スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋聖戦&検証

2009-06-19 19:27:15 | 将棋
 第80期棋聖戦五番勝負第二局。
 羽生善治棋聖の先手で一手損角換り1-Ⅱ。途中までは挑戦者決定戦と同じ進行。先手から手を変えての戦いとなり,一旦は先手が角銀交換の駒得になるという戦果は上げましたが,これは一時的なもので結局は角と銀2枚の交換に。これで一段落という進展になりましたので,後手が少しリードしたのではないかと思います。第1図。
           
 この▲4六歩は,馬を自陣に引き付ける狙いだったかと思われますがおそらく負けを早めた手。馬引きを許さず,さらに馬を取る△7二金を見せる△6五歩の決め手を与え,しかも後で△2七角から3六の飛車を取られたとき,自玉にとってもマイナスでした。
 この将棋は最後の最後で珍しい筋が出ました。第2図は投了図。
           
 ▲6二龍の王手に△4一玉と4二の玉を引いたところ。ここで▲6一龍と入ると後手は△4二玉と上がり,▲6二龍に△4一玉で同一手順が無際限に繰り返されます。現在の将棋のルールでは同一局面が一局の将棋で4度生じると千日手で指し直し。ところが,もしもそれが王手の連続で生じるなら,王手を掛けている方が手を変えないと反則負けとなります。つまりこの将棋の場合は先手が手を変えなければならないということ。後手玉はそのルールによって逃れたということで,これはかなり珍しいケースだと思います。
 木村一基八段が返して1勝1敗。木村八段にとっては9局目にしてようやくのタイトル戦初勝利となりました。第3局は27日です。

 真理と虚偽のどちらであるのかを単純に問うならば,仮説は常に虚偽であるというのがスピノザの哲学の立場になります。しかしだから仮説は常に誤った内容を言明しているということにはなりません。あるいは,ここで考察している事例に限定していうならば,僕たちがある結果を表象することによってその原因を帰納法的に発見しようとするとき,僕たちが常に正しい原因を発見することができないということにはなりません。このことについてはとくに説明しなくても,経験的に明らかであるといえるでしょう。ただ,それがまだ仮説といわれる段階にあっては,それが正しいと確信できない,誤っているともいいきれないが,絶対に正しいともいえないという状況にあるということで,これはそうした観念が十全でありまた真理であるという条件から外れているということです。
 したがって,このような仮説を何らかの意味で虚偽から真理にしようとするならば,いい換えれば,僕たちの精神のうちにある混乱した観念によって,その混乱した観念と同じ対象を有するような十全な観念を有することができるようになるためには,この仮説に依拠するような何らかの検証が必要になります。そしてその検証というのは,今度は帰納法的な手法ではなくて,演繹法によらなければならないでしょう。そうでなければ僕たちの精神のうちにどんなものであれ十全な観念を形成することはできないということは,第一部公理四によって明らかであるといえるからです。
 よって一般的には次のようになります。僕たちがある結果を表象することによってその原因についての仮説を立てたならば,今度はその原因によって表象したような結果が得られるのかどうかを検証することができれば,僕たちはそれについて何らかの十全な観念をもつことができるでしょう。いい換えれば,その仮説が正しいのか誤っているのかを断定することができるようになるでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする