スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

スピノザと貿易&歯の痛み

2013-10-19 20:34:35 | 哲学
 実父の死後,経営者として貿易に携わっていた時期があったということが,スピノザにとって経済的自由の重要性を意識することになった理由のひとつではないかと僕は思っています。ただ,父親が死んだからといって,すぐに貿易の仕事ができるようになるとも思えません。父の存命中から,スピノザは何らかの形で貿易に関わっていたと理解する方が妥当ではないかと思います。
                         
 『ある哲学者の人生』によれば,スピノザが通っていた学校の記録から類推すれば,スピノザが14歳の頃には,すでにその仕事に就いていたと考えることが可能のようです。父の死はスピノザが21歳のときのことですから,この場合だと6年以上は父を助ける形で貿易に携わっていたことになります。時期の特定は僕には不可能ですが,父の死の以前から,貿易に関わっていたということは,間違いのないことなのではないかと僕は思います。
                         
 『スピノザ入門』では,それまで信じられていたように,スピノザがラビになることを期待されていたというのは間違いであるといわれていました。そしてそのことは,この事実からも裏付けられるように思います。というのも,確かにスピノザが自主的に学校に通うことをやめ,父の手伝いをするようになったという可能性もあるにはあるでしょうが,後のスピノザの哲学者としての人生から考えるなら,むしろ父に請われて手伝うようになったと判断する方が,正しいのではないかと思われるからです。そしてこの推測が正しいのだとすれば,少なくともスピノザの父親は,スピノザがラビとして生きることよりも,商人として自分の後を継ぐことを期待していたということになるでしょう。
 理由はどうあれ,わりと早い時期からスピノザが貿易に関わっていたことは間違いないと思います。そしてそこで出会った商人の仲間たちは,その後のスピノザの哲学に対して,わりと重要な存在であったのではないかと僕には思えるのです。

 お盆の墓参りに行った週の週末は,12日の金曜日にまた母がI歯科に。これは前の週に架けたブリッジの調整のため。もっとも,調整といいましてもブリッジは機能していたようなので,実際に何か修正を施したということはなかったようです。ついでですから歯石の除去も行いました。これで治療は終了。次回は定期的な歯科検診で,概ね3ヶ月後ということになるのですが,このときの母には別の問題が生じていました。ブリッジを架けたのとは反対側の歯が沁みるようになっていたのです。
 僕もかつて,右側の歯の虫歯を治療したら,それまでは感じていなかった痛みが反対の左側で感じられるようになったということがありました。そのときはブリッジの中で虫歯が進行していて,結果的にブリッジを外して治療,そして新しいブリッジを架けたわけです。おそらく人間は歯の痛みを,最も悪化している部分に感じるものなのでしょう。このためにその部分の痛みが除去されると,次に悪化している部分があるなら,そちらに新しい痛みを感じるようになるということなのだろうと思います。その部分も痛みの素を発生させてはいたのでしょうが,それ以上の痛みの素を発生させる部分がほかにあれば,軽度の痛みの方は意識に上らず,重度の痛みの方だけを意識するということなのだと思います。僕も母も同じように治療が完了した時点で別の痛みを感じるようになったわけですが,こういうのは人間の身体の本性に属することなのだと思います。
 ただ,この日はその部分の治療は行わなかったとのこと。なのでその部分の治療のために,また予約を入れて家に戻ったようです。僕はこの日は日限山,あるいは下永谷の近辺まで出ていました。
 翌13日の土曜日は母と妹で美容院へ。この日は遅くなりまして,家に戻ったのは午後5時を回っていました。美容院は普段はふたりの美容師がいるそうなのですが,この日は詳細は不明ですがひとりしかいなかったとのこと。そのために遅くなったものでした。
 14日の日曜日は妹のガイドヘルパーを利用しました。この日は,あるいはこの日もというべきでしょうか,本牧でのカラオケでした。
コメント
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