スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

いわき市復興いわき平記念&第一部定理三五

2012-01-24 18:40:15 | 競輪
 2日目には災害復興支援のための単発レースが組まれたいわき平記念の決勝。並びは坂本-伏見-成田の北日本,川村に神山-山口の栃木,三宅に武井で山田は単騎でしたが,展開上は北日本追走。
 前に三宅,中団に坂本,後方で川村という隊列で残り2周のバック。打鐘前に坂本が動いて山田まで出きって先行。川村がコーナーからホームにかけて巻き返していくと伏見が牽制。間に挟まれるような形になった神山が落車。バックでは逃げる坂本の後ろで伏見と成田が並走する形に。力を温存していた三宅が捲っていくとこれはだれも止められず番手の武井との勝負に。差した武井が優勝で2着に三宅。3着は伏見。
 優勝した千葉の武井大介選手は2006年11月の伊東温泉記念以来となる記念競輪2勝目。ここは目標の三宅も常に連係している選手というわけではなく,やや気楽な立場だったと思います。三宅も自分が優勝するために一発を狙ったようなレースで,それがうまくはまりました。差しこんでチャンスをものにしたのは,追い込み選手としてやっていく上での自信になったのではないかと思います。

 それでは次に,第二部定理九系の中に示されていると考えられる原因に関して,スピノザ自身はそれを十全な原因であると考えているのか,それとも部分的原因であると考えているのか,あるいはそのどちらの場合も含んでいると考えているのかということを探求していくことにします。
 このためには,スピノザはこの第二部定理九系には証明を付していますから,この証明を詳細に検討してみることが最善であると思います。しかしそのためには,まだこのブログでは取り扱ったことがない部分がふたつほど必要になってきますので,先にそちらの方を考えておくことにします。まずは第一部定理三五です。
 「神の力の中に在ると我々の考えるすべての物は必然的に存する」。
 この定理の意味を把握する場合に注意しておくべきことはふたつです。ひとつはここで力といわれているものは,たとえば権力ということばで説明されるような類の力ではなく,むしろ能力ということばで説明されるような類の力であるということです。そしてもうひとつは,ここで考えるといわれているのは,スピノザが認識の種類として知覚と概念を厳密に区分する場合の,概念に妥当するということです。
 証明は容易です。まず第一部定理一一により,神の本性は神自身の原因です。次に第一部定理一六により,神の本性はすべてのものの原因でもあります。したがってこの限りおいて,神の力というものと神の本性というものは,実は同一のものであるということが理解できます。いい換えれば,もしも僕たちがあるものが神の力の中に存在するということを十全に概念するとするならば,それは神の本性から必然的に生起するということ,あるいはそのような仕方で必然的に生起するように神の本性のうちに含まれているということを十全に概念しているのと同じであるということになります。しかるに,第一部定義六によって神は実体であり,そのゆえに第一部定理七によって,神の本性には神の存在というのが属しているのです。よってあるものが生起するように神の本性のうちに含まれているとするなら,こうしたものの存在もまた神の本性のうちに属しているということになります。よって神の力の中に存在すると十全に概念されるあらゆるものは,必然的に存在するということになります。

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