スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

国際自転車トラック競技支援競輪&誤りの原因

2021-03-21 19:06:14 | 競輪
 宇都宮競輪場で開催された第12回国際自転車トラック競技支援競輪の決勝。並びは佐々木‐杉森の北関東,宿口‐神山の関東,竹内に渡部,小川‐柏野の西国で新田は単騎。
 宿口,柏野,竹内,杉森の4人が前を取りにいきました。誘導の後ろを確保したのは杉森で,佐々木の前受け。3番手に竹内,5番手に宿口,7番手に新田,8番手に小川という周回に。打鐘前のバックから小川がゆっくりと上昇を開始。打鐘で佐々木に近付くと佐々木は突っ張りました。ただ小川も突っ張られることは想定していたようで,杉森の横で張り付くような隊形に。ホームから佐々木の本格的な突っ張り先行になりました。バックから竹内が発進。渡部まで連れて佐々木を捲り切りました。渡部は直線の入口では竹内との車間を少し開け,そこから踏み込むと突き抜けて優勝。竹内と渡部の間を伸びた杉森が半車身差で2着。捲った竹内が4分の3車身差の3着。
 優勝した福島の渡辺幸訓選手は昨年6月の立川のFⅠ以来の優勝。グレードレースは初優勝。この開催は若い選手が中心となりました。決勝に残った選手の中では竹内の力量が最も上だとみていて,実際に先行した佐々木をあっさりと捲り切ることに成功。ただ宇都宮は直線が長い上に,マークの渡部がブロックも受けないでついてきましたので,粘りを欠く形に。竹内の後ろを回る選手がいなかったため,渡部がマークを主張することができましたので,渡部にとってはそのあたりが幸運だったということになるでしょう。

 延長の属性Extensionis attributumによって説明される限りでの神Deusと思惟の属性Cogitationis attributumによって説明される限りでの神をふたつの神と思ってしまうのは,それらが同じ神という語で表現されているからにすぎません。つまり神といういう記号によって神を表象してしまうがゆえに,これらの神は数によって区別することが可能であると思い,ふたつの神であるという誤った結論を出してしますのです。もし神を十全に認識している,いい換えれば延長の属性と思惟の属性を十全に認識しているのであれば,こうした結論を出せないことは理解できる筈です。そして同様に,延長の属性と思惟の属性は,同じ属性という記号によって表現されている神の本性essentiaを構成するものですが,それはふたつの属性という仕方で数によって区別することができるものではなく,実在的に区別される,各々が唯一の属性であることも理解できる筈です。こうした過ちはことばと観念が同じものであると判断するがゆえに生じるのであり,ことばと観念が異なるものであるということを理解しさえすれば,説明としても明瞭判然なものとして帰結するのです。
                                   
 このようにして,神の観念idea Deiということを多様に解釈するとしても,それが第二部定理四とは必ずしも反することはないということも理解できる筈です。というのは,神の観念といわれるときの観念対象ideatumである神がどのように解されるとしても,あるいは神の観念が思惟の属性においてどのような立場であったとしても,観念の対象となっている神が唯一であると認識されているのであれば,第二部定理四でいわれていることは確保されているからです。実際にスピノザは第二部定理四を論証するときに,第一部定理一四系一を援用しています。つまり神が唯一であるということに訴求し,そのために神の観念も唯一でなければならないとしているのです。ですから神の観念が思惟の属性の能産的自然Natura Naturansであろうと直接無限様態であろうと間接無限様態であろうと個物res singularisであろうと,神の観念といわれるときの神が唯一でありさえすれば,いずれの神の観念も唯一なのです。そしてさらにいえば,このような多様な解釈を許容する観念も,神の観念が唯一であるといういい方も可能でしょう。

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