゆらら)
三五〇二番歌「目豆麻」(めづま) 三九七九番歌「眼具之」(めぐし)
注目すべきは、「鎮まる」の連用形「鎮まり」の後に、回想の助動詞「き」の連体形「し」
(之)を用いている点です。それは、前述のようにこの歌が回想歌であるからです。
後述の「先訓と批評」に掲記しますように、これまで「莫囂圓隣之」を「静まりし」と
訓んでいる例がありますが、「鎮まりし」と訓んだ例はありません。
「大相」の「相」は、「人相」「形相」の語があるように「すがた」の意味で、有間皇子のことを指しています。「大」は「大君」の「大」と同じように、有間皇子に対する尊称
です。したがって、「大相」は一応「すがた」と訓めますが、これから検討する第二句全体の訓みの字数を考えますと、「すがた」と訓めば、どうしても字数が多くなることと、有間皇子は既に死亡していますので、「すがた」を「影(かげ)」と訓むべきと考えます。
「七兄爪」は「ななえそ」と訓み、「な萎えそ」の意です。すなわち、動作の禁止を表わす副詞「な・・そ」の間に、「萎ゆ」の連用形の「萎え」を入れた形です。
意味は、事件によって鎮められている有間皇子が、己が萎えることを禁止しているのです。
「七」を「なな」と訓む例は、三四〇番歌に「七(ななの)賢(さかしき)」、四二〇番歌に「七(なな)相(ふ)菅(すげ)」とあ
るほか多数あり、「兄」を「え」と訓む例は、一九六番歌に「宿(ぬ)兄(え)鳥(どり)之(の)」、二一三番歌に「百(もも)兄(え)槻木(つきのき)」があります。
万葉集において、「萎え」という言葉には、「萎」(一三八番、一九六番)および「奈要」(一三一番、二二九八番、四一六六番)の字をもって表記されているのに、本歌において「な萎えそ」を「七兄爪」と表記したのは何故でしょうか。
「え」に「兄」という字を当てたのは、有間皇子事件の仕掛人蘇我赤兄と首謀者中大兄の両人の名前に「兄」という字があり、その両人を暗示してのことでしょう。
万葉集において、「な・・そ」の「そ」には「曾」「所」等の乙類の音仮名が当てられています。
「爪」の使用例は万葉集に本難訓歌のほかに九例ありますが、八例が「つま」、一例が「つめ」といずれも訓仮名で詠まれています。
上代において漢字音を仮名書きすることは極めて少なく、江戸中期に至って本居宣長等により、漢字の字音歴史的仮名遣いが考えだされ、明治期以降に普及したといわれています(古語大辞典)。
その漢字の字音歴史的仮名遣いによれば「爪」は「サウ」ですが、それは前述のように、江戸中期以降に定められた字音に過ぎません。
本難訓歌が詠まれた六五九年のころは、六三〇年から始まった遣唐使も三度帰国しており、それ以前にわが国に伝来していた漢字の呉音に加え、漢音が導入され、呉音に代わり漢音も多く用いられていたと思われます。
「爪」の呉音は「ショウ」、漢音は「ソウ」ですが、「爪牙」(そうが)、「爪痕」(そうこん)と現代読まれていますので、漢音伝来以降は「爪」は漢音の「ソウ」と読まれることが一般的であったと考えられます。
三六二番歌における「名乗藻」、九四六番歌および一一六七番歌における「莫告藻」はいずれも「なのりそ」という海藻に「な告(のり)そ」をかけて訓解されており、「そ」の「藻」は、乙類の「ソ」であり、呉音、漢音ともに「ソウ」です。
また、甲類の「ソ」として多く用いられている「蘇」は、呉音は「ス」、漢音は「ソ」です(以上、呉音・漢音の出典は、漢和大字典)。
そこで、右三文字の隋・唐時代の音韻である「中古音」の発音について比較してみると、台湾大学中国文学系のサイトによる「漢字古今音資料庫」(A)および前掲漢和大字典(B)によれば、つぎのようになっています。
聲母(A) 韻母(A) 聲母(B) 韻母(B)
「爪」 tʂあるいはtʃ au ṭṣ ãu
「藻」 tS ɑu あるいはâu tS au
「蘇」 S uoあるいはu S o
「爪」と「藻」の発音記号には若干の相違がありますが、これは古い言語の復元音には復元者によって必然的に生ずる程度のもので、本難訓歌が詠まれたころの日本人は、「爪」の漢音を「藻」の漢音「ソウ」と略同じ「ソウ」と発音していたと考えられます。
したがって、「爪」も「藻」と同様に「ソウ」の「ウ」を省き、乙類の「ソ」の字音仮名として用いられていたと考えられます。
現に、宣長より少し前に生きた契沖は、本難訓歌の「爪」を「ソ」と訓でおります。
近年において、初句を初めて「静まりし」と訓んだ土橋利彦氏も、「爪」を「ソ」と訓
でいます。
諸古写本において、「謁氣」と「湯氣」との表記が拮抗していますが、澤潟注釋において、「『謁』の文字が仙覺校合以降の諸本にのみあり」といい、元暦校本や類聚古集の平安期の写本には「湯」とありますので、「湯氣」を原字と考えます。
「湯氣」は「ゆけ」と訓み、「行く」の己然形です。
万葉の時代は、已然形で言い切る用法がありました。その例は、四七一番歌「山隠しつれ」および六五九番歌「奥もいかにあらめ」があります。詠歎の意を籠める場合に用いられています。
また、「湯氣」を「ゆけ」と訓むのは、訓仮名と音仮名の混用ですが、この場合「由気」と音仮名を用いず、訓仮名「湯」を用いたのは、紀の湯に行幸中に起こった事件に関する歌であるからです。このように、音仮名を敢て用いず、訓仮名を混用するのは、音仮名を用いるより、訓仮名を用いた方がこの歌の語の表記として相応しいからです(他の例、三二四三番歌「湯良羅」(ゆらら)、三三番歌「浦佐備」(うらさび))。
第二句以下は、中大兄の断罪の前に、有間皇子の命は風前の灯であったのに、健気にもわが命萎えずに生きて行くと厳橿が本に立って願ったことだろう、と斉明天皇が甥の死の直前の姿を瞼に浮かべ、切なく回想しているものです。
わが子・中大兄の仕組んだ事件により、わが甥・有間皇子を失った斉明天皇の悲痛な心の叫びが聞こえてくる名歌です。
しかし、以上の訓による歌は、斉明天皇の心(うら)を詠んだ「裏」の歌です。
天皇としての建て前の歌は 天皇としての面(おもて)を詠んだ「表」の歌の訓は、つぎのとおりです。
有間皇子事件は、時の権力者であった中大兄が仕組んだ事件であり、天皇である斉明天皇であっても、有間皇子の死を哀惜するような歌を表立って詠めませんでした。
当時、「禁止」を表わす表現は、「な・・そ」のほか、「な・・」と、「そ」を伴わない表現もありました。
後者の方が強く禁止する意であるといわれていますので、斉明天皇の心の歌としては「そ」がない「影な萎えゆけ」の句の方が真情に合い、かつ声調も優れています。
それであるのに、「そ」を入れることによって、第二句を八字としたのは、どうしてでしょうか。
「そ」を入れることによって、「大(か)相(げ)七(な)兄(え)爪(そ)湯(ゆ)氣(け)」と訓ませられるからです。そう訓んだ場合は、字余りにもなりませんので、むしろ一般的にはこのように読まれるでしょう。
「七」は「なな」ではなく「な」と訓まれ、「そ」は上代においては清音であった強調の助詞の「そ」と解されて、第二句は「影萎えそゆけ」と読まれます。
その意味は「謀反を起こし鎮圧された有間皇子の影は萎えて行く」と詠んだ歌となります。
そして、第二句がこのように訓まれた場合、第三句以下は「吾(わが)瀬(せ)子(こ)之(が) 射(い)立(たた)爲(せる)兼(かね) 五(いつ)可(か)新(あは)何(な)本(む)」と訓まれ、一首の歌意は、「謀反を起こし鎮圧された有間皇子の影は萎えて行き、
皇子はあの世に旅立っただろうから、いつかきっと(あの世で)逢うだろう」と解釈されていたと推察されます。
現在、九番歌の下二句は冒頭掲示のように「射(い)立(たた)爲(せり)兼(けむ) 五(いつ)可(か)新(し)何(が)本(もと)」と訓まれていますが、鎌倉時代の仙覺は、「イタタセルカネイツカハアハナム」と訓んでいたのです。
紀州本、西本願寺本、神宮文庫本、陽明本、京都大学本、寛永版本の六つの古写本には
「イタタセルカネイツカアハナム」との訓が書かれており、元暦校本にもそのように読める記載があり、後述のように、契沖・真淵の前はそのように訓まれていました。
「なむ」は、「推量の意味を強調確述する意」を表しています(古語大辞典)。
さて、弊ブログでは扱う万葉集歌とは西本願寺本万葉集の原歌表記に限定しています。歌の解釈により各種の伝本から取り上げることはしていません。あくまで、西本願寺本万葉集の歌を読解すればどうのようになるかに興味があります。そのため、立場が違います。
次に、9番歌の難訓とされる部分は日本語の和歌とした場合、初句と二句目となる十二文字されていますから、本来ですと真仮名による十二文字の音字であろうと期待されます。
もし、歌に暗示があるとしますと、歌は表歌として表記に従い読解し、次いで歌に込められた真の歌(裏の歌)を鑑賞すべきと考えています。この時、歌は二つの読解の漢字交じり平仮名の翻訳歌を持つと考えています。
弊ブログではこのような考え方で鑑賞を行い、酔論を展開しています。
追記して、弊ブログでは隋唐音を「漢字古今音資料庫」ではなく、「漢典」にのる『宋本廣韻』を尊重しています。
ツールや考え方について、大きな相違があると考えます。
万葉集一歌をULしていますが、
この難訓歌の記事には
非常に教えられました。