竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百四五 風習から歌を楽しむ

2015年11月21日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百四五 風習から歌を楽しむ

 万葉集は、一面、庶民の生活を反映する詩歌集でもあると評価されます。すると、歌を鑑賞する時、当時の風習を思い浮かべると理解が進むのではないかと云うようなものもあるのではないでしょうか。
 突然の話ですが、現在の千葉県旭市後草(うしろくさ)は平安時代末期となる養和元年(1181)に千葉氏が神田を寄進し、干潟四十六郷の鎮守と称した雷神社(千葉県旭市見広)に載る由緒ある地名です。ここでその地名である「干潟」は香取郡にあった地域の名で現在は旭市の一部を構成しています。さらに後にこの雷神社は後には海上郡十三郷の鎮守となっています。
 妄想になりますが、平安時代より先の時代も「後草」と云う漢字表記が存在していたとしますと、時に古語では「後草」は「をぐさ」や「みくさ」のような読みになります。このようないい加減な妄想を下に次の集歌3450の歌を鑑賞して見て下さい。

集歌3450 乎久佐乎等 乎具佐受家乎等 斯抱布祢乃 那良敝弖美礼婆 乎具佐可利馬利
校本 乎久佐(おくさ)壮子(を)と乎具佐(をぐさ)受家(ずけ)男(を)と潮舟(しほふね)の並べて見れば乎具佐勝ちめり
よみ 乎久佐男と乎具佐受家男と潮舟の並べて見れば乎具佐勝ちめり
試訓 乎久佐(をくさ)壮子(を)と乎具佐(をぐさ)つけ壮士(を)と潮舟(しほふね)の並べて見れば乎具佐かりめり
試訳 乎久佐に住む男と小草を腰に着けた男とを岸辺に並ぶ潮舟のように比べてみると、邪気を払うと云う小草を付けた男に利がある。

 紹介しましたこの集歌3450の歌に対する標準的な解説書では「この歌、歌意未詳」として紹介されます。確かに原歌の「乎具佐受家乎等」が難訓であり、意味が取りにくいところがあります。ただ、古代には端午の節句に菖蒲の葉を腰や頭に巻くと云う風習があり、それは現在でもインターネットに記事を拾うこともできますし、テレビ連載アニメーション「サザエさん」でもこの風習は紹介されています。さらに宮中儀礼を記録した『西宮記』には五月五日の催事に「菖蒲鬘を着すは日景鬘の如し」との記述があり、中古代には五月五日の薬狩りの日に菖蒲を身に着ける風習はありました。
 そのような風習を詠う歌が万葉集巻十にあります。それが次の集歌1955の歌です。

集歌1955 霍公鳥 厭時無 菖蒲 蘰将為日 従此鳴度礼
訓読 霍公鳥(ほととぎす)厭(いと)ふ時無み菖蒲(あやめくさ)蘰(かづら)にせむ日こゆ鳴き渡れ
私訳 ホトトギスよ、お前の鳴き声を厭うようなことはありません。五月の薬狩りの、菖蒲を蘰にするこの日に、ここに「カツコヒ(片恋)、カツコヒ」と鳴きながら飛び渡って来い。

 歌での「蘰」は頭に帯びのように巻き、その帯に花や若葉を挿して花飾りとする一連の様子を示す言葉です。従いましてこの歌を参考に古代の風習を想像しますと、端午の節句などでの祭事に行われたであろう歌垣などでの言葉遊びとしますと、それなりに歌意は取れるのではないでしょうか。つまり、風俗を想像しますと集歌3450の歌は歌意未詳とか、難訓歌と云うものとして処理する必要はまったくにないのではないでしょうか。

 次に平城京時代の大唐の服装を知っていることが基本の歌があります。
 唐朝の官人の制服である常服は胡服を起源とするような盤領袍(あげくびのほう)を上着とします。そのため官人が盤領袍を身に纏いますと、体の正面に衣の左右の重ね合わせ部が来ません。それで集歌3482の歌では「唐衣裾のうち交へ逢はねども」と詠いますし、その唐服を着た姿は日常的な風景ではないために「異しき」とも詠っているのです。

集歌3482 可良許呂毛 須蘇乃宇知可倍 安波祢杼毛 家思吉己許呂乎 安我毛波奈久尓
訓読 唐衣(からころも)裾のうち交(か)へ逢はねども異(け)しき心を吾(あ)が思(も)はなくに
私訳 唐衣の裾前の左右を重ね合わす、その言葉のひびきではないが、お前にこのところ逢わないが、だからと云って、お前によからぬ思いを私は持ってはいない。
或本歌曰 可良己呂母 須素能宇知可比 阿波奈敝婆 祢奈敝乃可良尓 許等多可利都母
或る本の歌に曰はく、
訓読 唐衣裾のうち交ひ逢はなへば寝(ね)なへの故(から)に事(こと)痛(た)かりつも
私訳 唐衣の裾前の左右を合わす、その言葉のひびきではないが、お前に逢わないから共寝も出来ないが、それで共寝が出来ないことは辛いことです。

