スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&同一性

2014-05-14 19:52:59 | 将棋
 十勝川温泉で指された第25期女流王位戦五番勝負第二局。
 清水市代女流六段の先手で,甲斐智美女流王位が横歩取りに誘導。しかし先手が取れる横歩を取らなかったので相掛りに。先手が浮飛車で早繰り銀という攻撃型,後手は引飛車の腰掛銀でそれを迎撃するという戦型に。開戦後に長い中盤戦になりましたから,局面の善し悪しとは別に,迎撃側に利のある展開であったといえそうです。
                         
 ちょうど100手目ですが,まだ終盤とはいえないと思います。ただ先手はこのまま長引かせるとと金を作られてじり貧になりそうです。というわけで▲3三歩と打っていきました。△同桂▲同角成△同金までは一本道。▲2五桂と打っても取られることになりそうなので▲3四歩。△同金は当然で▲3五歩。これは銀で取ると▲5五角,金で取ると▲同角△同銀▲3四金で面倒なことになりかねないので△2四金。先手は▲5五角△同銀▲同歩と,駒損ながら守りの銀を入手。しかし△3七歩成とされました。
                         
 ここで一旦は▲2五歩と打ち,△同金となりましたが,それ以上の継続手があるわけでなく,▲5六銀直と受けることに。そこで△3五金と取られ,一歩を丸損したような進展に。これでは先手がいけないと思われます。
 第1図からこのような手順しかなかったとすれば,実際にはすでに大差がついていたということなのでしょう。以降も将棋は続きましたが,先手の好機が盤上に出現することはありませんでした。
 甲斐女流王位が勝って1勝1敗。第三局は21日です。

 実体と属性の区別が理性的区別にすぎないという僕の見解は,一般に事物とその事物の本性の区別は理性的区別であるという見解から生じます。いい換えれば,一般的に妥当である事柄を,ある具体例に適用しているということです。そしてこのことは,事物が形相的に存在するという場合よりも,事物が客観的に知性によって十全に認識されるという場合について考える方が,容易に理解できると思われます。
 平面上に描かれる三角形の本性には,その内角の和が二直角であるということが含まれます。スピノザはこの実例を用いることによって第二部定理四九を証明し,個々の観念と個々の意志作用が同一のものであると結論しています。いうまでもなくそれは,平面上の三角形と,内角の和が二直角である図形の同一性を示します。実際,平面上の三角形を十全に認識することと,内角の和が二直角である図形を認識することは,表現上の相違があるだけで,同じ観念対象ideatumを認識しているといえます。これらは一方がなければ他方が,他方がなければ一方が,あることも考えられることもできないという関係にあるので,確かに第二部定義二の具体例のひとつであるといえます。
 よってこれを一般化したならば,ある事物とその事物の本性は,表現上は相違があったとしても,実際には同一性を有するということになります。この表現上の相違について,僕は理性的区別といっていることになります。つまり事物とその本性の区別は理性的区別です。よって実体とその属性の区別は理性的区別です。つまり神と延長の属性の区別は理性的区別ですし,神と思惟の属性の区別も理性的区別であることになります。観念対象ideatumとしての神と属性を,僕は同一視するということです。
 ですから第一部定理一〇は,第一部定義三から直接的に帰結します。というよりも,そもそも第一部定義三と第一部定理一〇というのは,理性的にしか区別できないという方が正しいくらいだと思います。いい換えればそれら各々の部分でいわれている内容というのは,同一性を有しているというべきだと思います。

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