ナイター開催となったので20時10分の発走になった第63回全日本2歳優駿。

ゲート内でも暴れていたアメイジアが,発走後に右に大きくよれ,騎手がバランスを崩して落馬。先手を奪ったのはサマリーズで2番手がキタサンオーゴン。その後ろは外がタプロームで内がジェネラルグラント。さらにドコフクカゼまでは集団。前半の800mは50秒9で,これはスローペースといっていいくらいのミドルペース。
向正面でアップトゥデイトが外を進出。残り800mから一気にペースアップし,空馬に絡まれた影響もあったかもしれませんが,3コーナーからサマリーズが後続との差を広げていきました。結果的にはむしろこれがプラスとなり,直線はその空馬と併せるような形となったサマリーズが3馬身差で逃げ切って優勝。内目でそつのないレースをしたジェネラルグラントが2着。直線はジェネラルグラントと外のアウトジェネラルの間を割って伸びたアップトゥデイトが4分の3馬身差で3着。
優勝したサマリーズは10月に芝でデビューし4着。その後はダートに矛先を改め,未勝利,500万特別を連勝していました。前走はかなり後ろから差し切ってのもので,逃げるとは意外。ただ,連勝は1200と1400でしたから,スピード能力はここでは上だったよう。レース展開でいえば恵まれた部分があったとは思いますが,後ろを離していますので,今後の活躍も十分に期待できそう。ただ,距離が延びるのはプラスにはならないようにも思えます。Someriesはイギリスの牧場の名前のようです。

騎乗した藤岡佑介騎手は一昨年のJBCスプリント以来の大レース2勝目。管理している父の藤岡健一調教師は大レース初勝利となりました。
これを考えるためにはまず,スピノザの哲学,なかんずく『エチカ』における意識と無意識の問題に注意を払っておかなければなりません。
Aの精神のうちにXの観念があるということ,いい換えればAの精神の本性を構成すると説明される限りで神のうちにXの観念があるということ,これがAがXを認識するということの意味です。しかしこのことのうちには,Aがそれに関して自覚的であるということが含まれているわけではありません。以前にスピノザの哲学の認識論について考察したときに,精神というのは一種の自動機械なのであって,認識というのは主体によるある作用ないしは操作ではないということを,ひとつの特徴として提示しました。そしてそれと同様に,この認識作用というのは,それ自体が主体によって意識化されているというものではないということも,やはりスピノザの哲学の認識論の,大きな特徴のひとつであるといえると僕は思います。
つまり,AのうちにXの観念があるということ,いい換えればAがXを認識するということは,AがXを意識するという意味ではありません。僕がこれをAの精神の本性を構成すると説明される限りで神のうちにXの観念があるといったのは,これを第二部定理一一の具体的意味と関連付けるためです。要するにAがXを認識するということが,AがXを意識するという意味ではないということは,この場合のXの観念が十全な観念であろうと混乱した観念であろうと,同じように妥当するということです。
ではこのことが具体的に何を意味しているのかといえば,それはAの精神の無意識を表しているということになります。一方,それではAの精神の意識の領域はどのように表現されるのかといえば,それはAの精神のうちにXの観念の観念があるという場合になります。いい換えれば,Aの精神の本性を構成すると説明される限りでXの観念の観念が神のうちにあるという場合に,初めてAはXを意識するということになるのです。
一般に精神が事物を認識するということは,精神がその事物を観念として意識すると理解されがちです。しかし『エチカ』においてはこの常識は通用しないのです。

ゲート内でも暴れていたアメイジアが,発走後に右に大きくよれ,騎手がバランスを崩して落馬。先手を奪ったのはサマリーズで2番手がキタサンオーゴン。その後ろは外がタプロームで内がジェネラルグラント。さらにドコフクカゼまでは集団。前半の800mは50秒9で,これはスローペースといっていいくらいのミドルペース。
向正面でアップトゥデイトが外を進出。残り800mから一気にペースアップし,空馬に絡まれた影響もあったかもしれませんが,3コーナーからサマリーズが後続との差を広げていきました。結果的にはむしろこれがプラスとなり,直線はその空馬と併せるような形となったサマリーズが3馬身差で逃げ切って優勝。内目でそつのないレースをしたジェネラルグラントが2着。直線はジェネラルグラントと外のアウトジェネラルの間を割って伸びたアップトゥデイトが4分の3馬身差で3着。
優勝したサマリーズは10月に芝でデビューし4着。その後はダートに矛先を改め,未勝利,500万特別を連勝していました。前走はかなり後ろから差し切ってのもので,逃げるとは意外。ただ,連勝は1200と1400でしたから,スピード能力はここでは上だったよう。レース展開でいえば恵まれた部分があったとは思いますが,後ろを離していますので,今後の活躍も十分に期待できそう。ただ,距離が延びるのはプラスにはならないようにも思えます。Someriesはイギリスの牧場の名前のようです。

騎乗した藤岡佑介騎手は一昨年のJBCスプリント以来の大レース2勝目。管理している父の藤岡健一調教師は大レース初勝利となりました。
これを考えるためにはまず,スピノザの哲学,なかんずく『エチカ』における意識と無意識の問題に注意を払っておかなければなりません。
Aの精神のうちにXの観念があるということ,いい換えればAの精神の本性を構成すると説明される限りで神のうちにXの観念があるということ,これがAがXを認識するということの意味です。しかしこのことのうちには,Aがそれに関して自覚的であるということが含まれているわけではありません。以前にスピノザの哲学の認識論について考察したときに,精神というのは一種の自動機械なのであって,認識というのは主体によるある作用ないしは操作ではないということを,ひとつの特徴として提示しました。そしてそれと同様に,この認識作用というのは,それ自体が主体によって意識化されているというものではないということも,やはりスピノザの哲学の認識論の,大きな特徴のひとつであるといえると僕は思います。
つまり,AのうちにXの観念があるということ,いい換えればAがXを認識するということは,AがXを意識するという意味ではありません。僕がこれをAの精神の本性を構成すると説明される限りで神のうちにXの観念があるといったのは,これを第二部定理一一の具体的意味と関連付けるためです。要するにAがXを認識するということが,AがXを意識するという意味ではないということは,この場合のXの観念が十全な観念であろうと混乱した観念であろうと,同じように妥当するということです。
ではこのことが具体的に何を意味しているのかといえば,それはAの精神の無意識を表しているということになります。一方,それではAの精神の意識の領域はどのように表現されるのかといえば,それはAの精神のうちにXの観念の観念があるという場合になります。いい換えれば,Aの精神の本性を構成すると説明される限りでXの観念の観念が神のうちにあるという場合に,初めてAはXを意識するということになるのです。
一般に精神が事物を認識するということは,精神がその事物を観念として意識すると理解されがちです。しかし『エチカ』においてはこの常識は通用しないのです。
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