スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヤンググランプリ&よき妻

2019-01-01 19:06:17 | 競輪
 12月29日に静岡競輪場で行われたヤンググランプリ。並びは竹内‐佐伯の広島,太田‐島川の徳島,松本‐佐々木‐門田の愛媛で南と山崎は単騎。
 島川がスタートを取って太田の前受け。3番手に南,4番手に山崎,5番手に竹内,7番手に松本で周回。残り3周のバックの出口から松本が上昇を開始すると竹内も動き,竹内が島川を叩いて前に。さらに外から松本が竹内を抑えたのが残り2周のホームの出口からバックにかけて。南がこのラインを追って4番手で内の竹内と併走。山崎が南がの後ろになって打鐘。門田が離れてしまったのでホームで南が3番手に入りました。バックから南が発進すると併せて佐々木も番手捲り。後方で脚を溜めていた太田がバックでは絡んだ佐伯と山崎のインを回り,コーナーから外に出してこの両者を追いました。直線はこの3人の争い。大外の太田がフィニッシュ目前で前のふたりを差して優勝。あとのふたりは大接戦で,4分の1車輪差の2着は南。佐々木は微差で3着。
 優勝した徳島の太田竜馬選手はグレードレース初優勝。ここは南と山崎と太田の3人がほかの6人と比べれば明らかに脚力上位でしたので,展開不問で3人の争いになり,おそらく3人のラインができた愛媛勢が先行になるので,その展開の利を生かして番手の佐々木がどこまで食い込めるかというレースになると予想していました。脚力上位の3人のうち山崎は佐伯に執拗に絡まれるレースになったために力を発揮することができず,その分だけ佐々木が食い込んできたという結果になりましたからほぼ想定した通り。個人的にいうとレースを視たときは佐々木が2着で南が3着に見えたのでがっかりしたのですが,写真判定は逆で,喜びの大きな微差になりました。太田は記念競輪を勝つくらいの力はあると思うのですが,僕の印象ではレースで積極性を欠くきらいがあり,その部分は克服するべき課題として残っているのではないかと思います。

 僕は両親の長男,第一子として産まれました。そのとき,両親は共に20代でした。そして僕は48歳になる年には,両親を共に失うことになりました。これは一般的にみれば早い筈で,不幸なことであると思われるかもしれません。ですがこのことについても,僕は可能な限り,それは必ずしも悪いことではなかったと認識するように努めています。
 まず先に死んだ父のことからいきましょう。
 母は,大腸癌が発覚し,自分の余命が限られていると知ってから,日記のようなノートを記していました。その記述の中に,自分は父に対してはよき妻ではなかったし,僕や妹に対してもよき母ではなかったという主旨のことが何度か書かれていました。僕は必ずしもそのようには考えていませんが,母自身はそのように思っていたのです。
 父は横行結腸癌が基となって死にました。その死を迎えるにあたり,何日かを家で過ごした後,みなと赤十字病院の消化器内科の病棟に入院し,そこから緩和ケア病棟に移りました。この間は,僕はあまり見舞いには行かず,ほぼ母がつきっきりで看病にあたりました。当時は妹が本牧の作業所に通っていましたから,妹を送った後,迎えに行くまでの時間は母はずっと病院で過ごしていたのです。
 父にとってよき妻ではなかったと認識していた母にとって,おそらくこの時間はかけがえのない時間であったろうと推測されます。他面からいえば,もしそのような時間を父と共に過ごすことができなければ,自分がよき妻ではなかったという母の思いはより強くなっていただろうと思われます。このように考えれば,それがいつであるかということと別に,父が母より先に死んだことは,母にとってよかったのだろうと思いますし,またその死因が癌という,余命が限られたことを承知の上で共に過ごすことができる病気であったこともよかったのだろうと僕には思えるのです。母が先に死んだ場合でも,また父が先に死ぬにしてもたとえばそれが急死のような死に方であったりした場合には,僕が母の感情affectusとして察したようなことは起こり得なかったからです。
 まず僕はこの点で,父の死を肯定的に認識することができます。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東京2歳優駿牝馬&虚偽への従属 | トップ | KEIRINグランプリ2018&下の世話 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

競輪」カテゴリの最新記事