天気予報では雨が降るというてたのに、結局、雨は降らずに曇り空や晴れたりする気候。
そうして5月が終わってもう6月になってしまったわい、という感慨。
気温が高くない日もあったりで、厳密に測定してるわけではないが、野菜の成長が遅い感じがしている。
ただ、これまでの経験から自然相手のこと、帳尻は合ってくるんじゃろうと思うている。
カウンセリングルーム・たいようの代表 松田寿一さんが地元経済誌に連載記事を書かれている。
そのなかで、
「子どもの頃に受けた心の傷は、その人の人生を幸せから遠ざける。」
という一節があった。
この歳になると、誰だって深さや酷さは万別だけど心に傷を負っていることくらいは分かる。
Uターンしてきて、実家に立ち寄ったり田畑の面倒をみたり、昔と変わらぬ道路街区を通ったり、
場所から惹起される記憶、物心ついてからの多感な頃のことが思い出されることがある。
幸いなことに、と言ってもええのかもしれんが、実家周辺は50年前とは見違えるほど開発されていて、
村の同世代の子と喧嘩して泣きながら帰ったとか、今思えばああまで酷く叱らんでもよかったろうにと
思うような子供ながらの失敗とか、また叱られるからと親に隠し通したケガや傷をした場所とか…
実家の周りでそうした負の記憶とつながる”場所”はすっかり姿を変えていて記憶を直撃することはない。
そうした負の記憶を刺激する場所は、意外にも中心市街地のなかにあったりする。
郊外にプチなショッピングモールが出来てから中心市街地の衰退が加速して再開発などもままならず、
ぽつりぽつりと建物が建て替わっていることはあるが、基本的に50年前のままである。
市街中心部を歩くと、あまりの変わらなさに懐かしさよりも心配が先立ってしまうほどだ。
今は街中のスーパーになっているかつての映画館、建物はそのままに中はスーパーマーケット
子どもの頃、親父に連れられて見た映画、男が馬で引きづられるシーンは怖くて悲しくて、そこしか覚えてない。
中学生の時に一人で映画を見に来て映画館の裏手でカツアゲされて、悔しく情けない気持ちで家に帰ったこと。
酒を飲むと人格が変わる親父をお袋と一緒に飲み屋街に迎えに行って、ひどく不安な気持ちで待っていたこと。
その飲み屋街を今では酔っぱらってうろついている自分がいる。
「心の傷」はあるけど、それに苛まれずに過ごしているのは、ひとつには「記憶の上書き」があるだろう。
そしてもうひとつは、無自覚的にではあるが上書きされた記憶のほうが多少は良いものなのかもしれない。
もちろん、上書きされたなかにも「傷」としてけっこう辛いものもある。
ただ、60年以上も生きてきて、そうした「傷」と上手く折り合える術を身に着けたのかもしれない。
これから先、短期記憶が薄れて超長期的な記録ばかりが思い出されるようになるかもしれない。
そういうふうになった時に、このブログを読み返してどう感じるのだろう、少し楽しみである。
自宅周辺は田植え時期、水を張った田を見ていたら「コウノトリ」がいた。
ここに住んで、3回目の目撃である。
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