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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

静岡記念&ことばのデメリット

2009-02-09 21:17:41 | 競輪
 地元から有力4選手が出場したものの,決勝進出は1人だけとなってしまった静岡記念の決勝(動画)は,8日に争われました。
 関東の先行勢は別ライン。木暮には渡辺晴智がつけ,3番手が関戸。牛山ー藤田と並んで3番手に山田。村上ー渡辺十夢ー中沢の近畿という3分戦。
 前受けしたのは村上選手で,中団が木暮選手,後方が牛山選手という周回。牛山選手の上昇をさらに外から木暮選手。しかし打鐘では再び牛山選手が前に出てこのラインの先行。バックに入ると藤田選手が早々に番手捲り。このためだれも前に追いつけず,直線から踏み込んだ藤田選手マークの山田選手があっさりと抜け出して優勝。直線で山田選手の後ろをインから村上選手をどかして取りきった木暮選手が,動けなかったものの流れ込んで2着。木暮選手マークの渡辺晴智選手が3着でした。
 優勝した岐阜の山田裕仁選手は昨年5月の大垣記念以来となる優勝で,記念競輪はこれが57勝目。ここは藤田選手マークを選択したのが勝因。こういうケースもあり得ると考えての選択ではあったと思いますが,あまりに恵まれた展開で,本人としてもびっくりといったところではなかったでしょうか。

 ペガサスというものがごく簡単にことばによって示すことができ,それによって人間の精神のうちにその表象像もまた容易に形成されるということは,スピノザの哲学が注意することばの問題というものを改めて浮き彫りにするといっていいと思います。しかしここではこのことを,まったく異なったふたつの側面から考えることができるように僕には思えるのです。
 すでに説明したことですが,翼の生えた馬が現実的に存在するという言明は,文法的には何らの問題も含んではいません。しかしごく常識的に考えて,この命題が真の命題であるか偽の命題であるかといえば,これは偽の命題であるということをほとんどの人間は理解するでしょう。したがって自分の精神のうちに,この言明によって翼ある馬すなわちペガサスの表象像が生じるとしても,同時にその観念は混乱した観念であるということを知ることができます。つまり虚偽によって精神の一部が構成されることにはなりますが,誤謬を犯すことはありません。
 しかしこうしたことは絶対的に人間に対して生じるというものではありません。もしかしたらこの言明によってペガサスの実在を信じ込む人間がいるかもしれませんし,それよりも,ペガサスではなくもっと別の事柄であるならば,ことばによって混乱した観念を十全な観念であると思い込んでしまうような事例は,わりと多くの人間に生じているのではないかと僕は思います。これは,人間がことばというものを用いるがゆえに誤謬を犯すということになり,ことばというもののもつ大きなデメリットのひとつといえるでしょう。スピノザがよく注意するように,僕たちもこの面,とくにことばと観念とは異なったものであるという点では慎重でなければなりません。
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棋王戦&ペガサスの場合

2009-02-08 19:23:11 | 将棋
 挑戦者決定戦変則二番勝負で第一局,第二局と連勝した久保利明八段が佐藤康光棋王に挑戦する棋王戦五番勝負の第一局が指されました。ここまでの対戦成績は佐藤棋王が15勝,久保八段が11勝。
 振駒で佐藤棋王の先手。久保八段のごきげん中飛車で①A△5五歩の形に。先手から仕掛け,捌いた後手の攻めが続くかどうかという将棋になりました。
           
 この局面で▲5四歩と打ちました。先手玉はいかにも危うい形ですが,凌げるとみての着手だったのでしょう。ただし実戦は後手の攻めがうまく繋がる格好になり,最後は先手が大きな駒損となったために投了。結果的には後手の快勝になっています。
 佐藤棋王も第1図からの▲5四歩は局後に悔いていたようですが,その後にも実際にはまだ難しそうな変化も残っていたそうです。ただここでは▲5一飛と打つべきで,これなら後で飛車が受けにも効く余地があり,むしろ先手が有望でした。
 久保八段が初のタイトル獲得に向けて幸先のいい先勝。第二局は間があって28日に指されます。

 これらふたつの事例では,人間の精神がペガサスを想像する場合の方が容易に理解できると思われますので,まずは先にこちらの場合を考えてみることにします。
 ペガサスというのは,たとえばことばの上では翼のある馬というように説明することができるわけです。そしてこのことばの説明は,それ自体で考えるならば,いい換えれば単に文法的な側面にのみ注目するならば,何らの矛盾も含んでいません。よって,翼の観念と馬の観念を有している人間であるならば,これらふたつの観念を結合させることによって,翼のある馬,すなわちペガサスを想像することになるでしょう。つまりこの場合に重要なのは,それがペガサスと名付けられていることではなく,翼のある馬と説明されていることの方であるわけです。このことが,スピノザの哲学の特徴のひとつであると僕が考えている唯名論と関係するということは,かつて別の考察でも説明した通りです。
 馬と翼というのは,それぞれを単独で考えるならば,実在性を有するもの,すなわち現実的に存在するものです。よってある人間の精神のうちに馬の表象像と翼の表象像があると仮定することは,各々は知覚することが可能なものなので,宝くじの表象像があるということを仮定することと同様で,無理があることではありません。次にそれらの観念を結合させるということは,ペガサスを想像する人間の身体の運動として考えれば,馬の表象の際にこれと平行的に生じる運動と,翼の表象時にこれと平行的に生じる運動とを合わせた運動であると考えることができるわけで,宝くじに当たったことがない人間が当たることを表象し得ることと同じように説明できます。よって,人間がペガサスを表象し得るということについては,これで十分にその因果関係までを含めて説明することができたと思います。
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グランプリカップ&具体的説明

2009-02-04 19:28:57 | 地方競馬
 来月11日に行われるダイオライト記念のトライアルになっているグランプリカップ
 先手を奪ったのはゴールドイモン。サミンバリオス,ニックバニヤンと続き,断然の人気に推されたトップサバトン。これをマークするようにモエレラッキーと続き,最初の800メートルが47秒2というかなり速いペースに。
 前の3頭はそれほど力がある馬ではなく早々に壊滅。トップサバトンが先頭で直線に入り,これを外からモエレラッキーが捕えにでましたが,トップサバトンが存外に抵抗できず一杯に。4コーナーでもまだ中団で揉まれていたクレイアートビュンが外に持ち出して迫りましたが,半馬身届かず,先に抜け出していたモエレラッキーの優勝。大外を豪快に追い込んだカネゼンクラウスが3着に入っています。
 優勝したモエレラッキーは昨年12月の総の国オープン以来の勝利。4月にクラウンカップを勝っていて,南関東重賞は2勝目。僕自身は現4歳馬では南関東最強ではないかと考えている馬で,その実力を発揮してくれたという思いが強いです。
 鞍上は船橋の張田京騎手で昨年9月の戸塚記念以来となる南関東重賞制覇。このレースは2005年以来となる2勝目。管理する大井の久保與造調教師はこのレース初制覇となりました。
 個人的にいいますと3着にカネゼンクラウスが追い込んだために馬券を取り逃がしました。4着のギャンブルオンミーならば三連単で当たっていただけにちょっぴり悔しい結果でした。

 これで,真の観念を原因として何らかの表象像が生じるということはないということは十分に理解することができたと思います。したがってある事物についてそれを必然と認識する場合でも,また逆に不可能と認識する場合でも,これらがそのように認識する人間の精神のうちで真の観念としてあるのであれば,ここからはその真の観念の対象となっている事物の想像は生じてきませんし,生じてくることはできないということになります。そもそもこのような主張は,無から有が生じるという主張に等しいのです。
 しかし一方では,いかに僕たちがあるものXに関して,それが必然であるとかあるいは不可能であると認識していても,そのXに関して何らかの想像をし得るということ,あるいは想像をなす場合があるということは,現実的な経験論に訴える限りでは否定できません。すでに第二部定理四〇と第四部定理一との間には齟齬はないということが明らかになっていますから,こうした想像に関しても,少なくともそれが人間の精神のみに関係付けられる限りでは,第四部定理一を基本にして,第二部定理九の仕方で生じてくるということになるでしょうが,不可能であることが確実であるような対象の観念については,そうでないものとは別の説明が必要でしょう。
 たとえば僕たちは宝くじを知覚することによって,それに当たるということを,たとえ宝くじを買わないとしても想像することができます。これはすでに証明されました。しかしペガサスとかこりん星とかいうことになると,その大本となる知覚が,この場合と同様の意味においては明らかに不可能です。もちろんこうした事柄について,それを逐一具体的に説明することはそれこそ無理ですが,これらふたつの場合に関しては考えてみることにしましょう。
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豊橋記念&別の理由

2009-02-03 19:33:07 | 競輪
 S級S班からの参戦が1人と,最近の記念競輪としては少し淋しいかなという感じのあった豊橋記念の決勝(動画)が行われました。
 並びは栗田ー中井ー中村の南関東,石丸には西川,大西に前田で,長塚と富永は自在戦。Sは石丸選手で前受け。長塚選手,富永選手と入り,5番手に栗田選手,8番手に大西選手の周回。残り2周のホームから大西選手が上昇すると,栗田選手も合わせ,打鐘では大西選手の先行になり,3番手に栗田選手,栗田選手はそのまま発進していきましたが捲りきれず,南関東の連係にもやや乱れが生じました。これを外から石丸選手ー西川選手で捲ると,中井選手の後ろに入っていた長塚選手が3コーナーでスイッチ。直線は早めに踏み込んだ西川選手が差しきって優勝。切り替えた長塚選手が2着で石丸選手は3着。
 優勝した熊本の西川親幸選手は43歳の大ベテラン。まだS級1班に所属しているだけでも立派ではありますが,記念競輪は決勝に乗ること自体が2年ぶり。優勝となると1993年の熊本記念以来3度目になります。もっとも当時は今とは制度が違いますので,現行の4日間1節制では初の優勝。地道に努力を続けていれば報われることもあるということの典型的な例になったように思います。

