12月27日に行われた広島記念の決勝。並びは山口‐皿屋‐吉田の中部,野原に鈴木,町田に佐々木‐阿部の北日本で松谷は単騎。
野原がスタートを取って前受け。3番手に松谷,4番手に町田,7番手に山口で周回。残り3周のバックから山口が上昇開始。前まではいかずに町田の外で蓋をしながら併走。内に包まれることを嫌った町田は引いたので,山口が松谷の後ろになりました。下げた町田はすぐに発進。バックで野原を叩き,4番手に野原,6番手に松谷,7番手に山口という一列棒状になって打鐘。このまま最終周回のバックまで動きがなく,ここから野原が発進。佐々木が番手捲りで対応しようとしましたが,野原があっさりと乗り越えました。続いた鈴木とのマッチレースになりましたが,差し脚を封じた野原が優勝。マークの鈴木が1車輪差の2着に続いてこのラインのワンツー。松谷の後ろから外を捲り追い込むレースになった山口が1車身差で3着。
優勝した福井の野原雅也選手は記念競輪初優勝。このレースは町田と山口が互いに意識し合い過ぎた結果,町田は早い段階から駆けて山口は後方に置かれてしまい,表現として適切かどうかは分かりませんが共倒れのようなレースに。脚力だけなら松谷と野原が上なので,4番手を取った野原にとっては有利になりました。松谷は単騎なので仕方がなかったのかもしれませんが,やや消極的なレースだったように思います。野原はまだ26歳ですから伸びしろはあるでしょうが,昨年はこれ以外にはFⅠで1回の優勝があるだけですから,上位で定着するためにはもっと力をつける必要がありそうです。
これでみれば分かるように,ガリレイGalileo Galileiが『新科学対話Discorsi e dimostrazioni matematiche, intorno a due nuove scienze attenenti alla mecanica ed i movimenti locali』の中でいっている連続体についての言及と,スピノザが書簡十二の中で無限様態modus infinitusについて言及している部分には,明らかな類似性があるといえるでしょう。どちらもそれは無限infinitumでもあるし有限finitumでもあるという点で一致しているからです。実際に河合もコラムの中では,この類似性に着目しています。ただ僕は,この類似性に関しては,河合がそこで指摘していない注意点があると思っています。そのことを詳しく考察していくことにします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/a8/3975ecbe0daebee37a14e0db962a5a3a.jpg)
ガリレイは連続体の部分について,それは可能性としては無限で,現実的には有限といっていました。このとき,ガリレイがそれを意識しているかどうかはまったく分からないのですが,可能的であるということと現実的であるということは,哲学的な分類として存在するものなのです。ここでは『エチカ』でいわれていることと関連させるために,知性intellectusの分類について説明します。すなわち可能的知性intellectus potentiaと現実的知性intellectus actuという分類です。
哲学の世界で可能的知性といえば,思惟活動の前における知性の状態のことを意味します。いい換えれば,思惟活動そのものというよりは,知性が潜在的に有している力potentiaのことを意味します。これに対して現実的知性といえば,これは知性が思惟活動をしているその状態のことを意味します。いい換えれば,何らかの思惟作用そのものについて,それは現実的知性といわれることになるのです。これはアリストテレスAristotelēsの思想に端を発する分類ですから,哲学の中ではかなり長い歴史をもつものです。
ガリレイは,連続体の部分は分割される前には可能性として無限であり,分割されれば現実的に有限であるといっていました。したがって,単に可能的でありまた現実的であるということばの上での一致だけが類似しているのではないことになります。分割される前が可能的に無限であるのに対し,思惟活動に至る以前の力が可能的知性といわれます。そして現実的に分割された連続体の部分のことが有限といわれるのに対し,思惟する作用そのもののことが現実的知性といわれているからです。ここには明らかにパラレルな関係があるといえるでしょう。
野原がスタートを取って前受け。3番手に松谷,4番手に町田,7番手に山口で周回。残り3周のバックから山口が上昇開始。前まではいかずに町田の外で蓋をしながら併走。内に包まれることを嫌った町田は引いたので,山口が松谷の後ろになりました。下げた町田はすぐに発進。バックで野原を叩き,4番手に野原,6番手に松谷,7番手に山口という一列棒状になって打鐘。このまま最終周回のバックまで動きがなく,ここから野原が発進。佐々木が番手捲りで対応しようとしましたが,野原があっさりと乗り越えました。続いた鈴木とのマッチレースになりましたが,差し脚を封じた野原が優勝。マークの鈴木が1車輪差の2着に続いてこのラインのワンツー。松谷の後ろから外を捲り追い込むレースになった山口が1車身差で3着。
優勝した福井の野原雅也選手は記念競輪初優勝。このレースは町田と山口が互いに意識し合い過ぎた結果,町田は早い段階から駆けて山口は後方に置かれてしまい,表現として適切かどうかは分かりませんが共倒れのようなレースに。脚力だけなら松谷と野原が上なので,4番手を取った野原にとっては有利になりました。松谷は単騎なので仕方がなかったのかもしれませんが,やや消極的なレースだったように思います。野原はまだ26歳ですから伸びしろはあるでしょうが,昨年はこれ以外にはFⅠで1回の優勝があるだけですから,上位で定着するためにはもっと力をつける必要がありそうです。
これでみれば分かるように,ガリレイGalileo Galileiが『新科学対話Discorsi e dimostrazioni matematiche, intorno a due nuove scienze attenenti alla mecanica ed i movimenti locali』の中でいっている連続体についての言及と,スピノザが書簡十二の中で無限様態modus infinitusについて言及している部分には,明らかな類似性があるといえるでしょう。どちらもそれは無限infinitumでもあるし有限finitumでもあるという点で一致しているからです。実際に河合もコラムの中では,この類似性に着目しています。ただ僕は,この類似性に関しては,河合がそこで指摘していない注意点があると思っています。そのことを詳しく考察していくことにします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/a8/3975ecbe0daebee37a14e0db962a5a3a.jpg)
ガリレイは連続体の部分について,それは可能性としては無限で,現実的には有限といっていました。このとき,ガリレイがそれを意識しているかどうかはまったく分からないのですが,可能的であるということと現実的であるということは,哲学的な分類として存在するものなのです。ここでは『エチカ』でいわれていることと関連させるために,知性intellectusの分類について説明します。すなわち可能的知性intellectus potentiaと現実的知性intellectus actuという分類です。
哲学の世界で可能的知性といえば,思惟活動の前における知性の状態のことを意味します。いい換えれば,思惟活動そのものというよりは,知性が潜在的に有している力potentiaのことを意味します。これに対して現実的知性といえば,これは知性が思惟活動をしているその状態のことを意味します。いい換えれば,何らかの思惟作用そのものについて,それは現実的知性といわれることになるのです。これはアリストテレスAristotelēsの思想に端を発する分類ですから,哲学の中ではかなり長い歴史をもつものです。
ガリレイは,連続体の部分は分割される前には可能性として無限であり,分割されれば現実的に有限であるといっていました。したがって,単に可能的でありまた現実的であるということばの上での一致だけが類似しているのではないことになります。分割される前が可能的に無限であるのに対し,思惟活動に至る以前の力が可能的知性といわれます。そして現実的に分割された連続体の部分のことが有限といわれるのに対し,思惟する作用そのもののことが現実的知性といわれているからです。ここには明らかにパラレルな関係があるといえるでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます