昨日,仙台で指された第5期女流王座戦五番勝負第一局。女流公式戦での対戦成績は加藤桃子女流王座が2勝,伊藤沙恵女流二段が0勝。
仙台市長の振駒で伊藤二段の先手。変則的な手順からの相矢倉でしたが,後手が早囲いをし,先手が自玉の玉頭から仕掛けていくという力将棋でした。僕は並べているときはずっと後手の方が指しやすいのではないかと思っていたのですが,感想を綜合するとそうでもなく,一時的には先手の方が指せるかもしれない,少なくとも均衡のとれた局面が長く続いたまま終盤に入ったようです。
後手が角筋を遮断する歩を打った局面。ここは▲4一龍と寄せの網を絞っておけば難しい局面が続いたそうです。
実戦は▲3三桂と打ち△同桂▲同歩成△同王▲1一龍と進めました。玉を上に追って下の駒を取るというのは異能といえるでしょうが,考え方としてないわけではないと思います。ただ,この局面でこう指したということは,先手玉の安全度に関して楽観し過ぎていたのではないかと推測します。上部に脱出することが可能と考えていたのでしょうか。
△4七馬と飛車取りに寄り▲2六飛と逃げたところで△7六歩の王手。これを▲同金と取るのは仕方がないとしても△8四桂で先手玉は寄り形になってしまいました。
加藤王座が先勝。第二局は来月7日です。
前もっていっておきますが,信者の神聖な生活の表象がステノにカトリックの確実性をどのように抱かせたのかということを正確に説明することはできません。これは僕にはできないという意味ではなく,だれにも不可能である,ステノ自身にも不可能なことであると僕は考えます。第二部定理九を現実的に存在する個人の精神のダイナミズムに適用することは,少なくとも人間の知性には不可能なことだと僕は考えるからです。ステノが悪徳に満ちた人間が一夜にして神聖な人間になるのを奇蹟であると表象したのは,ステノがその人物の観念の連結を知ることができなかったからだと推測したのと同じように,プロテスタントの信者であったステノがカトリックに改宗したときの観念の連結を正しく説明することは無理だと考えるのです。ただ,僕の見解がステノの見解と異なるのは,僕はそうした人間精神のダイナミズムを奇蹟とは考えないという点です。
次に,カトリックに改宗したステノにとっては,ステノが奇蹟とみなしたようなことはステノ自身の喜びになります。逆にカトリックを批判されることは悲しみになります。よって第三部定理一二により,ステノは自身が奇蹟とみなすようなことを表象する傾向を有することになり,逆に第三部定理一三により,その奇蹟を否定するような表象を忌避する傾向を有するようになります。したがって奇蹟に関する表象の動揺は,ステノには生じにくくなることになります。これは奇蹟に限定した事柄ではありませんし,ステノに限定された話でもありません。一般にカトリック信者はカトリックの優秀性を証明すると感じる事柄を表象し,それを否定すると感じる事柄の表象を忌避する傾向を有することになるのです。これは人間の現実的本性がそのようなものであるということであり,一般的な意味でいいとか悪いとかいうことではありません。ただ,カトリックの信者には,カトリックの教義や教義自体の優越性に関わる表象の動揺が生じにくいというだけのことです。
つまりステノにカトリックの真理性に対する疑惑が生じにくかったという前提があることになります。僕はそれを批判するつもりはありません。
仙台市長の振駒で伊藤二段の先手。変則的な手順からの相矢倉でしたが,後手が早囲いをし,先手が自玉の玉頭から仕掛けていくという力将棋でした。僕は並べているときはずっと後手の方が指しやすいのではないかと思っていたのですが,感想を綜合するとそうでもなく,一時的には先手の方が指せるかもしれない,少なくとも均衡のとれた局面が長く続いたまま終盤に入ったようです。
後手が角筋を遮断する歩を打った局面。ここは▲4一龍と寄せの網を絞っておけば難しい局面が続いたそうです。
実戦は▲3三桂と打ち△同桂▲同歩成△同王▲1一龍と進めました。玉を上に追って下の駒を取るというのは異能といえるでしょうが,考え方としてないわけではないと思います。ただ,この局面でこう指したということは,先手玉の安全度に関して楽観し過ぎていたのではないかと推測します。上部に脱出することが可能と考えていたのでしょうか。
△4七馬と飛車取りに寄り▲2六飛と逃げたところで△7六歩の王手。これを▲同金と取るのは仕方がないとしても△8四桂で先手玉は寄り形になってしまいました。
加藤王座が先勝。第二局は来月7日です。
前もっていっておきますが,信者の神聖な生活の表象がステノにカトリックの確実性をどのように抱かせたのかということを正確に説明することはできません。これは僕にはできないという意味ではなく,だれにも不可能である,ステノ自身にも不可能なことであると僕は考えます。第二部定理九を現実的に存在する個人の精神のダイナミズムに適用することは,少なくとも人間の知性には不可能なことだと僕は考えるからです。ステノが悪徳に満ちた人間が一夜にして神聖な人間になるのを奇蹟であると表象したのは,ステノがその人物の観念の連結を知ることができなかったからだと推測したのと同じように,プロテスタントの信者であったステノがカトリックに改宗したときの観念の連結を正しく説明することは無理だと考えるのです。ただ,僕の見解がステノの見解と異なるのは,僕はそうした人間精神のダイナミズムを奇蹟とは考えないという点です。
次に,カトリックに改宗したステノにとっては,ステノが奇蹟とみなしたようなことはステノ自身の喜びになります。逆にカトリックを批判されることは悲しみになります。よって第三部定理一二により,ステノは自身が奇蹟とみなすようなことを表象する傾向を有することになり,逆に第三部定理一三により,その奇蹟を否定するような表象を忌避する傾向を有するようになります。したがって奇蹟に関する表象の動揺は,ステノには生じにくくなることになります。これは奇蹟に限定した事柄ではありませんし,ステノに限定された話でもありません。一般にカトリック信者はカトリックの優秀性を証明すると感じる事柄を表象し,それを否定すると感じる事柄の表象を忌避する傾向を有することになるのです。これは人間の現実的本性がそのようなものであるということであり,一般的な意味でいいとか悪いとかいうことではありません。ただ,カトリックの信者には,カトリックの教義や教義自体の優越性に関わる表象の動揺が生じにくいというだけのことです。
つまりステノにカトリックの真理性に対する疑惑が生じにくかったという前提があることになります。僕はそれを批判するつもりはありません。
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