 表象がそれ自体で永遠には関係せず,むしろ持続を含んでいると僕が考える別の理由は,表象の内容が,表象される対象が現実的に存在すると観想されるという様式と関係するのではなくて,表象される対象そのものと関係します。
 ここでもう一度,人間がどんなものを表象するのかを復習してみると,まず外部の物体であり,次に自分の身体であり,そして自分の精神でした。もっとも,外部の物体の中には,他者の身体というものが含まれているわけで,この他者の身体は,その人間の精神と同一個体であるわけですから,その関係から,人間は他者の精神を表象するという場合がないというわけではないかもしれません。そこでそれもまた人間が表象し得るものにここでは含めておくことにしましょう。スピノザはこれについては証明していませんが,第二部定理二三を自分の身体ではなく他者の身体に当てはめれば証明は可能な筈で,ここでは厳格に考える意味でこれを含めておくだけであり,それ以上の意味はありません。
 さて,こうしたもののうち,外部の物体は第二部定義一により延長の個物です。次に人間の身体ならびに精神は第二部定理一〇系により延長の個物であり思惟の個物です。つまり僕たちが表象する対象というのはすべからく個物に限られます。しかるに個物というのは第一部定理二五系により,神の属性を一定の仕方で表現します。いい換えればそれを絶対的な仕方では表現しません。したがってそれは,永遠を表現せずに持続を表現します。つまりこうした個物の特徴からも,表象が持続にのみ関係し,永遠には関係しないということになると思うのです。
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女流名人位戦&表象と持続

2009-02-01 19:38:11 | 将棋
 女流名人位戦五番勝負第二局が指されました。
 先手は矢内理絵子女流名人。清水市代女流王将の手順はやや変則的でしたが,一応は相矢倉に。積極的に動いた後手がやや作戦勝ちになったようで,対して先手が反撃に出たのが第1図。
           
 ▲2五歩に2二にいた玉を3一に逃げ,▲1五歩と突いたところ。手の流れだと▲2四歩でないとおかしい感じですが,それだと△2八歩で困るでしょうか。▲1四歩と取り込まれても大したことはなさそうですから攻め合うのも有力そうですが,△1五同歩と取りました。この将棋はこのように,後手がかなり受けに回り,手数が伸びました。その結果,どうも一旦は逆転してしまったようです。
           
 たぶん第2図で△3四歩と打ったのは,受けたようで受けになっていませんでした。▲1五角以下,龍を消され,△6九飛とようやく打ったのが第3図。
           
 ここで▲7八玉と引きましたが,次の△5八角が厳しくて敗着になりました。▲7七金上として,△8九飛成に▲7六玉と上に逃げておけば,飛車の王手で両取りの筋があって後手は上から縛りにくく,先手が有望であったと思われます。
 第一局と同様にいい将棋を逆転されましたが,相手のミスに助けられ清水王将が返して1勝1敗。第三局は18日です。

 僕の考えでは,想像というものがある持続を含んでいる,あるいはある持続に関連しているのであって,永遠であるような事柄には属していないということに関しては,単に想像というものがそういうものであるというよりは,想像がその種類を構成している表象の全体が,そういうものなのだと思っています。したがって,別に想像に限らず,人間の精神が事物を知覚するのであれ想起するのであれ,とにかく表象する限りにおいては,それはすでに持続に属するであろうと思うのです。そして,僕がこのように考える根拠というものはふたつありますので,それらを順に紹介していくことにしましょう。
 まず最初に注目したいのは,スピノザが人間の精神による事物の表象とはどんな事象であるのかということを説明している部分,『エチカ』でいえば今回のテーマとなっている第二部定理一七であり,とくにそこで,外部の物体を現実的に存在すると観想することが外部の物体の表象であるといわれている部分です。
 ある事物が現実的に存在するといわれること,このこと自体のうちに,その事物は持続のうちに存在するものであり,永遠から永遠にわたって存在するものではないということが含まれていると僕は考えます。なぜなら,あるものが永遠であるなら,第一部定義八からして,それは文字通り永遠に存在するわけですから,現実的に存在するといわれなければならない理由,つまりスピノザがこのようにいわなければならない理由が見当たらないからです。むしろこのことは,存在しないとも考えられるようなものにのみ妥当するような表現ではないでしょうか。
 スピノザがそのようなことばを用いて説明しているのだから,少なくともスピノザは表象というものが永遠と関係するのではなく持続と関係すると考えていると僕は理解します。これが第一の理由になります。
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