『こころ』では先生も私も名乗りません。先生は親友を頭文字で表し,私は先生を先生と呼びます。このように主要登場人物の名前が不明になっています。しかしひとりだけ名前が明らかになっているのがお嬢さん=奥さんで,彼女は静という名前です。『夏目漱石「こゝろ」を読み直す』では,この静という名前には意図があると論じられています。
先生は乃木大将の殉死を契機に自殺を決意します。この乃木大将の妻が静という名前であったそうです。水川はそれは単に一致しているだけではないと考えています。乃木の殉死は静との心中でした。漱石はその心中に否定的だったというのが水川の論旨です。
これは作家論と作品論のうち,作家論に属するので,僕はあまり興味がありません。しかし『こころ』という物語の中で自殺を決意する先生が乃木の殉死をどのように考えていたかということを遺書のテクストから把握する場合には,水川の主張には一理あるように僕には思えます。
先生が乃木の殉死を号外で知るのは下五十六です。先生は遺書には著していませんが,きっとその号外にはそれが心中であったことも書かれていたと思われます。それから2,3日して先生も自殺を決意します。そこには奥さんを残して死ぬこと,奥さんに残酷な恐怖を与えることを好まないこと,奥さんに血の色さえ見せずに死ぬことなどを書き連ねています。この部分は明らかに心中することなどは先生には少しも考えられなかったということを示していると理解できます。ですから先生が乃木の心中を肯定する気持ちにはなれなかったことは,確かだろうと僕は考えます。
実際に乃木の心中がどのような行為であったのかは関係ないのです。水川の論述が,その心中を漱石がどのように考えたかという,漱石の認識にのみ焦点を当てて展開されているのと同じように,先生がそれをどのように認識していたかだけに僕は注目します。テクストは心中に否定的であったことを示していると考えます。
スチュアートとナドラーの説は明らかに食い違っていますが,ファン・ローンJoanis van Loonの記述は,どちらかに軍配を上げることができるようになっていないと僕は考えます。
『人と思想 スピノザ』の工藤は,ナドラーSteven Nadlerと同じように,ファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenの開校は1952年としています。ただし工藤説では,エンデンのアムステルダムAmsterdam移住が1645年になっています。1645年は1640年代前半とはいえないでしょう。また,ナドラーが1643年に娘が産まれて間もなくエンデンが移住したというとき,間もなくが2年後を想定しているとも思えません。つまり移住の時期に関しては,ローンとナドラーには一致点があるものの,工藤とは食い違っていると僕は判断します。
工藤がエンデンの移住から開校の期間を7年としていることに意味を見出すべきかどうか,僕は判断できません。もし工藤が想定しているよりエンデンの移住が早いのであれば,開校の時期もそれに準じて早まるのだと考えることもできますし,開校の時期は変わらないとも考えられるからです。ただ,ジャン・ルイの手紙が書かれたのが1950年であり,その時点でスピノザがエンデンにラテン語を習っていたのでそれに習熟していたと考えるなら,どちらで考えようとも工藤の説はそれを認めないことになると思います。
エンデンのアムステルダム移住の年号を特定することの判断も僕にはできませんが,少なくとも1943年に娘が誕生したとき,エンデンはまだアントワープにいたとするナドラーの記述は,信用性が高いのではないかと思います。記述が断定的なのは,調査によって確定できると考えたからだと判断するからです。
一方,ローンの記述のうち,まだ20歳になる前のスピノザ,すなわち1952年を迎える前のスピノザが,ラテン語に習熟していたという記述も,僕は信用できると判断します。この部分は明らかに再構成されているとはいっても,エンデンと思しき人物とスピノザが出会ったということは推定になっているのに対し,ラテン語については確定だからです。そしてこれはルイの報告とも合致するからです。このふたつが僕の判断の前提です。
先生は乃木大将の殉死を契機に自殺を決意します。この乃木大将の妻が静という名前であったそうです。水川はそれは単に一致しているだけではないと考えています。乃木の殉死は静との心中でした。漱石はその心中に否定的だったというのが水川の論旨です。
これは作家論と作品論のうち,作家論に属するので,僕はあまり興味がありません。しかし『こころ』という物語の中で自殺を決意する先生が乃木の殉死をどのように考えていたかということを遺書のテクストから把握する場合には,水川の主張には一理あるように僕には思えます。
先生が乃木の殉死を号外で知るのは下五十六です。先生は遺書には著していませんが,きっとその号外にはそれが心中であったことも書かれていたと思われます。それから2,3日して先生も自殺を決意します。そこには奥さんを残して死ぬこと,奥さんに残酷な恐怖を与えることを好まないこと,奥さんに血の色さえ見せずに死ぬことなどを書き連ねています。この部分は明らかに心中することなどは先生には少しも考えられなかったということを示していると理解できます。ですから先生が乃木の心中を肯定する気持ちにはなれなかったことは,確かだろうと僕は考えます。
実際に乃木の心中がどのような行為であったのかは関係ないのです。水川の論述が,その心中を漱石がどのように考えたかという,漱石の認識にのみ焦点を当てて展開されているのと同じように,先生がそれをどのように認識していたかだけに僕は注目します。テクストは心中に否定的であったことを示していると考えます。
スチュアートとナドラーの説は明らかに食い違っていますが,ファン・ローンJoanis van Loonの記述は,どちらかに軍配を上げることができるようになっていないと僕は考えます。
『人と思想 スピノザ』の工藤は,ナドラーSteven Nadlerと同じように,ファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenの開校は1952年としています。ただし工藤説では,エンデンのアムステルダムAmsterdam移住が1645年になっています。1645年は1640年代前半とはいえないでしょう。また,ナドラーが1643年に娘が産まれて間もなくエンデンが移住したというとき,間もなくが2年後を想定しているとも思えません。つまり移住の時期に関しては,ローンとナドラーには一致点があるものの,工藤とは食い違っていると僕は判断します。
工藤がエンデンの移住から開校の期間を7年としていることに意味を見出すべきかどうか,僕は判断できません。もし工藤が想定しているよりエンデンの移住が早いのであれば,開校の時期もそれに準じて早まるのだと考えることもできますし,開校の時期は変わらないとも考えられるからです。ただ,ジャン・ルイの手紙が書かれたのが1950年であり,その時点でスピノザがエンデンにラテン語を習っていたのでそれに習熟していたと考えるなら,どちらで考えようとも工藤の説はそれを認めないことになると思います。
エンデンのアムステルダム移住の年号を特定することの判断も僕にはできませんが,少なくとも1943年に娘が誕生したとき,エンデンはまだアントワープにいたとするナドラーの記述は,信用性が高いのではないかと思います。記述が断定的なのは,調査によって確定できると考えたからだと判断するからです。
一方,ローンの記述のうち,まだ20歳になる前のスピノザ,すなわち1952年を迎える前のスピノザが,ラテン語に習熟していたという記述も,僕は信用できると判断します。この部分は明らかに再構成されているとはいっても,エンデンと思しき人物とスピノザが出会ったということは推定になっているのに対し,ラテン語については確定だからです。そしてこれはルイの報告とも合致するからです。このふたつが僕の判断の前提です。
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