天龍の雑感⑤の続きです。
ジャンボ・鶴田と天龍源一郎のリング外の付き合い,つまり個人的な付き合いは,さほど深くなかったようです。これは⑤で示したふたりの人間性の相違がそうさせたともいえるでしょうし,天龍自身が大相撲出身であるということに強いプライドを有していたことも一因とはなっていたと思われます。
③で示しておいたように,天龍の入団直後はふたりの個人的な仲は良好でした。とくにこの時期の天龍は,まだレスラーの友人が少なかったため,よく飲みにいったそうです。天龍はデビューした後,アメリカでの修行と日本での試合を繰り返していたのですが,少なくとも2度目のアメリカでの修行から帰ってきた後までは,ずっと遊んでいたと語っています。しかしその後の日米の往復を繰り返しているうちに,疎遠になりました。天龍はそのことを,ウマが合わなかったからといっています。ただそれは,鶴田以外に気の合うプロレスラー仲間ができたからでもあります。鶴田と疎遠になった頃から親しくなっていったレスラーとして,グレート・小鹿,大熊元司,ザ・グレート・カブキ,ロッキー・羽田の4人の名前を天龍はあげています。このうちカブキ以外の3人は大相撲の出身者ですから,鶴田よりもウマが合ったというのは頷ける話です。
鶴田は大勢でワイワイやるのは無為な時間だと思っていたのではないかと天龍は推測していますので,おそらく鶴田と天龍の仲が良好であった頃は,ふたりだけで飲みに行っていたのだと思われます。試合後に親睦のためにちゃんこを食べるということがこの当時の全日本プロレスではあったようですが,鶴田はすぐに食べ終えて,自室に帰っていたと天龍は証言しています。こういう場ではプロレス界の政治的な話もあったようですが,鶴田はそういう話には興味がなかったのでしょう。天龍はそのゆえに鶴田は大局を見る人間ではなかったと言っていますが,これも就職すると言って入団した鶴田の人間性に由来するものといえそうです。
フッデJohann Huddeの場合を考慮すれば,書簡でスピノザに延長の属性Extensionis attributumおよび思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態と間接無限様態について質問をしたのはチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausだけであったと断定的にいうことができます。ですが,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの場合を考えると,事情が異なってきます。というのは,ライプニッツの書簡のうち,遺稿集Opera Posthumaに掲載された書簡四十五と書簡四十六は,哲学的な面ではさほど重要な事柄が記述されているわけではありません。むしろ掲載を見送られた書簡のうちに,スピノザが哲学的にあるいは神学的に,重要なことを言っていた可能性はかなり高いように推測されます。それはおそらくフッデの書簡と同じかあるいはそれ以上に遺稿集に掲載する価値があった筈です。ですからフッデの場合だけで結論を出すのは十分でないのは事実です。
まず基本的に,ライプニッツの書簡についてはかなり例外的な取り扱いを受けたのは間違いありません。そもそもライプニッツは,自身のすべての書簡が遺稿集に掲載されることを拒否していましたから,書簡四十五と書簡四十六が掲載されたこと自体が,手違いだったことになるのです。ではなぜそういう手違いが生じたのかというと,これは僕の推測にすぎないのですが,ライプニッツが書簡の掲載を拒否しているという事実が,編集者の間では必ずしも共有されていなかったのではないでしょうか。
編集者のうち,シュラーGeorg Hermann Schullerはライプニッツの知り合いで,ライプニッツは自身の要望をシュラーに伝えました。『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,シュラーは編集者ではあったけれど,それほど力があったわけではないので,書簡四十五と書簡四十六は掲載されてしまったとされています。しかしこの説明にはひとつだけ弱点があります。それは,ほかの編集者たちが掲載したいと思った書簡があったとすれば,それはこれ以外の書簡であった筈だという点です。そちらが掲載を見送られたのは,間違いなくシュラーの手腕によるところだったと解するべきでしょうから,シュラーに力がなかったというのも変ですし,掲載されたのが哲学的に重要でないものになったということについても説明がつきません。ですからここではそれとは別の推測をします。
