スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

アニマル・浜口&タイヤ

2013-01-13 18:39:05 | NOAH
 そのプロレススタイルから馬場に評価されていたと僕が考えているアニマル・浜口。浜口の出自は鶴見五郎と同じく国際プロレスですが,鶴見のときにもいったように,僕のプロレスキャリアの始まりは国際プロレスの崩壊直後。国際プロレスの試合はその後にビデオ等で視聴するということもありませんでした。よって当時の浜口の試合は僕は何も知りません。
 浜口は国際プロレスの崩壊後は,ラッシャー・木村に従って新日本プロレスで仕事をするようになりました。そして長州力が藤波に牙を剥いたのを機に,長州をリーダーとする維新軍へと移籍。この維新軍というのがジャパンプロレスの前身で,ジャパンプロレスが全日本プロレスと提携していた時代には全日本プロレスで仕事をしました。いわゆる対抗戦時代ですが,この時代は長州の新日本プロレスへのカムバックで終焉。浜口の全日本での仕事もこれがすべてでした。
 僕は初期の頃は新日本プロレスも観戦していましたから,その当時の浜口のプロレスは知っています。スタイルは全日本時代と同じで,最初は木村を,後には長州を盛り立てることに徹していました。ときにやられ役を買って出る場合もあり,相手の技もきちんと受けました。新日本時代ですと猪木の延髄斬りに自主的にではないかと思えるように一回転したり,坂口のアトミックドロップを受けて大きく前方に飛ばされたりした姿は,今でも印象に残っています。それは見方によっては滑稽なものであったかもしれませんが,プロレスにはこうした役回りの選手が必要ですし,そのように受けても受け身はきちんと取ることができるだけの技量があったということの証拠ではないかと思います。
 現在の浜口はアマレス選手の父としての存在の方が有名でしょう。浜口は娘や選手たちを盛り立てることに必死です。そしてその姿は,現役レスラー時代の浜口を彷彿とさせます。あれは浜口自身のパーソナリティーが前面に出たスタイルだったのだと思うのです。

 今度は,自転車からタイヤを外して,その単独のタイヤに空気を入れて膨らませたと仮定します。この場合にはこのことの観念が,タイヤの観念を有する限りでは神のうちにあるけれども,自転車の観念を有する限りでの神のうちにはないということは明白だと思います。もしもこれを否定するならば,少なくとも自転車用のタイヤに空気が入ることの観念は,常に自転車の観念を有する限りで神のうちにあると主張しなければなりません。しかしタイヤはただそれ単独でみられる場合には,どの自転車に装着されるのかは不明です。もっといえば,自転車には装着されることがないタイヤも存在するかもしれません。よってこの観念が自転車の観念を有する限りで神のうちにあるということはないということは,間違いないといっていいでしょう。
 もしもタイヤが自転車に装着されていない状態に関してそのようにいわれるならば,自転車に装着されていても同じことでなければならないと僕は思うのです。これはあるタイヤに空気が挿入されるということだけで考える限り,自転車に装着されているのかされていないのかという点だけに相違があるのであって,この相違が,空気が入ることの観念の神との関連のされ方に,影響を及ぼすとは僕にはとても思えないのです。
 イメージの話は一旦ここまでにしましょう。もしも僕のこのイメージが正しく,いい換えればこのイメージに対する論理的な肉付けが成功しているとするならば,この自転車とタイヤとの関係というのが,人間の身体とその身体を構成しているある部分との間にも,同じように該当しなければならないと僕は考えます。それは自転車も人間の身体も物体であるという点では共通ですし,しかもいくつかの物体によって組織されているひとつの物体であるという点でも同様だからです。しかも人間の身体は,自転車よりも複雑な物体ですから,自転車の場合よりも数多く,この関係が妥当する現象が生じることになるでしょう。

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