万葉雑記 色眼鏡 二三九 今週のみそひと歌を振り返る その五九
今回は巻八に載る集歌1562と集歌1563の歌に遊びます。なお、集歌1562の歌は西本願寺本万葉集の歌と現代の校本万葉集の歌とは同じではありません。このため、集歌1562の歌と集歌1563の歌とは二首相聞関係のものですが、歌意が相当に変化しています。
巫部麻蘇娘子鴈謌一首
標訓 巫部(かむなぎべの)麻蘇娘子(まそをとめ)の鴈の謌一首
集歌1562 誰聞都 従此間鳴渡 鴈鳴乃 嬬呼音乃 之知左守
訓読 誰聞きつこゆ鳴き渡る雁し啼(ね)の妻呼ぶ声の之(お)いて知らさる
私訳 誰か聞きましたか、ここから飛び鳴き渡っていく雁の「枯(か)り、枯(か)り(=縁遠い)」と、その妻を呼ぶ声に対して、私は気付きましたが。
注意 原文の「之知左守」は、一般に江戸期からは「乏知在乎」と新たに校訂し「羨(とも)しくもあるか」と訓みます。歌意は変わります。
大伴家持和謌一首
標訓 大伴家持の和(こた)へたる謌一首
集歌1563 聞津哉登 妹之問勢流 鴈鳴者 真毛遠 雲隠奈利
訓読 聞きつやと妹し問はせる雁し音(ね)はまことも遠く雲隠(くもかく)るなり
私訳 誰か聞きましたかと、愛しい貴女が尋ねる雁の「離(か)り、離(か)り(=疎くなる)」と啼く、その鳴き声は、ほんとうに遠くの雲の中に隠れていて聞いていません。
初めに紹介しましたように弊ブログで扱う原歌表記と一般的な校本万葉集での原歌表記は違います。そこで対比のために一般的なものとして、HP「ニキタマの万葉集」から原歌表記、訓読と現代誤解釈を以下に紹介します。
原歌 誰聞都 従此間鳴渡 鴈鳴乃 嬬呼音乃 乏知在乎
訓読 誰れ聞きつ こゆ鳴き渡る 雁がねの 妻呼ぶ声の 羨しくもあるか
解釈 誰が聞いたでしょうか、我が家の上を通って鳴いてゆく雁の連れ合いを呼ぶ声が羨ましく思えるのです
原歌 聞津哉登 妹之問勢流 鴈鳴者 真毛遠 雲隠奈利
訓読 聞きつやと 妹が問はせる 雁が音は まことも遠く 雲隠るなり
解釈 聞いたかとあなたがお尋ねになった雁の声はほんとに遠く雲隠れてかすかに聞こえますよ
なぜ、弊ブログと一般的な解釈が違うのか。弊ブログでは万葉集時代の鳥の鳴き声を人々がどのように聞いていたかを推理・仮説し、万葉集中の歌で検証します。例えば、ホトトギスの鳴き声では「カッコウ」と聴き、それを「カツコイ=片恋」と転化すると歌の解釈が容易になるものが見られます。成らぬ恋仲を夜通し苦しんでいる状況でホトトギスの鳴き声と云う表現があれば、その鳴き声が「カツコイ=片恋」と聴こえるとします。ただし、万葉集時代、ホトトギスとカッコウを共にホトトギスとしていたようで、本来のホトトギスの鳴き声を大陸人風に「ブ二ョキョ=(不如帰去;帰り去くに如かず)」と聴く場合もあります。この場合は蜀王の故事から「昔のあの日に戻りたい」という意味合いを持たせます。参考として巻八から「カツコイ=片恋」の方を紹介します。
参考例として二首
集歌1475 何奇毛 幾許戀流 霍公鳥 鳴音聞者 戀許曽益礼
訓読 何(なに)奇(く)しもここだく恋ふる霍公鳥(ほととぎす)鳴く声聞けば恋こそまされ
私訳 どのような理由でこのようにひたすら恋慕うのでしょう。ホトトギスの「カツコヒ(片恋)」と啼く声を聞けば、慕う思いがさらに募ってくる。
集歌1476 獨居而 物念夕尓 霍公鳥 従此間鳴渡 心四有良思
訓読 ひとり居に物思ふ夕(よひ)に霍公鳥(ほととぎす)こゆ鳴き渡る心しあるらし
私訳 独り部屋に座って居て物思いをする夕べに、ホトトギスがここを通って「カツコヒ(片恋)」と啼き飛び渡る。私の気持ちをわかってくれる心があるようだ。
