日本という国をその国民が考える場合、 世界のどこの国だとかアジアのどこかとかと比較するばかりだ。そんな目標設定では日本国民は安心してのほほんと自国で生活なんてできる訳がない。考えるのなら、どういった成果をアジア地域で、世界で上げられるのか。それは経済であったり、学術や産業研究発明であったりでよいのだ。平和を維持するために、当然ながら自国の防衛をより効率的に改善することこそ、防衛強化となるので、単純に防衛費増大だとか、国家予算の何%という表現での判断は意味がない。むしろ、敵国相当の国との民間交流を制限できるように一般国民が行動をしていく必要はある。差別というが、自国防衛における敵国人への退去や排除を訴えることは差別とはならない。そんなものは国際法のどこを探してもないし、人権法であっても敵国人で内部侵略および工作員として被害を与える人への排除に対しての差別と定義すらしてない。テロリストに人権うんぬんという団体や組織はある。だが、そういった団体や組織がテトリスとのために各国の裁判で人権侵害と訴えて認められたことはひとつもない。こういった法的証拠を出さないで人権を訴えること自体がおかしいのだ。
人種、宗教や国籍だけで差別はいけないというが、国籍が敵国で工作員の可能性もあるとなれば差別の対象とならないが、防衛の対象としての排除にはなる。米国でかつて日系人や日本人を戦争開始にともなって収容した。人権からすればどうたら、と訴える米国人はいる。だが、防衛として自国民を保護とした視点からすれば、差別とは言い切れないのだ。実際に帰国勧告はあったらしいが、米国人との婚姻や国籍となると日本へ帰国した方が生活できないぐらいにハードルは高かったそうだ。なにせ開戦前の緊張状況ですら、敵国人に相当する米英国籍人への風あたりはきつかったと聞く。それでも地域になじんでいた人たちは食料や医療、教育は受けられたそうだ。ならば一体どこが風の元なのか。差別を考える場合、その差別の発端がどうして生じるのか、その事実を見極めない限り、対処はできない。法的に定めたところで、日常には差別と定義された言葉や現象が溢れている。そりゃ、後世の人が勝手に差別と定義したおかげで先祖たちが築いた数々の文化まで制限されるのだ。ある人権教育において、日本と近隣諸国との間にある第二次世界大戦時の歴史という問題が議題になった。つまり、いつまでも過去にこだわり恨み辛みをネタに揺するような外交を土台とした経済や文化交流がどういった成果が生じ、それがどう人権への変化を組成したのか。なかなか興味深い。結論はでない。だが、言えるのは、過去は未来を繋がる通過点ではあるが、過去から生み出された文化や産業が必ずしも恨みによってではない点。しかし、それでも過去を引き出して相手へいつまでも謝罪や賠償を要求する動機が何なのか、そこが論点の特異点になる。
シリア、南スーダンなどまだまだ難民を生み出している。だが、戦場近くにに残された人たちは逃げたくても逃げるだけの経済力もない。なにせすべてが壊され、財産なんて何もないのだ。裕福な人たちは金銀宝石があるから、逃げていくための運賃、食費などを満たせる。それでもそれが尽きれば、難民キャンプという地獄に行くしかない。国連は難民キャンプを設置するが、そこに収容する人たちの食料や保健衛生まではきちんとできない。例えば、オーストラリアがリモート地域に持つ収容所でも同じ。理由はどちらも予算がないからだ。金があれば十分な食料確保もできるだろう。だが、世界には難民以上の貧困層で餓死するホームレスもたくさんいる。米国も豪州もそういった人ために予算を優先しろ、と訴える国民が多い。これを差別だと人権なんとか団体は言えるのか?自国民より難民を優先する理由が何なのか?命の価値に格差がない、というのなら、優先順位は国民だろう。こういった当然という視点を口にすると「人権を無視」「差別主義者」とレッテルを貼って騒ぐ組織や団体がある。そして、そういった組織や団体が受ける寄付はどこからかを知ると唖然とする。
元南スーダン難民で今は弁護士になった青年は今年オーストラリアン青年賞を受けて自分には不要といった人でもある。彼が書いた本ぐらいを日本も英語教育読本とすればよい。平易な英語で書かれた文章は主人公の心の変化をうまく表現している。何故、戦争が起きるのか、それに対しても日本人が考える視点とはかけ離れた歴史がある。そうすべては歴史。歴史が戦争を生むといっても過言ではないのだ。だから自分は歴史という学問は不要と今でも思ってる。また、自分の友人で船でここにきた難民の話にしても、映画以上の過激な殺戮が普通にある事実を知った。災害と同じようにある日、突然に殺略も来るのだ。そして目の前で死んで行く家族や友人に対して何もできないし、それどころか自らの命をどう守るのかでせいいっぱいという事実。安全な場所で食べ物も眠る場所も得たとしても、彼らは夢に怯え、日常でもフラッシュバックに苦しむ。治療なんてほとんど効かない。知人のベトナム難民だったお年寄りも同じことをいってる。引退し、時間があるようになってからフラッシュバックや悪夢に悩まされることが増えたそうだ。だが、彼らは孫や友人などと過ごすことでそういった過去より現在の価値がいかに重要かを実感できると言っていた。また、オーストラリア人で日本軍の爆撃で家族を失ったお年寄りも改造車などの爆音で爆撃がフラッシュバックされるそうだ。恨みより恐怖と言ってた。ちらし寿司をあげたときに「これが日本の料理と知っても、大好物へ恨みや怒りはないな。」と言った言葉が重い。つまり、文化や自分たち日本人への恨みや怒りはないが、日本という国への怒りや恨みはあるという意味だからだ。