ジャンボ・鶴田と天龍源一郎のリング外の付き合い,つまり個人的な付き合いは,さほど深くなかったようです。これは⑤で示したふたりの人間性の相違がそうさせたともいえるでしょうし,天龍自身が大相撲出身であるということに強いプライドを有していたことも一因とはなっていたと思われます。
③で示しておいたように,天龍の入団直後はふたりの個人的な仲は良好でした。とくにこの時期の天龍は,まだレスラーの友人が少なかったため,よく飲みにいったそうです。天龍はデビューした後,アメリカでの修行と日本での試合を繰り返していたのですが,少なくとも2度目のアメリカでの修行から帰ってきた後までは,ずっと遊んでいたと語っています。しかしその後の日米の往復を繰り返しているうちに,疎遠になりました。天龍はそのことを,ウマが合わなかったからといっています。ただそれは,鶴田以外に気の合うプロレスラー仲間ができたからでもあります。鶴田と疎遠になった頃から親しくなっていったレスラーとして,グレート・小鹿,大熊元司,ザ・グレート・カブキ,ロッキー・羽田の4人の名前を天龍はあげています。このうちカブキ以外の3人は大相撲の出身者ですから,鶴田よりもウマが合ったというのは頷ける話です。
鶴田は大勢でワイワイやるのは無為な時間だと思っていたのではないかと天龍は推測していますので,おそらく鶴田と天龍の仲が良好であった頃は,ふたりだけで飲みに行っていたのだと思われます。試合後に親睦のためにちゃんこを食べるということがこの当時の全日本プロレスではあったようですが,鶴田はすぐに食べ終えて,自室に帰っていたと天龍は証言しています。こういう場ではプロレス界の政治的な話もあったようですが,鶴田はそういう話には興味がなかったのでしょう。天龍はそのゆえに鶴田は大局を見る人間ではなかったと言っていますが,これも就職すると言って入団した鶴田の人間性に由来するものといえそうです。
フッデJohann Huddeの場合を考慮すれば,書簡でスピノザに延長の属性Extensionis attributumおよび思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態と間接無限様態について質問をしたのはチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausだけであったと断定的にいうことができます。ですが,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの場合を考えると,事情が異なってきます。というのは,ライプニッツの書簡のうち,遺稿集Opera Posthumaに掲載された書簡四十五と書簡四十六は,哲学的な面ではさほど重要な事柄が記述されているわけではありません。むしろ掲載を見送られた書簡のうちに,スピノザが哲学的にあるいは神学的に,重要なことを言っていた可能性はかなり高いように推測されます。それはおそらくフッデの書簡と同じかあるいはそれ以上に遺稿集に掲載する価値があった筈です。ですからフッデの場合だけで結論を出すのは十分でないのは事実です。
まず基本的に,ライプニッツの書簡についてはかなり例外的な取り扱いを受けたのは間違いありません。そもそもライプニッツは,自身のすべての書簡が遺稿集に掲載されることを拒否していましたから,書簡四十五と書簡四十六が掲載されたこと自体が,手違いだったことになるのです。ではなぜそういう手違いが生じたのかというと,これは僕の推測にすぎないのですが,ライプニッツが書簡の掲載を拒否しているという事実が,編集者の間では必ずしも共有されていなかったのではないでしょうか。
編集者のうち,シュラーGeorg Hermann Schullerはライプニッツの知り合いで,ライプニッツは自身の要望をシュラーに伝えました。『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,シュラーは編集者ではあったけれど,それほど力があったわけではないので,書簡四十五と書簡四十六は掲載されてしまったとされています。しかしこの説明にはひとつだけ弱点があります。それは,ほかの編集者たちが掲載したいと思った書簡があったとすれば,それはこれ以外の書簡であった筈だという点です。そちらが掲載を見送られたのは,間違いなくシュラーの手腕によるところだったと解するべきでしょうから,シュラーに力がなかったというのも変ですし,掲載されたのが哲学的に重要でないものになったということについても説明がつきません。ですからここではそれとは別の推測をします。
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