The Last ward from Southen Cross to my future

目の前にある林檎は本当に林檎なんだろうか。その林檎は腐っているから林檎だって気づかないだけかもしれない。

幸福を手に入れるためには、強い意志が必要だ。

2009-06-07 23:04:32 | Weblog
食、住居、衣服は与えられるものではない。自らが意思を持ち、手に入れる合法的な手段を選択する。その結果、手に入れられるものだ。こんな簡単なことを忘れているのではないだろうか?

自己犠牲で幸福になれるならそれもひとつの選択だろう。しかし、自己犠牲という行為は本当に自ら望んでいるのだろうか? それとも誰かに煽動されているのか、押し付けられているのか?
逃げてばかりでは、目の前の壁は越えられない。問題はいつまでも目の前に存在する。ならば、後退して別な道を探すのがいいのか、考える。
何も失わないで利益だけ手にできるほど世の中甘くない。競争は嫌だ、戦いは悪と信じていたとしてもその価値観は自分以外には通じない。

経済というシステムを発明して、日々の糧を得るだけの生活から人類の歴史は変わった。しかし、過去からあるように略奪という行為は残っている。
自分の利益のために何かを犠牲にする。この犠牲がどこまで許されるのかなんて誰も考えない。また、尺度は何もない。いや、あるとするなら、自己犠牲だけではないと知って欲しい。自分だけが満足するだけの自己犠牲など単に自らの見栄でしかない。本当の自分は何を望むのか考えて欲しい。人が決めたルールに悪も善もない。道徳は人が集まって生きるために快適に暮らせるためのルールをみんなで共有しているだけだ。だから、それは絶対のルールではない。

例えば、毎日好きなだけ酒が飲めるのが幸福なら、それを実現させるための方法を考えればいい。ただし、健康を害してやがては好きな酒も飲めなくなる。度を越した欲望は結局は自らを滅ぼす。だから、制限があるってのはむしろセーフガードでもある。毎日がたいくつで何も困ったこともない。もしかしたら、それが幸福かもしれない。

自由と欲望を履き違えても幸福を見つけることはできない。自分が本当に望むのは欲望なのか、自問自答して欲しい。誰かに聞いても答えはでない。また、誰も個人の望む価値観など理解もできない。答えを出せるのは自分自身であり、その結果、生き方を決めていくものだ。
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