 ここで、少し難しいのですが、「から」と云う発声の言葉はその内容によっては「唐」、「呉」、「韓」、「辛」などの複数の漢字文字が当てられます。従来の集歌3482の歌の解釈では「からころも」を「韓衣」のような漢字で訓じるものもありますが、裾が前で重ならないのですと男性では胡服を起源とするような盤領袍のような衣装をイメージするのが良いのではないでしょうか。朝鮮半島由来の「韓衣」はその国の成り立ちなどからしますと「漢衣=呉服」が由来のような裾が体の正面で重なるような衣装です。

集歌2619 朝影尓 吾身者成 辛衣 襴之不相而 久成者
訓読 朝影(あさかげ)に吾(あ)が身(み)はなりぬ唐衣(からころも)裾し合はずて久(ひさ)しくなれば
私訳 朝の光が弱々しいように私の体は痩せ細ってしまった。痩せた身に唐衣の左右の裾前が合わないように、毎日、貴方に逢わない日々が長く続くと。

 ここで今日の朝鮮半島の伝統的な料理と云うと唐辛子を大量に使った料理をイメージしますが、その唐辛子自体は安土桃山時代から江戸初期に日本から朝鮮半島にもたらされた西洋からの輸入植物です。つまり、唐辛子の原産地は南米であり、ポルトガル経由で日本に到来、それが朝鮮半島へと渡ったものなのです。そのため、「辛衣」と記述してあっても意味合いにおいて「辛」=「韓」とは直ちにはならないのです。あくまでも「辛」は「外国」と云う意味合いが強い文字です。
 反って、『説文解字』に「律書曰、辛者言萬物之新生。故曰辛」や「釋名曰、辛、新也」と説明するように「辛」は「新」であると云う意味合いが強い文字です。確かに「辛痛卽泣出」と云う意味合いもありますから、これが十七世紀になって唐辛子が西洋からもたらされたときにこのような当て字が与えられています。
 このような漢字の成り立ちや古代には唐辛子と云うもの自体が無かったと云うことを踏まえますと、集歌2619の歌での「辛衣」には唐衣スタイルの盤領袍が暗示され、さらに「から」の音字に「辛」と云う文字を使ったことから「新しい」というイメージも持たしていることが期待されます。つまり、新しい日の暗示から「毎日」のようなイメージが歌には込められている可能性があります。
 次の集歌2682の歌はここまでに紹介しました「辛衣」の意味合いをフルに活用して想像しますと、歌の意味合いが良く分かるような歌です。

集歌2682 辛衣 君尓内著 欲見 戀其晩師之 雨零日乎
訓読 唐衣(からころも)君にうち着せ見まく欲(ほ)り恋ひぞ暮らしし雨し降る日を
私訳 美しい到来の真新しい唐様の着物を貴女に着せて眺めたいと願い、貴女と床を共に夜を過ごしました。あの雨の降る日を。

 次の歌は服装の歴史を調べますと、ちょっと、意外な展開があります。特に巻二十の防人が詠う歌での「からころも」は「韓衣」の表記でなくてはいけないようです。
 それは防人が動員された時代、防人の制服は盤領袍であり、そのスタイルは唐から朝鮮半島を経由して伝わったとします。そのため、「韓衣」と云う言葉には防人や兵衛の武人をイメージするものがあったとのことです。このような背景があるために集歌4401の歌の「可良己呂茂」は「韓衣」と翻訳する必要があるようです。着ている物は確かに唐服の盤領袍スタイルのものですが、軍服としての「韓衣」というファッションです。女性の着る唐服ファッションでの「唐衣」や「呉服」ではないようです。

集歌4401 可良己呂茂 須曾尓等里都伎 奈苦古良乎 意伎弖曽伎奴也 意母奈之尓志弖
訓読 韓衣裾に取り付き泣く児らを置きてぞ来のや母なしにして
私訳 防人が着る唐服の盤領袍スタイルである「韓衣」と云う制服の裾に取り付いて泣く子供たちを残してやって来たことだ、母親もいないのに。

 和服を呉服と云うように三韓(南朝鮮半島)経由で導入された唐服を「からころも」と称する云う風習があったということを踏まえますと、次の集歌952の歌は非常に理解が容易になります。

集歌952 韓衣 服楢乃里之 嶋待尓 玉乎師付牟 好人欲得
訓読 唐衣(からころも)服(き)楢(なら)の里し嶋松(しままつ)に玉をし付けむ好(よ)き人もがも
試訳 唐人(=呉の人)の織る綾の衣を日頃、着る。その言葉の響きのような奈良の里(=平城京)にある苑池庭園の松林苑で待っています。松林苑で天下を冒(おお)う公を玉座に就ける高貴な人が居て欲しい。
注意 試訳では「待つ」から「松」を導き、「木」と「公」に分解してみました。その「木」には大地を冒(おお)うと云う意味があります。また、松林苑は平城京における天皇が宴を催すような大規模な苑池を持つ禁苑とされています。

 集歌952の歌は渡来人の職人によって織られた綾の衣のような上等な衣装を日常的に着慣らすような人々が住む奈良の里と理解しますと、その平城京にある「嶋」と云えば松林苑と云うことになります。
 ここでその「嶋」とは次の集歌378の歌の標題で「山池」を「しま」と訓じるように池を配置した庭園を意味します。

山部宿祢赤人詠故太上大臣藤原家之山池謌一首
標訓 山部宿祢赤人の故(なき)太上大臣(おほきおほまえつきみ)藤原家(ふじわらのいへ)の山池(しま)を詠める謌一首
集歌378 昔者之 舊堤者 年深 池之瀲尓 水草生家里
訓読 昔(むかし)はし古(ふる)き堤は年(とし)深(ふか)み池し渚(なぎさ)に水草(みくさ)生(お)ひにけり
私訳 昔からのこの古い堤は、長い年月を経ている。池の渚に水草が生えています。

 つぎに集歌3386の歌を見て下さい。この歌には新嘗祭のとき、刀自のような家を仕切る女性が潔斎精進する場面を詠います。当時の風習では女性が新嘗の潔斎精進する間、成人した男は家には入ってはいけないと云う決まりがありました。それで歌では「外に立てめやも」と詠います。

集歌3386 尓保杼里能 可豆思加和世乎 尓倍須登毛 曽能可奈之伎乎 刀尓多弖米也母
訓読 にほ鳥の葛飾(かづしか)早稲(わせ)を饗(にへ)すともその愛(かな)しきを外(と)に立てめやも
私訳 にほ鳥が神にかしずく、その言葉のひびきではないが、今年採れた葛飾の早稲を神に捧げる時にも、あの愛しい人を家の外に立たせたままに出来るでしょうか。

 先の集歌3386の歌は下総国でのものですが、次の集歌3460の歌は巻十三の相聞に載せられた歌です。

集歌3460 多礼曽許能 屋能戸於曽夫流 尓布奈未尓 和家世乎夜里弖 伊波布許能戸乎
訓読 誰(たれ)ぞこの屋(や)の戸(と)押(お)そぶる新嘗(にふなみ)に吾(わ)か背を遣(や)りて斎(いは)ふこの戸を
私訳 誰ですか。この家の戸を押し揺さぶるのは。新嘗の神事に私の夫を外に追いやり私が精進して祭っている。この家の戸を。

 集歌3386の歌も集歌3460の歌もその年の収穫物を以って神と饗応し、神婚儀礼を行う儀式を背景したものです。およそ、その背景には神事は女性が、世事は男性が行うと云う卑弥呼の時代に繋がる大和の風習があります。卑弥呼の時代、神事は卑弥呼が執り、世事は男弟が執ったと魏志倭人伝は伝えます。
 ただ、面白いことに巻十三に載る歌の詠いようではその新嘗祭が行われる夜には家には女だけがいるだけです。一方、歌では夫ではない男が家の中の女に対して合図を送る風景がありますから、夫が不在であると云うその状況を承知して忍び込む男たちが結構いたということでしょうか。歌が詠われ、その歌で人々が大笑いしたのであれば、そうなのでしょう。

 最後におまけで、所謂、東歌の巻を称される巻十三に載る歌を紹介します。

集歌3467 於久夜麻能 真木乃伊多度乎 等杼登之弖 和我比良可武尓 伊利伎弖奈左祢
訓読 奥山の真木(まき)の板戸をとどとして吾が開かむに入り来て寝(な)さね
私訳 奥山の立派な木で作った板戸を「とど」と音をさせて、私が戸を開けるから、家に入って来て私と寝てね。

集歌3468 夜麻杼里乃 乎呂能波都乎尓 可賀美可家 刀奈布倍美許曽 奈尓与曽利鶏米
訓読 山鳥の尾(を)ろの初麻(はつを)に鏡懸け唱(とな)ふべみこそ汝(な)に寄そりけめ
私訳 山鳥の尾のように長い初麻に鏡を懸け、願いを唱えなさい。そうすれば、恋人はお前に寄り添うでしょう。

 お判りのように、集歌3467の歌では家に木製の扉がありますから木造家屋に娘は住んでいて、夜に男が忍んで行きますから独立の部屋を持っていることが推定できます。また、集歌3468の歌では娘の家には鏡(=銅鏡)があります。万葉集は、下は庶民の歌から上は天皇までの人々が歌を詠うと云いますが、万葉集研究者が云う「庶民」とは、それを現在に置き換えますと最新設備が整った超高層マンションに住み、海外留学や海外出張が日常で英語は日本語と同等に使用できるような社会人を意味します。そのような人々であって初めて万葉集研究者が云う「庶民」となるのです。従いまして、まず、私は万葉集研究者が云う「庶民」ではありません。対象であると云う想像をもしない範疇外の存在です。で、貴方は「庶民」ですか。
 研究者が思う世界と建設作業員が見上げ羨む世界とはなかなか一致しません。今回は鑑賞においてギャップがあることを知って頂きたくて、長々と酔論を垂れ流しました。ただ、一生、「庶民」に成れませんでした。いや、ただただ、うらやましい。

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