桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

この温情が判らない

2011-07-20 | Weblog
初めて判決文を読んだ。
弁護士さんが「神田大好きさんと言いなさい」と言う理由が、良く判った。
この判決文の結論部分を書くと「被告人両名の捜査段階における自白については、いずれも信用性を肯定することはできず、さらにはその任意性についてもそれ相応の疑いを払拭することができないというべきである」と、自白内容などを検討した結果を書いた判決は、結論として「以上の次第であるから、本件強盗殺人に係わる被告人両名の犯人性については、結局、これを推認させる間接証拠は何ら存在せず、また、被告人両名の自白についても、いずれも信用性がなく、その任意性にも疑問がある。そうすると、本件において、被告人両名が本件強盗殺人の犯人であると証明するに足りる証拠は存在しないとの結論に帰する」と明言しているのだ。
神田コートは、我々に完全無罪の判決を言い渡していたのだ。
判決文は、判断途中で、ごちゃらごちゃらと判り難い言い回しを重ねて、巧みに警察や検察の失点をカバーしている。そして、検察が隠し続けた証拠を新しい証拠と認めずに「古い証拠だけを判断しても犯人性を示す証拠はない」として無罪を言い渡している訳だが、これに検察は不満を示して「判断に違和感を覚える」とか「控訴すべきだった」とかの寝言に等しいことをほざいている。
多分、過去の裁判所が有罪にした証拠を、新しい証拠を使わずに判断し直したことが「心証への介入」とでも言いたいのかも知れない。では、検察が隠し続けた証拠を「新しい証拠」と認めれば、検察はどうなったのか!
これは無実の証拠を隠し続けた!と、更なる非難を浴びたろう。
ここに裁判所の検察に対する温情がある。
我が儘者の放蕩息子に等しい検察は、この温情が判らないで不満を語る訳だが、不満を言いたいのは俺だ。いかに「新しい証拠は必要ない」と神田コートが言おうとも、その完全無罪の判断の基にあるのは、今度の再審で検察が提出した証拠だ。それらが存在しなければ、絶対に最高裁が有罪とした証拠の逆転評価など、出来ようはずはない。
警察が証拠を改ざんし、検察が無実の証拠を隠し続けたことは、どのような判決があろうとも曲げようのない事実だ。
この判決文を読んで、小貫さんの名誉のためや検察の傲慢を追及したくて、俺は控訴趣意書を書きたくなった。

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