昨日の立川記念の決勝。並びは新田に海老根,河村‐平原‐岡田‐後閑の埼京,原田‐園田の西国で脇本は単騎。
スタートを取って前受けは新田。3番手に原田,5番手に脇本,6番手に河村で周回。残り2周のホームから河村が一気にスピードアップ。誘導との車間を斬って待機していた新田を叩き,離れ加減だった岡田も追いつき4人で前に出て打鐘。このままペースが緩まなかったので新田が5番手,原田が7番手,最後尾に脇本の一列棒状のままホームを通過しました。バックに入ると最後尾から脇本が捲り発進。新田も対応しようとしましたが,車間を開けていた平原も発進したためか車が伸びませんでした。岡田は平原についていかれず,直線では脇本が平原を捕えました。しかし脇本に乗るような形になった原田が大外から脇本を捕えて優勝。1車身差で脇本が2着。さらに2車身差で平原が3着。
優勝した徳島の原田研太朗選手は記念競輪初優勝。昨年くらいから優勝に手が届きそうなくらいの力はつけていると思えたので,優勝自体は驚きではありません。ただ,展開的にいえば平原や新田の方が有利であった筈。平原が末を欠き,新田が好位置からほとんど出ていかれなかったのは意外でした。両選手はグランプリに出走していて,そちらに向けて仕上げていたという面があり,あまりお釣りが残っていなかったのかもしれません。
ここまではXの混乱した観念からみた場合に,なぜそれがXの十全な観念と形而上学的な意味における「共通点」を有していないと考えられるのかということの説明でした。ふたつめはそれとは逆に,Xの十全な観念の方からみたときに,それがXの混乱した観念とは「共通点」を有することができないということの説明になります。これについては僕は第四部定理一を援用します。ですがそれにあたって必要な注意点を示さなければなりません。
スピノザの哲学では,虚偽と誤謬は異なると僕は解しています。すなわち僕はXの混乱した観念というのは,それ自体としてはXに関する虚偽falsitasであるとみなしますが,誤謬errorであるとはみなしません。第二部定理三五で認識の不足といわれるとき,その認識の不足が含まれているという場合に,それを虚偽であると同時に誤謬であるとみなすのです。逆にいうなら認識の不足が含まれていない場合には,虚偽ではあるけれども誤謬ではないとみなすのです。
ステノのローマ教会あるいはローマカトリックの認識についていえば,それは単にステノの知性intellectusのうちに虚偽があったというだけでなく,ステノは誤謬を犯していたのです。なぜなら混乱した観念に対する疑惑の不在というのは,認識の不足を意味していて,ステノの認識には確かに疑惑が不在であったからです。
なぜスピノザの哲学ではこのように虚偽と誤謬を分けて考える必要があるのかといえば,スピノザは混乱した観念もある積極的な要素を有することを認めているからです。いい換えれば虚偽の積極性が存在するということをスピノザは認めているからです。僕はライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの哲学には真理veritasと非真理だけがあるのであって,虚偽という概念notioはないとみなしました。真偽不明であるものを考慮の外に置けば,ライプニッツの哲学にあるのは真理であるものと真理ではないものだけなのであって,真理でないものには何ら積極的要素が含まれているとはいえないからです。逆にスピノザが虚偽にも積極性を認めているということは,第二部定理一七備考によって明らかだといえるでしょう。
この虚偽の積極性は,真理によっては排除することができないのです。
スタートを取って前受けは新田。3番手に原田,5番手に脇本,6番手に河村で周回。残り2周のホームから河村が一気にスピードアップ。誘導との車間を斬って待機していた新田を叩き,離れ加減だった岡田も追いつき4人で前に出て打鐘。このままペースが緩まなかったので新田が5番手,原田が7番手,最後尾に脇本の一列棒状のままホームを通過しました。バックに入ると最後尾から脇本が捲り発進。新田も対応しようとしましたが,車間を開けていた平原も発進したためか車が伸びませんでした。岡田は平原についていかれず,直線では脇本が平原を捕えました。しかし脇本に乗るような形になった原田が大外から脇本を捕えて優勝。1車身差で脇本が2着。さらに2車身差で平原が3着。
優勝した徳島の原田研太朗選手は記念競輪初優勝。昨年くらいから優勝に手が届きそうなくらいの力はつけていると思えたので,優勝自体は驚きではありません。ただ,展開的にいえば平原や新田の方が有利であった筈。平原が末を欠き,新田が好位置からほとんど出ていかれなかったのは意外でした。両選手はグランプリに出走していて,そちらに向けて仕上げていたという面があり,あまりお釣りが残っていなかったのかもしれません。
ここまではXの混乱した観念からみた場合に,なぜそれがXの十全な観念と形而上学的な意味における「共通点」を有していないと考えられるのかということの説明でした。ふたつめはそれとは逆に,Xの十全な観念の方からみたときに,それがXの混乱した観念とは「共通点」を有することができないということの説明になります。これについては僕は第四部定理一を援用します。ですがそれにあたって必要な注意点を示さなければなりません。
スピノザの哲学では,虚偽と誤謬は異なると僕は解しています。すなわち僕はXの混乱した観念というのは,それ自体としてはXに関する虚偽falsitasであるとみなしますが,誤謬errorであるとはみなしません。第二部定理三五で認識の不足といわれるとき,その認識の不足が含まれているという場合に,それを虚偽であると同時に誤謬であるとみなすのです。逆にいうなら認識の不足が含まれていない場合には,虚偽ではあるけれども誤謬ではないとみなすのです。
ステノのローマ教会あるいはローマカトリックの認識についていえば,それは単にステノの知性intellectusのうちに虚偽があったというだけでなく,ステノは誤謬を犯していたのです。なぜなら混乱した観念に対する疑惑の不在というのは,認識の不足を意味していて,ステノの認識には確かに疑惑が不在であったからです。
なぜスピノザの哲学ではこのように虚偽と誤謬を分けて考える必要があるのかといえば,スピノザは混乱した観念もある積極的な要素を有することを認めているからです。いい換えれば虚偽の積極性が存在するということをスピノザは認めているからです。僕はライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの哲学には真理veritasと非真理だけがあるのであって,虚偽という概念notioはないとみなしました。真偽不明であるものを考慮の外に置けば,ライプニッツの哲学にあるのは真理であるものと真理ではないものだけなのであって,真理でないものには何ら積極的要素が含まれているとはいえないからです。逆にスピノザが虚偽にも積極性を認めているということは,第二部定理一七備考によって明らかだといえるでしょう。
この虚偽の積極性は,真理によっては排除することができないのです。
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