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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

和歌山グランプリ&第四部定理一の意味

2016-01-12 19:04:23 | 競輪
 和歌山記念の決勝。並びは郡司‐田中の南関東,稲毛‐東口‐西岡の和歌山,稲垣‐村上の京都で森川と松浦は単騎。
 田中がスタートを取って郡司の前受け。3番手に稲毛,6番手に松浦,7番手に稲垣,最後尾に森川という周回に。残り3周のバックから稲垣が上昇していくと,森川,松浦とこのラインを追走。ホームで郡司の横まで来ましたが,郡司が誘導の後ろで引かなかったため,しばらく併走が続き,バックに入ってから稲垣が郡司を叩きました。ここから後ろで構えていた稲毛が発進。打鐘にかけて稲垣を叩くと松浦がスイッチして追走。松浦はホームで西岡をどかして3番手に入り,4番手に西岡,5番手に稲垣,7番手を内の郡司と外の森川で併走という隊列に。バックから稲垣が捲っていくと,さすがに東口もブロックはせずに番手から併せて出ていく形。直線は東口と稲垣,そして中を割った村上の競り合いになりましたが,捲り追い込みになった郡司が大外を急襲して優勝。稲垣と郡司の中を割った田中が4分の1車輪差の2着に続いて南関東のワンツー。1車輪差の3着は東口。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は記念競輪初優勝。FⅠなら優勝候補というレベルまでは達していましたので,記念競輪を優勝するチャンスも近いかと思われました。このレースは地元勢と京都勢が別れて戦わざるを得ないメンバー構成となり,互いにやりにくい部分があったのではないかと思います。バックで後方に置かれていたので展開的に恵まれたということはなかったのですが,ほかのラインをあまり気にしないで走ることができる点での有利さはあったかと思います。99期生で25歳ですから,まだ強くなる余地が大いにあるわけで,スターになる可能性を秘めた選手だといえるでしょう。

 アルベルトが地獄を表象し,それに対して不安metusを抱くようになった例や,マインドコントロールが容易になされ得るということから,一般的に次のことがいえることになります。それは,たとえばある人間の知性のうちの,Xの混乱した観念やそれを肯定する意志作用,あるいはその混乱した観念から発生するような感情というのは,そのXの混乱した観念を知性のうちに生じさせるような,別の混乱した観念によって生起しているということであり,かつこのような生起は,現実的に存在する人間の知性のうちには容易に,あるいは頻繁に生じているということです。
 実際,虚偽と誤謬の相違に注目するなら,他面からいえば表象の疑惑の不在を無視すれば,この思惟現象は現実的に存在する人間の知性には不可避であるといえます。というのは,誤謬ではなく単に人間の知性のうちに虚偽が発生するというのは,現実的に存在する人間はきわめて多くのものを知覚するといっているのと同じことだからです。そうであるなら第二部定理一四によって,これが不可避な現象であることは間違いないといえます。そして第一部定理三六により,その混乱した観念はその知性のうちで別の観念あるいはその他の思惟の様態が発生する原因となります。そうして発生するのはまた混乱した観念なのですから,こういう思惟現象は僕たちの精神のうちではほぼ際限なく生じているといえます。
                                     
 このようにして自動的に生じる混乱した観念が含む虚偽の積極性は,真理によっては排除され得ないというのが,第四部定理一の一般的な意味になります。もう少し具体的にいうと,現実的に存在するある人間の知性の一部を構成しているXの混乱した観念が含む虚偽の積極性は,同じその人間の知性のうちにあるXの十全な観念によっては排除され得ないということです。もちろんXの十全な観念を有する知性は,Xの混乱した観念に対しては必然的に疑惑を有することになります。ですからその人間はXに関して誤謬を犯すことはないでしょう。ですが誤謬を排除するということと,虚偽を排除するということは,同じことを意味しません。これも虚偽と誤謬を分けるべき理由です。

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