では、今回の集歌1562と集歌1563の歌ではどうでしょうか。二首相聞歌で話題として「鴈鳴」です。雁は「カリ、カリ」と啼くから「雁」の名を持つと解説される場面があるように、伝統では雁は「カリ、カリ」と啼きます。ただし、万葉集時代の雁はカリガネと云う種類の鳥で、現在のガンではありません。ガンやカモは「ガン・ガン」や「コアーン・コアーン」のような鳴き声に聴こえます。鳥の鳴き声や種類を調べませんと雁が「カリ、カリ」と啼くと云う認識にはならないかもしれません。
歌の雁は「カリ、カリ」と啼きます。この鳴き声をどのように聴き、それを「カツコイ=片恋」のように漢字で表現するとどうなるかを想像してます。巫部麻蘇娘子も大伴家持も、ホトトギスは和歌では「カツコイ=片恋」と鳴くとの認識を持つような人たちです。
このような背景で鳴き声を想像したのが「枯(か)り、枯(か)り(=縁遠い)」であり、「離(か)り、離(か)り(=疎くなる)」です。男女の仲が間遠くなることを「枯れる」といいますから、巫部麻蘇娘子は貴方が私の許に寄り付かないと詠えば、家持は耳元から遠く離れているから聴こえませんと返歌します。
非常なる歌の遊びです。
この言葉遊びが理解できれば末句「之知左守」を「乏知在乎」と校訂するような野暮なことはしません。それに家持が雁の鳴き声を聴いたとしますと、それは男女の仲でのむき付けの離別です。優美な貴族男子はそんな不風流な振る舞いをしてはいけません。女が訴える「枯(か)り、枯(か)り(=縁遠い)」と云う恨み声は聴いてはいけないのです。かようなウイットのある歌を即座に返し、お前の気持ちは判っているとするのが良いようです。
弊ブログでは、このような酔論・暴論で鑑賞します。そこを御笑納下さい。
(現在、日々の暮らしのために自宅を離れ日給月給での出稼ぎ中です。そのため、図書館などでの書籍資料の確認が出来ません。そこでネット環境で資料を収集しています。参照先がほぼネットですのでご注意願います)
今回は巻八に載る集歌1562と集歌1563の歌に遊びます。なお、集歌1562の歌は西本願寺本万葉集の歌と現代の校本万葉集の歌とは同じではありません。このため、集歌1562の歌と集歌1563の歌とは二首相聞関係のものですが、歌意が相当に変化しています。
巫部麻蘇娘子鴈謌一首
標訓 巫部(かむなぎべの)麻蘇娘子(まそをとめ)の鴈の謌一首
集歌1562 誰聞都 従此間鳴渡 鴈鳴乃 嬬呼音乃 之知左守
訓読 誰聞きつこゆ鳴き渡る雁し啼(ね)の妻呼ぶ声の之(お)いて知らさる
私訳 誰か聞きましたか、ここから飛び鳴き渡っていく雁の「枯(か)り、枯(か)り(=縁遠い)」と、その妻を呼ぶ声に対して、私は気付きましたが。
注意 原文の「之知左守」は、一般に江戸期からは「乏知在乎」と新たに校訂し「羨(とも)しくもあるか」と訓みます。歌意は変わります。
大伴家持和謌一首
標訓 大伴家持の和(こた)へたる謌一首
集歌1563 聞津哉登 妹之問勢流 鴈鳴者 真毛遠 雲隠奈利
訓読 聞きつやと妹し問はせる雁し音(ね)はまことも遠く雲隠(くもかく)るなり
私訳 誰か聞きましたかと、愛しい貴女が尋ねる雁の「離(か)り、離(か)り(=疎くなる)」と啼く、その鳴き声は、ほんとうに遠くの雲の中に隠れていて聞いていません。
初めに紹介しましたように弊ブログで扱う原歌表記と一般的な校本万葉集での原歌表記は違います。そこで対比のために一般的なものとして、HP「ニキタマの万葉集」から原歌表記、訓読と現代誤解釈を以下に紹介します。
原歌 誰聞都 従此間鳴渡 鴈鳴乃 嬬呼音乃 乏知在乎
訓読 誰れ聞きつ こゆ鳴き渡る 雁がねの 妻呼ぶ声の 羨しくもあるか
解釈 誰が聞いたでしょうか、我が家の上を通って鳴いてゆく雁の連れ合いを呼ぶ声が羨ましく思えるのです
原歌 聞津哉登 妹之問勢流 鴈鳴者 真毛遠 雲隠奈利
訓読 聞きつやと 妹が問はせる 雁が音は まことも遠く 雲隠るなり