民族の誇りなど現代ではほとんど意味を持たない。王族だからといっても民が自らの王へ敬意すら持たなければ、法であれこれ規制せざるえない。だが、それは民の心までを支配できる訳じゃない。これは王族だけではなく政治家がトップであっても同じ。民主主義を望むのはこういった理由からだ。それでも人気や一部の要望だけでトップを選べばどうなるのか。日本国民はそれを過去に経験しているのだから、二度と同じ過ちを繰り返さないことこそ、平和を維持できる。決して自国の不戦憲法があるから平和な訳じゃない。未だに複数の国は日本領土への侵略行為を繰り返している。
人種、宗教や国籍だけで差別はいけないというが、国籍が敵国で工作員の可能性もあるとなれば差別の対象とならないが、防衛の対象としての排除にはなる。米国でかつて日系人や日本人を戦争開始にともなって収容した。人権からすればどうたら、と訴える米国人はいる。だが、防衛として自国民を保護とした視点からすれば、差別とは言い切れないのだ。実際に帰国勧告はあったらしいが、米国人との婚姻や国籍となると日本へ帰国した方が生活できないぐらいにハードルは高かったそうだ。なにせ開戦前の緊張状況ですら、敵国人に相当する米英国籍人への風あたりはきつかったと聞く。それでも地域になじんでいた人たちは食料や医療、教育は受けられたそうだ。ならば一体どこが風の元なのか。差別を考える場合、その差別の発端がどうして生じるのか、その事実を見極めない限り、対処はできない。法的に定めたところで、日常には差別と定義された言葉や現象が溢れている。そりゃ、後世の人が勝手に差別と定義したおかげで先祖たちが築いた数々の文化まで制限されるのだ。ある人権教育において、日本と近隣諸国との間にある第二次世界大戦時の歴史という問題が議題になった。つまり、いつまでも過去にこだわり恨み辛みをネタに揺するような外交を土台とした経済や文化交流がどういった成果が生じ、それがどう人権への変化を組成したのか。なかなか興味深い。結論はでない。だが、言えるのは、過去は未来を繋がる通過点ではあるが、過去から生み出された文化や産業が必ずしも恨みによってではない点。しかし、それでも過去を引き出して相手へいつまでも謝罪や賠償を要求する動機が何なのか、そこが論点の特異点になる。
シリア、南スーダンなどまだまだ難民を生み出している。だが、戦場近くにに残された人たちは逃げたくても逃げるだけの経済力もない。なにせすべてが壊され、財産なんて何もないのだ。裕福な人たちは金銀宝石があるから、逃げていくための運賃、食費などを満たせる。それでもそれが尽きれば、難民キャンプという地獄に行くしかない。国連は難民キャンプを設置するが、そこに収容する人たちの食料や保健衛生まではきちんとできない。例えば、オーストラリアがリモート地域に持つ収容所でも同じ。理由はどちらも予算がないからだ。金があれば十分な食料確保もできるだろう。だが、世界には難民以上の貧困層で餓死するホームレスもたくさんいる。米国も豪州もそういった人ために予算を優先しろ、と訴える国民が多い。これを差別だと人権なんとか団体は言えるのか?自国民より難民を優先する理由が何なのか?命の価値に格差がない、というのなら、優先順位は国民だろう。こういった当然という視点を口にすると「人権を無視」「差別主義者」とレッテルを貼って騒ぐ組織や団体がある。そして、そういった組織や団体が受ける寄付はどこからかを知ると唖然とする。
元南スーダン難民で今は弁護士になった青年は今年オーストラリアン青年賞を受けて自分には不要といった人でもある。彼が書いた本ぐらいを日本も英語教育読本とすればよい。平易な英語で書かれた文章は主人公の心の変化をうまく表現している。何故、戦争が起きるのか、それに対しても日本人が考える視点とはかけ離れた歴史がある。そうすべては歴史。歴史が戦争を生むといっても過言ではないのだ。だから自分は歴史という学問は不要と今でも思ってる。また、自分の友人で船でここにきた難民の話にしても、映画以上の過激な殺戮が普通にある事実を知った。災害と同じようにある日、突然に殺略も来るのだ。そして目の前で死んで行く家族や友人に対して何もできないし、それどころか自らの命をどう守るのかでせいいっぱいという事実。安全な場所で食べ物も眠る場所も得たとしても、彼らは夢に怯え、日常でもフラッシュバックに苦しむ。治療なんてほとんど効かない。知人のベトナム難民だったお年寄りも同じことをいってる。引退し、時間があるようになってからフラッシュバックや悪夢に悩まされることが増えたそうだ。だが、彼らは孫や友人などと過ごすことでそういった過去より現在の価値がいかに重要かを実感できると言っていた。また、オーストラリア人で日本軍の爆撃で家族を失ったお年寄りも改造車などの爆音で爆撃がフラッシュバックされるそうだ。恨みより恐怖と言ってた。ちらし寿司をあげたときに「これが日本の料理と知っても、大好物へ恨みや怒りはないな。」と言った言葉が重い。つまり、文化や自分たち日本人への恨みや怒りはないが、日本という国への怒りや恨みはあるという意味だからだ。
民族の誇りなど現代ではほとんど意味を持たない。王族だからといっても民が自らの王へ敬意すら持たなければ、法であれこれ規制せざるえない。だが、それは民の心までを支配できる訳じゃない。これは王族だけではなく政治家がトップであっても同じ。民主主義を望むのはこういった理由からだ。それでも人気や一部の要望だけでトップを選べばどうなるのか。日本国民はそれを過去に経験しているのだから、二度と同じ過ちを繰り返さないことこそ、平和を維持できる。決して自国の不戦憲法があるから平和な訳じゃない。未だに複数の国は日本領土への侵略行為を繰り返している。