地元から有力4選手が出場したものの,決勝進出は1人だけとなってしまった静岡記念の決勝(動画)は,8日に争われました。
関東の先行勢は別ライン。木暮には渡辺晴智がつけ,3番手が関戸。牛山ー藤田と並んで3番手に山田。村上ー渡辺十夢ー中沢の近畿という3分戦。
前受けしたのは村上選手で,中団が木暮選手,後方が牛山選手という周回。牛山選手の上昇をさらに外から木暮選手。しかし打鐘では再び牛山選手が前に出てこのラインの先行。バックに入ると藤田選手が早々に番手捲り。このためだれも前に追いつけず,直線から踏み込んだ藤田選手マークの山田選手があっさりと抜け出して優勝。直線で山田選手の後ろをインから村上選手をどかして取りきった木暮選手が,動けなかったものの流れ込んで2着。木暮選手マークの渡辺晴智選手が3着でした。
優勝した岐阜の山田裕仁選手は昨年5月の大垣記念以来となる優勝で,記念競輪はこれが57勝目。ここは藤田選手マークを選択したのが勝因。こういうケースもあり得ると考えての選択ではあったと思いますが,あまりに恵まれた展開で,本人としてもびっくりといったところではなかったでしょうか。
ペガサスというものがごく簡単にことばによって示すことができ,それによって人間の精神のうちにその表象像もまた容易に形成されるということは,スピノザの哲学が注意することばの問題というものを改めて浮き彫りにするといっていいと思います。しかしここではこのことを,まったく異なったふたつの側面から考えることができるように僕には思えるのです。
すでに説明したことですが,翼の生えた馬が現実的に存在するという言明は,文法的には何らの問題も含んではいません。しかしごく常識的に考えて,この命題が真の命題であるか偽の命題であるかといえば,これは偽の命題であるということをほとんどの人間は理解するでしょう。したがって自分の精神のうちに,この言明によって翼ある馬すなわちペガサスの表象像が生じるとしても,同時にその観念は混乱した観念であるということを知ることができます。つまり虚偽によって精神の一部が構成されることにはなりますが,誤謬を犯すことはありません。
しかしこうしたことは絶対的に人間に対して生じるというものではありません。もしかしたらこの言明によってペガサスの実在を信じ込む人間がいるかもしれませんし,それよりも,ペガサスではなくもっと別の事柄であるならば,ことばによって混乱した観念を十全な観念であると思い込んでしまうような事例は,わりと多くの人間に生じているのではないかと僕は思います。これは,人間がことばというものを用いるがゆえに誤謬を犯すということになり,ことばというもののもつ大きなデメリットのひとつといえるでしょう。スピノザがよく注意するように,僕たちもこの面,とくにことばと観念とは異なったものであるという点では慎重でなければなりません。
関東の先行勢は別ライン。木暮には渡辺晴智がつけ,3番手が関戸。牛山ー藤田と並んで3番手に山田。村上ー渡辺十夢ー中沢の近畿という3分戦。
前受けしたのは村上選手で,中団が木暮選手,後方が牛山選手という周回。牛山選手の上昇をさらに外から木暮選手。しかし打鐘では再び牛山選手が前に出てこのラインの先行。バックに入ると藤田選手が早々に番手捲り。このためだれも前に追いつけず,直線から踏み込んだ藤田選手マークの山田選手があっさりと抜け出して優勝。直線で山田選手の後ろをインから村上選手をどかして取りきった木暮選手が,動けなかったものの流れ込んで2着。木暮選手マークの渡辺晴智選手が3着でした。
優勝した岐阜の山田裕仁選手は昨年5月の大垣記念以来となる優勝で,記念競輪はこれが57勝目。ここは藤田選手マークを選択したのが勝因。こういうケースもあり得ると考えての選択ではあったと思いますが,あまりに恵まれた展開で,本人としてもびっくりといったところではなかったでしょうか。
ペガサスというものがごく簡単にことばによって示すことができ,それによって人間の精神のうちにその表象像もまた容易に形成されるということは,スピノザの哲学が注意することばの問題というものを改めて浮き彫りにするといっていいと思います。しかしここではこのことを,まったく異なったふたつの側面から考えることができるように僕には思えるのです。
すでに説明したことですが,翼の生えた馬が現実的に存在するという言明は,文法的には何らの問題も含んではいません。しかしごく常識的に考えて,この命題が真の命題であるか偽の命題であるかといえば,これは偽の命題であるということをほとんどの人間は理解するでしょう。したがって自分の精神のうちに,この言明によって翼ある馬すなわちペガサスの表象像が生じるとしても,同時にその観念は混乱した観念であるということを知ることができます。つまり虚偽によって精神の一部が構成されることにはなりますが,誤謬を犯すことはありません。
しかしこうしたことは絶対的に人間に対して生じるというものではありません。もしかしたらこの言明によってペガサスの実在を信じ込む人間がいるかもしれませんし,それよりも,ペガサスではなくもっと別の事柄であるならば,ことばによって混乱した観念を十全な観念であると思い込んでしまうような事例は,わりと多くの人間に生じているのではないかと僕は思います。これは,人間がことばというものを用いるがゆえに誤謬を犯すということになり,ことばというもののもつ大きなデメリットのひとつといえるでしょう。スピノザがよく注意するように,僕たちもこの面,とくにことばと観念とは異なったものであるという点では慎重でなければなりません。