解釈 聞いたかとあなたがお尋ねになった雁の声はほんとに遠く雲隠れてかすかに聞こえますよ
なぜ、弊ブログと一般的な解釈が違うのか。弊ブログでは万葉集時代の鳥の鳴き声を人々がどのように聞いていたかを推理・仮説し、万葉集中の歌で検証します。例えば、ホトトギスの鳴き声では「カッコウ」と聴き、それを「カツコイ=片恋」と転化すると歌の解釈が容易になるものが見られます。成らぬ恋仲を夜通し苦しんでいる状況でホトトギスの鳴き声と云う表現があれば、その鳴き声が「カツコイ=片恋」と聴こえるとします。ただし、万葉集時代、ホトトギスとカッコウを共にホトトギスとしていたようで、本来のホトトギスの鳴き声を大陸人風に「ブ二ョキョ=(不如帰去;帰り去くに如かず)」と聴く場合もあります。この場合は蜀王の故事から「昔のあの日に戻りたい」という意味合いを持たせます。参考として巻八から「カツコイ=片恋」の方を紹介します。
参考例として二首
集歌1475 何奇毛 幾許戀流 霍公鳥 鳴音聞者 戀許曽益礼
訓読 何(なに)奇(く)しもここだく恋ふる霍公鳥(ほととぎす)鳴く声聞けば恋こそまされ
私訳 どのような理由でこのようにひたすら恋慕うのでしょう。ホトトギスの「カツコヒ(片恋)」と啼く声を聞けば、慕う思いがさらに募ってくる。
集歌1476 獨居而 物念夕尓 霍公鳥 従此間鳴渡 心四有良思
訓読 ひとり居に物思ふ夕(よひ)に霍公鳥(ほととぎす)こゆ鳴き渡る心しあるらし
私訳 独り部屋に座って居て物思いをする夕べに、ホトトギスがここを通って「カツコヒ(片恋)」と啼き飛び渡る。私の気持ちをわかってくれる心があるようだ。
では、今回の集歌1562と集歌1563の歌ではどうでしょうか。二首相聞歌で話題として「鴈鳴」です。雁は「カリ、カリ」と啼くから「雁」の名を持つと解説される場面があるように、伝統では雁は「カリ、カリ」と啼きます。ただし、万葉集時代の雁はカリガネと云う種類の鳥で、現在のガンではありません。ガンやカモは「ガン・ガン」や「コアーン・コアーン」のような鳴き声に聴こえます。鳥の鳴き声や種類を調べませんと雁が「カリ、カリ」と啼くと云う認識にはならないかもしれません。
歌の雁は「カリ、カリ」と啼きます。この鳴き声をどのように聴き、それを「カツコイ=片恋」のように漢字で表現するとどうなるかを想像してます。巫部麻蘇娘子も大伴家持も、ホトトギスは和歌では「カツコイ=片恋」と鳴くとの認識を持つような人たちです。
このような背景で鳴き声を想像したのが「枯(か)り、枯(か)り(=縁遠い)」であり、「離(か)り、離(か)り(=疎くなる)」です。男女の仲が間遠くなることを「枯れる」といいますから、巫部麻蘇娘子は貴方が私の許に寄り付かないと詠えば、家持は耳元から遠く離れているから聴こえませんと返歌します。
非常なる歌の遊びです。
この言葉遊びが理解できれば末句「之知左守」を「乏知在乎」と校訂するような野暮なことはしません。それに家持が雁の鳴き声を聴いたとしますと、それは男女の仲でのむき付けの離別です。優美な貴族男子はそんな不風流な振る舞いをしてはいけません。女が訴える「枯(か)り、枯(か)り(=縁遠い)」と云う恨み声は聴いてはいけないのです。かようなウイットのある歌を即座に返し、お前の気持ちは判っているとするのが良いようです。
弊ブログでは、このような酔論・暴論で鑑賞します。そこを御笑納下さい。
(現在、日々の暮らしのために自宅を離れ日給月給での出稼ぎ中です。そのため、図書館などでの書籍資料の確認が出来ません。そこでネット環境で資料を収集しています。参照先がほぼネットですのでご注意願います)
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